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2015年10月05日20:22

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「淡々と解決していく・・」

先日の記事はなかなか素敵な内容だったのであるが、あれで終われば「いかにもなスピリチュアル」な内容で「ええ格好しい」ことこの上ないのだが 実は決して「完全『美代ちゃん』絶ち」してるわけではない。


・・ネカフェにいる間には、USBメモリーやらSDカードに収めてきた各種美代ちゃん歌曲&美代ちゃん動画を鑑賞できるわけだしね・・今回もまた居室にはもちろん「美代ちゃん」の写真を飾ってある!!ことはいうまでもあるまい。


しかも未練たらたらであれこれ携帯をいじくり回していたら「通話設定」の項目に「国際カテゴリー」があって、「海外事業者の手動選択」をしていくつかリストアップされたところを順次アクセスを試行したら、なんとうまい具合に「自動ネットワーク調整」が接続され、調整が完了・・・かくしてカメラも音楽プレイヤーも機能復旧。


おお、これでまた「美代ちゃん」歌曲を思う存分堪能できるではないか、わははははは・・・・・!!!!!



しかしまあ、今回のこの事件?から学ぶべき点があるとすれば、「静謐さ」のためにも、「ネット絶ち」だけでなく「音楽絶ち」というものも定期的に実施した方が良かろうな・・・ということですな。

要するに頭脳活動上の「断食」みたいなもの、ともいえるだろう・・そもそも「瞑想」という営為もまた然り、「想念」なるものを絶つわけである。



さてこの問題は解決されたのだが、実は時を同じくしてもう一つの問題が生じていたのだ。

なんと「カップめん」が周辺のお店から一斉に「姿が消えている」!!・・・というこれまた想定外の事態なのである。


かろうじて外国人向けの「ラマナ・スーパー」には、シンガポールからの輸入品が数点並んでいるが、これは輸入物だけに値段が高いのである。

で、「インド日清」製のまさしくカップヌードルを始め、インド国産メーカー製品のカップ麺が全然店頭に並んでないのである。


ううむ・・・何を今更?と思われるかも知れないのだが、私の場合ギリプラダクシナ実施時間帯がアシュラムの夕食時間とぶつかっているので、歩く日は夕食抜きになる。

(もっともアシュラムの夕食では、私は大概「フルーツ&ミルク」だけにしているのではあるが・・)。


しかし13キロ半を歩いてくるとさすがに「腹が減る」のである(笑)

かくしてカップ麺の出番なのだ!!・・実際歩き終わって部屋に戻り、シャワーを浴びてさっぱりし、「やれやれ、今日も歩ききったなあ・・」と安堵しながら食べるカップめんは、アシュラムの食事同様に「べらぼうに美味い!!」のであるよ。


歩く途中で土砂降りの雨に降られて体が冷えてしまった時などは、「部屋に戻れば熱いカップめんが待っている!」というのが、結構リアルに励みになったりもするのですなあ・・・。


こうなると、ギリプラダクシナを終わって部屋に帰り着いたとき、「カップめん」が無い・・・というのがいかにダメージが大きいか、ご想像いただきたいわけである(笑)。


で、これについては「音楽絶ち」のような高尚な能書きは無しにして、
早速「代替案」をひねり出したのざんすよ。

もっともそれほど画期的なご大層なアイディアではなく、カップめんがないのなら、普通の袋詰めの「インスタント麺」を調理しようではないか!!・・・というだけの話なのですな。


お茶やらコーヒーを自室にて飲めるように、湯沸かし用電熱コイルは私の「旅の必需品」で、台湾製のしっかりした奴をこれまた18年近くも愛用しているのだが、大きめのカップとこれでインスタント麺を茹でるわけである・・・付属の粉末スープを混ぜて出来上がり。

調理などと言うのもおこがましい、だからこその「インスタント麺」なのだが。


しかし初回はお湯の量が多すぎた模様・・・薄味マサラタイプのスープと相まって味はイマイチ、具も全く入ってないし。

そこで日本から持ってきた「インスタント味噌汁」を混ぜて「味噌ラーメン風」にしたらかなり美味くなった・・・もっとも残り19個、本来これは「非常用(体調悪化時などの)」なので毎回使うわけには行かない。

濃い味マサラタイプのスープのものにして、お湯の量を加減すればまあどうにかなるかな?・・・次回への教訓?としては「乾燥わかめ」とか「野菜ふりかけ」が欲しいところだ。


何か「具になりそうなもの」を探してみよう・・・と検討中の今日この頃なのであった。


アシュラム生活といってもかように「日常的な諸問題」と無縁にいられるわけではないのざんすよん。


人生もまた然りでないだろうか?

どれだけあれこれのスピリチュアルなアプローチに専念していようと、それによって「日常的な諸問題」が直接きれいさっぱりと解決されるわけではない。


それらは身体的存在を生きていく以上は、「無限に生起し続ける」ものなのであり、ただそれらに振り回されずに「淡々と解決していく・・」だけのこと・・・というのが、オルタナティヴな霊性の道の歩き方なのではなかろうか?

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