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2014年08月17日12:50

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今年のお盆

1年前の今頃は、米国からの帰国旅の疲れ、猛暑、夏風邪でヘロヘロしていた。今年のお盆は、「やけどの治療通院もあり、少しく自重して」と、あらかじめおとなしく過ごそうと決めていた(幸い、やけどの予後は極めて良好で、お盆に入る前に通院の必要は無くなったのだが)。
昨夕には五山の送り火も焚かれ、はや今夏のお盆も過ぎた。振り返ると、私奴のお盆はノンビリ過ごしたような、それなりにバタバタしたような、といったところだ。

10日。お盆に向けて読もうかと、図書館に出かけ本棚に並ぶ本の背表紙を眺める。お盆に因んだ本でも読むのが良かろうかと、講談社学術文庫に入っている山折哲雄さんの本を片っぱしから借りだした。『神と翁の民俗学』『仏教民俗学』『仏教信仰の原点』『仏教思想論序説』。

晩酌のお陰で早々に寝たので、夜中に起き出し朝まで『神と翁の民俗学』を読む。
とりわけ第二章の「古代における神と仏」が、日本の神仏関係史の視点で興味深く読めた。
辻善之助の「神仏関係の調和の形の実証」と、津田左右吉の神仏の不協和面の思想史的側面からの指摘(善之助定説批判)をベースに、家永三郎・田村圓澄さらには原田敏明による議論深化のプロセスの骨格記述が手際良く整理されていて、門外漢たる私奴にとって大変参考になった。
(当面、神仏関係史に関する下勉強をしている段階なので、山折さんには申し訳ないが、「神と翁」に関する山折さんの考察については、斜め読みに終始した。)

11日。朝から大阪にいる兄貴夫婦と一緒に、お盆の交通渋滞を避けての早い目の墓参り。しかし、既にお盆交通狂想曲は始まっているらしく、墓に着くまでに結構時間がかかった。
念入りに草むしり・掃除をし手を合わせた。iPhoneで写真を撮り、もう一人の兄や甥・姪・我が子達に「チャントお参りしておいたよ」とメールで報せもしておいた。
(一応、我々の子供達世代に「先祖を大切にね」というメッセージのつもり。それに、こんな折でもなければ、お互いに交信はほとんどない!)。

昼食時、病気療養中の身内の一人が病院に緊急搬送されたとの報せがあり、急きょ京都にとって返す。詳細分らず、「先日、別な身内の一人を失ったばかりなのに!」と気色ばみハンドルを握るが、あいにくの渋滞。加えて、もうすこしで高速道でのガス欠立ち往生に陥りかけて、随分と手間取った。
病院の受付では、「もっか緊急手術中、どなたの面会もお断り!」と、取りつくしまもない。が、どうやら当面の事態は落着きつつあると分り、何本か電話連絡をした上で帰宅した。

12日。朝から女房殿と再度病院へ、少しばかり病人とも話をすることが出来た。しばらくは入院せざるを得ないようだが、緊急手術が効をそうし一応の小康状態を保つことができていた。心配した事態には至らずに済んで、ホッとした。
午後、帰宅し『仏教民俗学』を読む。我々の生活習慣や行事・民間信仰などについてのエッセイ風の文章が続き、時々ウトウトとしながら気楽に読んだ。
余談だがネットで「お盆」を検索すると、「当然、仏教行事ですよ」との姿勢でのHPが目立ち、「いやいや、先祖供養は本来はコチラ」との神道色のHPがかなり力弱いような気がする。やはり、「お正月は神棚・神社に向かい、お盆は仏壇・墓・お寺へ」なんだな?

13日。別段何を買いたいということもないが、運動を兼ねて、毎年恒例の下鴨糺の森で開かれている納涼古本まつりに出かけた。本の紙魚みたいな人達で結構な賑わい、木陰がすずしい。
ふっと、1冊の本が目についた、『古池に蛙は飛びこんだか』。何だか気が引かれるタイトル、著者の長谷川櫂は俳人、以前NHK俳句に出ていて、句の「切れ」だの「切字」だのと解説していた人。私奴は俳句などは殆ど無縁なのだが、女房殿へのゴマスリ用おみやげとして買った。

帰宅して手渡したら、「なに?長谷川櫂さん?」と気乗りのせぬような反応。どうやら、女房殿の属する俳句結社とは、作風というか流儀というかが違うみたい。なにしろウロ覚えの名前とタイトルだけで購入したのだから、「NHK俳句での「切れ」の解説なんかは、結構分りやすく、面白かったけどなあ」とぼやいてみるより仕方なし。まあ、敵のフィールドで戦を持ちかけるのは得策ではない。

14日の終日と15日午前中は、ゴーヤ・カーテンのお陰で淡いグリーンに染まった部屋で、本を読んだりTVで高校野球を観戦したり、ウツラウツラと昼寝をしたりして過ごした。
『仏教信仰の原点』を流し読み。我々今日の日本人は遺骨へのこだわりが強い。昭和万葉集ではしばしば見られる遺骨にかかわる歌が万葉集では見受けないなどの話が面白かった。遺骨や墓の話は、お盆の折がらにふさわしい?(^^)。

『仏教思想論序説』は山折さんの極めて初期の文章らしい。タイトルからして厳めしいし、文庫本のための「まえがき」にも、「肩ひじはったようなところ、大上段にふりかぶったようなところがあって、こんど読みかえしてみて、いささか面映ゆい」とご自身で書いておられる。30〜40頁も読んだところで、肩は凝ってくるわ、さっぱりワカランワで「コリャ、アカン!」と読むのを放棄した。

15日昼過ぎ、女房殿の両親の仏前に手をあわせに、義兄宅を訪問。義兄は開業医で、11日の敏速な入院のなどは全てを采配したものだ。いろいろと情況を聴く。聴きながら、わが身のノンキさに気付き、心なしか反省せざるを得なかった。

帰宅後、キッチンのテーブルに転がっていた『古池に蛙は飛びこんだか』に手をだしてみたら、結構面白いので以降この本に集中し読み切ることにした。(いい買い物をした!女房殿なんかだけに読ませるのはモッタイナイ本なあと)

芭蕉の句、「古池や蛙飛びこむ水のおと」は、昔から「古池に蛙がとび込んで水の音がした」という情景を句に仕立て上げたと解釈されているが、長谷川櫂さんは本当にそうか?「ほんとうに蛙は古池に飛び込んだのだろうか」「そう解釈するとおかしな問題がいくつか出てくる」という。

いろいろ詮索した結果、実際に蛙が飛びこんだ時の水の音を聴いた芭蕉は、その音によって芭蕉の心象風景にある「古池」に思いをはせたのだ(「や」という切字はそのために使われている。心の中にある古池に現実の蛙が飛び込むわけにはゆかんだろう)と、長谷川櫂さんは言う。
そして、「実際の事象を見聴きして、それによって自らの心の世界を切り開く」これこそが蕉風そのものなんだ、だから古池の句は蕉風開眼の句なんだと。

この説を起点に、この本は以降、俳句でいう「切字」「一物仕立て」「取り合わせ」などの概念を説明しながら、『奥の細道』『猿蓑』における蕉風を次々と解説してみせる。
(「この間の長谷川櫂さんは、まるでシャーロック・ホームズばりだなあ」と、俳句なんぞには疎く俗っぽい私奴はしきりと感心しながら読んでいた)

16日。朝から再度、病院に。かなり元気を取り戻していた病人とアレコレと会話。何がしかの件については、代行して私奴の方で処理しておくから安心して療養するようにと言って面会を終えた。
帰路、コーヒーショップに立寄り女房殿の顔を眺めながら、「我々二人ももういい歳だ、もう少し先行きの生活について、シッカリと真剣に考えなあかんな!」と。

夕刻、五里五里の郷はまだ少し雨が落ちてきている程度だが、京都市内は激しい雨だとか、「五山の送り火はどうやろう?」と思案していたが、ニュースでは夜には雨もやみ予定通り点火され夏の夜空を焦がしたと。
どうやら、なんとか夏の峠は越えたようだ。
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