以前はアシュラムの夕食については供される定食メニューではなく、「フルーツとミルクだけ」にしていた・・・食堂では夕食に関してはその「フルーツとミルクだけ」の人のための席が設けられていて、そこに座れば良いのである。
まあ以前は午前中にヨーガアーサナとか太極拳とかのエキササイズに取り組んでいたので、朝昼夕の3食と夜のおやつ?(これは自前)では胃腸には多すぎた感があったから・・・ざんす。
ギリプラダクシナも長らくこの「フルーツとミルク」だけの夕食をいただいた後出かけていた・・・のだが、昨年からスタート時間をかなり前倒して現在では概ね晩の5時半出発である。
終わって部屋に戻ってくるのがおおよそ午後9時なのだが、当然この日は夕食(7時半)を抜いて歩くのですな・・・
しかし今回の滞在では非常に体調が宜しいので?、夕食もかってのように「フルーツとミルク」だけではなく定食メニューを頂いている・・ので、
夕食抜きで13キロ半の道のりを歩いて帰ってくると当然のことながら、「腹が減る」のであった・・・夜のおやつだけでは足らない(笑)
・・・・というわけで登場するのが、「インド製カップめん」なのですなあ。
左は「インド日清」のまさしく「カップヌードル(パッケージデザインが日本のものと同じですな!)」、右がインド国内メーカー大手の「マギー」製。
どちらももちろん「ヴェジタリアン」仕様であり、ラード始め豚骨やら鶏ガラなどの動物由来原料が一切入っていない・・・ので、日本の「ラーメン」とはまるで違うお味である。
まあ基本的に「マサラ味」なわけで、「カレーヌードル」からラードや肉片を取り除いたようなもの・・・を想像していただければ近いかな?決して「激辛」ではないよ(笑)
お値段は38〜40ルピー・・日本円にすると約60円、日本の物価感覚ではお安いのだが、こっちで街の安レストランなら40ルピー出せば、定食を腹一杯食べられる・・・ことを考えたら決して「安い!」商品ではない。(日本のどんな安い飯屋でも、「カップめん1個のお値段」で腹一杯にはなるまい)
アシュラムのゲストルームにはキッチンはついてないし、古い部屋だとお湯が出ない・・・ので、自前の「湯沸かしコイル」を使ってお湯を沸かすのである。
これは私には「旅の必須アイテム」で、台湾製のものを既に10数年愛用している・・・これさえあれば、いつでも好きなときにお茶できるからねえ。
もちろんアシュラムで供せられる飲み物は大変美味しいのだが(なんせミルクの品質が段違いざんす!!)、たまにはスッキリ系のもの(砂糖・ミルクなしで)や、日本茶なども飲みたいではないか!!
あるいは今回はまだ未開封のままだが、「インスタント味噌汁」なんていうのも、この湯沸かしコイルがあれば大丈夫!・・・というわけで皆様にもお勧めの「旅のアイテム」なのだ。
もっともインドだと、硬水なのでコイル自体にびっしりミネラル質が付着していく(依然「シャワーヘッド」の目詰まりの話を書いたように)。
まあこれは別に害はない。削り落とせるし、そのままでもそんなに不都合はない・・・それよりも困るのはいうまでもなく「停電」である。
さあ、お茶にしよう!と準備して、お湯を沸かし始めた途端に停電・・・これほど腹立たしいことはない(爆)
ということで、例によって・・・・
本編 「虚構とリアル」 その8
浅田美代子が吉田拓郎と結婚して芸能界を引退した1977年、私は16才の高校2年生だった・・・その年の私にとっての最もエポックメイキングな出来事の一つは、「クラシック音楽」との出会いなのであった。
それはベートーヴェンの5番交響曲・・昨今ではどうか知らないが「挫折した人間」が腹の底から勇気を振り絞られるように再び立ち上がる・・・のには大変効果的な?「定番」音楽ではある(もっとも美代ちゃんが拓郎に嫁いでしまったのが「挫折」体験だったのではない・・笑)。
・・・ここでその詳細を語り出すとこの論考がいつまでたっても終わらなくなってしまうのでそれはまたの地の機会に譲るとするが(笑)、とにかくその出会いは「晴天の霹靂」というに相応しい、とてつもない感動・感銘の体験だった。
それ以来現在に至るまで、「クラシック音楽鑑賞」は私の趣味の一つであるわけだが、
音楽がもたらす感動・・・それはやはり「力強さ・美しさ・崇高さ、そして安心や平和」そのものである・・・ただしそれが「そのもの」であるのは、完全にその世界の中に入り込んでエゴが機能停止し、「合一」している状況の時である。
当然この「感動」を、「力強さ・美しさ・崇高さ、そして安心や平和」を再現したい、何度でも繰り返して体験したい!!・・・という気持ちが生じてくる。
なんというかそれを「所有」したくなってくるのですな・・この辺から話が怪しくなり、「力強さ・美しさ・崇高さ、そして安心や平和」そのものから遊離し始めていくのだ。
さて「音楽」あるいは「音楽的感動」を所有する・・・にはどうしたら良いか?
・・・もちろん「現象」として生起する音楽とそれに付随して発生する感動そのものを所有する・・ことは出来ないわけで、そうすると次善の策として「記録」として残されたもの、を所有するしかない。
その「記録の再現自体の価値評価」はこの際不問とするが(これを論じ出すとやはりいつまでたっても終わりがこない・・笑)、いつの間にかその「記録媒体」というモノを所有する喜びというのが生じてきて、あれも欲しい!・これも欲しい!(もちろん「聴きたい!」が先行するにしても)というコレクション行為が始まり、やがては・・・
「私は『エロイカ(ベートーヴァンの第3交響曲)』のレコード(音源記録媒体)を100種類集めた!!」
・・・などと言ってそのコレクションを「自慢する」ようになるのだ(私の実話ざんす・・笑)。
確かに同じ曲の100種類もの演奏を聴く・・・とそれぞれに微妙なあるいは明らかな違いがあり、なんと表現とは多彩になりうるものか!という発見始め様々な楽しみ・歓びはあるわけで、それは実際「かなり高雅なる娯楽」そのものである。
・・だが専門家でもないのにどうして100種類も聴く必要があろうか?
実際には、専門家でもないのに100種類も「所有」している・・ということが重要になってくるのだ、それが「私なるもの」の中味の物語を高めてくれるからである。(あるいはそれで「専門家」になったかのような自己陶酔に浸る・・という虚栄心のマスターベーションである)
まあそうやって次第に「オタク」化していく・・わけですな、もしそれ以外に他者との関係性の中で「優位」を感じられる項目が無い場合には、それは「私なるもの」にとっては「絶対的聖域」としてのアイデンティティへと増長肥大していく・・・
そのことは「音楽」そのもの、あるいは音楽がもたらす「力強さ・美しさ・崇高さ、そして安心や平和」とは全く異なる・・・ものであることは明白である。
そしてそれは何も音楽に限った話ではない・・・・例えばそれは「ナショナリズム」であったり、「平和運動」であったり、「宗教」であったり、「スピリチュアル」であったり、「政治的信条」であったり、「市民運動」であったり、「スポーツ」であったり、「芸術」であったり、「学問」であったり、「ビジネス」であったり、「趣味」であったり・・・
いやおよそありとあらゆるもので、それらを「所有」することで「熱狂的に」同一化しようとする時、肝心の「当のものそれ自体」からは大きく遊離していくのである。
そして今度は話を、「宗教」とか「スピリチュアリティ」の方に集約してみよう。
例えばこういう質問を立ててみる・・・
私はご存じのように、「ラマナ・マハリシに深く心酔し、彼のことをサットグルとして尊敬し、全てを明け渡しているバクタである」・・・ということになっている?わけだが、
ではこの、
「ラマナ・マハリシの教えに深く心酔し、彼のことをサットグルとして尊敬し、全てを明け渡しているバクタである」
・・・ということが「私なるもの」の中味の物語の最大のテーマであり、究極・絶対的なアイデンティティである・・のだとしたら、
これは果たして「適切な」状態と言えるのだろうか?
次回に続く
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