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2015年10月27日13:21

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病(Krankheit)悪(Böse)罪(Sünde)に対置するもの

ドイツ古典哲学の哲学者
シェリング(Schelling, FWJ 1775-1854)は
病(Krankheit)も
悪(Böse)も
罪(Sünde)も
人間的自由の現れで
それは
逸脱の脱自であると
『自由論(人間的自由の本質)』(1809)の頃から
主張し続けた。

病(Krankheit)は
生理からの逸脱で生じ
悪(Böse)は
倫理からの逸脱で生じ
罪(Sünde)は
摂理からの逸脱で生じる。

シェリングの主張を
シェリング以後の哲学者は
「人間の意識的意図的な自由」
つまり
「人間の恣意」
による逸脱だと
捉えてきた。

Die Weltalter(『世界生成論』1811〜1815)
を構想していた頃までのシェリングにとっては
そうだったかもしれないが

神話と啓示の積極哲学

構想する最後期のシェリングでは
その「自由」は既に
「人間的自由」であるだけではなく
「自然的自由(病や悪)」でも同時にあるし
「超越的存在の自由(罪)」でもある。

つまり
病も悪も罪も
人間が自分自身の責任で意志し得る範囲を
越えた自由

例えば病は
「生理そのものの自律的意志の自由」
によって引き起されている
病の地盤(Boden)が視野に入って来ているし
この地盤ではだから
人間の心理の自由意志としての病だけではなく
人間の身体の自由意志が
病の原因と見なされ
視野に入れられている。

また悪でも
「倫理そのものの自律的意志の自由」
によって引き起される
悪の地盤が視野に入って来ており
この地盤ではだから
人間の心理の自由意志としての悪意だけではなく
人間の倫理の自由意志が
悪の原因と見做され
視野に入れられている。
(それは道徳それ自体が持つ「限界」を意味する。
 つまり「道徳」には
 社会的地位の差異を保持したいという
 「社会的勝者のエゴイズム」の「擁護システム」としての
 絡繰(からくり)が存在していることの
 限界である。
 「道徳」とは結局
 「上位」に立つ者の「エゴイズム」保守の為の
 「下位」層への服従洗脳システムに他ならない。
 道徳では
 上位者(特に最上位者=支配者)のエゴイズムが
 払拭し得ないという
 倫理の限界そのものが
 自由に生じさせる悪は
 (つまり最上位者の自由意志による悪は)
 倫理では防ぎようがない。)

さらには
宗教的な神の摂理では
「摂理そのもの(神)の自律的意志の自由」
によって引き起される
罪の分野(Feld)が
視野に入って来ており
この分野ではだから
人間の心理の自由意志としての罪
(原人間としてのイヴが
 蛇に唆(そそのか)されたとはいえ
 「自分の意志で」
 神による「食べてはいけない」との命令に背(そむ)いて
 「林檎を食べた」という「行為」が
 そしてイヴに誘われてアダムも林檎を食べたことで
 イヴとアダムに「性」と「知」の目覚めが生じたことを
 「原罪」として
 その「責任」を「人類」に帰しているのが
 キリスト教の教義理解だと思うが)
だけではなく
神の摂理そのものに内在する自由意志が
罪の原因と見做され
視野に入れられている。

そこでは
神もまた「罪」を犯す存在であるということが
見て取られるのでなければならない。

ただし
今言った「摂理」に関する解釈は
私独自のもので
シェリングの考えではないかもしれない。

また
摂理そのものに「罪」を犯す可能性を認める考えは
キリスト教の教義理解に反するかもしれない。

けれども
シェリングや西田には
聖域は存在しないので
神もまた
人間と同じように
「病に罹(かかる)るし
 悪を為すし
 (自らが定めた摂理に反する)
 罪を犯す」
と言うであろうと考えられる。

なぜならば
病であろうと
悪であろうと
罪であろうと
その原因が外に考えられる限り
或いは
その行為(病や悪や罪)が
「他律的に引き起される」のであれば
その存在は「絶対者」ではないので
神は
自ら病に罹り得る存在でなければならないし
自ら悪を無し得る存在でなければならないし
自ら罪を犯し得る存在でなければならない。

そうでなければ
神に対して
常に
悪魔(Satan, evil, demon)

堕天使(Lucifer, a fallen angel)

魔神(devil, a malevolent deity, a genie)

神とは異質な
しかも
神と対等な力を持つもの
として
措定されなければならなくなってしまう。

神に
形相(有=善)だけではなく
質料(無=悪)も
内在し
その質料(無=悪)は
しかし
形相(有=善)を
生む
質料(無=悪)である
という考えが出来なければ

因果の連鎖はどこまでも無限に遡及し
結局は
絶対者を見出す事が出来なくなってしまう。

最終的な原因の原因は
結果をも含む原因でなければならず
自己完結者
自給自足者でなければならない。

その考えはしかし
総(すべ)ての存在を
自己完結者として見做す発想であり
誰かが上位者で支配する権力を持ち
誰かが下位者で隷属する従者である
という力関係(上下関係、差別思想)を
廃絶する思想である。

そういう思想は
時の権力者にとって
不都合な論理であり
そのような思想を表明するものは
常に為政者に敵対視されてきた。

けれども
皆が異質で緊張関係の中にありながらも
(つまり各々が独立の個性を持った自由な存在であることが
 保証されながらも。
 なぜならば各々が個性を発揮する自由を主張し合える
 ということは
 緊張関係の発生を前提して許容しなければ
 各人の自由は保証されないからである。)
それぞれが独自性を充全に発揮し得る社会環境(場所)は
上下関係を幻想として斥ける思想環境(場所)の
元(もと)でなければ
成立し得ない。

病(Krankheit, disorder)と
悪(Böse)と
罪(Suunde)に

対置するものは

健全(Gesundheit, order)と
善(Gute)と
無垢(innocent)

であろうけれども

絶対者を考えるのなら
その両方が
Doppelwesen(二重存在体)として
内在されていなければ
絶対存在ではありえない。

つまり
絶対か相対か
という思想枠組みの中では
どこまで行っても結論は出ない。

そうではなくて
絶対であると同時に相対であり
だからこそ
絶対者(無制約者)であるということと
相対者(有限者)であるということが
矛盾しながらも
それゆえに
緊張関係の中で
体を成すのが
本当の絶対者(超越者)というもので
その意味で
西田が最後の論文(「場所的論理と宗教的世界観」)で
言ったように
超越的方向に見られる内在ではなく
内在的方向に見られた超越にこそ
本当の絶対者は
思惟され得るし
また
存在すべきであろう。

でなければ
どこまでも
自分自身の外に
他者の陰が付き纏い
その他者が消えないから
である。

病と悪と罪に
対置するものとしての
健と善と浄が
病と悪と罪の
「外側」に措定される限り
因果の連鎖は無限に続く。

因果の連鎖が無限に続く思想の枠組み
の中では
原因はどれほど原因のように見えても
結局はその原因の背後に別の原因が思惟される限り
その原因は原因ではなく結果でしかない。

つまり
因果の無限連鎖の中では
結果が永遠に続くだけで
どこまで遡っても
第一原因へ辿り着けないことになる。

その無限連鎖を止めるのは
自らが結果でもある原因でしかない。

自分自身の中に
原因と結果を含み得るもの
だけが
第一原因の資格を持つ。

自分自身が
病に罹る自由と健全で居る自由との
(悪を行為する自由と善を行為する自由との
 また
 罪を犯す自由と無垢で居る自由との)
両方の自由を
同時に所有しているもの
したがって
そのどちらにも
存在価値を認め
これを排除したり
消し去ろうとしない
そのような
揺れ動く精神(schwebender Geist)だけが
本当の意味での中庸(メソテース)の精神
であろう。

そのような立場で

裁判官や
医師や
教育者は

検察官と弁護人
患者
生徒を

判断して
行為(判決と執行、診断と治療、審査と判定)
してほしいものである。

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最終更新
平成27(2015)年10月27日 午後2時19分
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