「ディーパム大祭」までは静かな日々・・・だろうと思ったら朝からやたら騒々しい、花火や爆竹がそこら中で華々しく盛大に鳴り響いている。
そうなのだ、「ディワリ祭」があることを忘れていた!・・これは全インド的なお祭りでほとんど市街戦?のように、ひたすらドンパチと騒々しくけたたましい花火・爆竹合戦なのですな。
こちらの定住者の話では、
「近年爆竹の値段が上がって、貧乏人には購入がしんどくなってるから、以前に比べたら随分おとなしいでしょ?」
とのことだが、そうかしらん?・・・まあ私はあんまり「ディワリ祭」の時期にこちらに来たことがないので、「以前の騒々しさ」の記憶が定かではないし、これでも充分騒々しいと思うのだが(笑)。
週末とも重なって、あの静かなる日々はたちどころに消散し、アシュラム内も再び混雑しているざんす。
当初は先日紹介した「貯水場」へ再び行ってみよう・・と考えていたが、こんな時に外出したらどうなるか?
外国人というのは「格好の標的」なのだ・・そこら中から爆竹が飛んでくるわけですな(爆・・文字通り)、こんな日はおとなしくしているに限るのだが、さてネカフェまでは行けるかな?(この日記は部屋で書いている)
それに商店なども休みになることも多いから、あるいはこの日記は明日(3日)の掲載になるかも?・・・ざんす。
確か新月に「ディワリ祭」があって、そのまま満月になると今度は「ティハール祭」だったかな?・・・これまた全インド的なお祭りだが、「ディワリ祭」と正反対の静かな「光の祭典」なのですな。
で当地ではその「ティハール祭」ではなくて、「ディーパム大祭」になるのである。
もっとも満月の日没時にアルナーチャラ山頂に聖火が点火されるわけで、やはりそれは「光の祭典」なのですな・・バガヴァンのサマディも沢山の灯火で美しく荘厳されるのざんすよん。
ということでお待ちかねの? 長広舌の続きなのだ・・・・
本編 虚構とリアル その5
前回の最後は、
>>>>>>>>>>>>>>>>
実際には「私なるもの」という感覚は、
「一つしかない共通のもの」
を、個人がバラバラに「中身としての物語」によって、身体的存在にとって固有のものと認識しているだけなのだ・・・とはいえないのだろうか?
しかもその感覚には実体としての対象はなく、そのようなリアリティだけがある・・・のかもしれないではないか。
「私なるもの」があたかも「実体があるかのような虚構の」リアリティとして機能している・・・・
のかもしれないではないか!!
<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<
と、何だかこの論考のクライマックスを予感させるかのような文脈となってきて、さあこれからどのような展開があるのか?
しかしここまで話を進めてきたところで、皆様のご期待を裏切って(あるいは待望の?)再び「美代ちゃん」の話題が登場するのだ(笑)
・・それに前述の命題は、私の頭脳では現状ここまでの展開が限界なのである。
実は本来はこの論考は、この命題を提示して完了するつもりだったのだが、今回アシュラムに滞在するようになってから全く予想外に、
「美代ちゃん」に関する新しい(そしてかなり「衝撃的な」?)エピソードがもたらされ、そのことがそれまで企図していた論考を更に進展させる契機ともなったからなのだ。
こちらで親しくおつき合いしている現地定住日本人の一人で、既に定住28年目を迎えるという方がいらっしゃるのだが、その方とあれこれお話している中で私は例によって?「美代ちゃん」の話を持ち出した(笑)。
相手は私より一回りほど上の年代であり、当然ながら「40年前の美代ちゃん」をリアルタイムで知っている世代であるわけで、私は前半の「美代ちゃん論考」で展開したような「音痴ではない!!」事実を熱烈に語っていたのだが、
その方はなんと意外なことに・・・・
「日本に住んでいた時分に、アイドル時代の浅田美代子の付き人だった人と知り合いだった」
とおっしゃるではないか!!・・・
おお、その伝手を辿ればもしかしたら「現在の美代子さん」にアクセスできるかも?・・・などと、ご都合主義的な妄想が瞬間去来したのだが(笑)
しかしながら、その後に聞かされた話・・・がその妄想を打ち砕いたのである!!
「その人の話によると、当時の美代ちゃんは男出入りが激しくて、避妊もしてないから何度も妊娠・中絶を繰り返した・・・それで身体を傷めてしまったので、吉田拓郎との結婚生活では子供が出来なかった・・らしい」
という「美代ちゃん」ファンにはあまりにも衝撃的な内容ではないか!!
・・・しばらくショックでご飯も食べられなかった、というのは大嘘である(私がアシュラムの食事を抜くわけがあるまい・・笑)にしても、かなり当惑したのは事実である。
しかし、ここでよくよく考えてみると・・・
「どうして私はこの話の内容に当惑するのか?」
というのが、案外今回の論考の最大のテーマである「エゴとの関わり」に重要な切り口を示唆してくれるのですな。
まずこの話の真偽は問題ではない・・・「人から聞いた話」を人から聞くという「二重伝聞」だし、仮に確かめたいとしても確実な真偽は、
「浅田美代子」本人の口から聞き出すか、「当時の中絶手術をした医者(が存在するのなら)」から聞き出すか
・・しかないが、それはおおよそ非現実的である。
そしてもし仮にこの話が真実であったとしても、そのことがいかなる意味を持つのか?
第一これは既に40年ほど昔の話なのである・・・本人もすでにその件は「大昔の出来事」として心理的に昇華され、今更どうこうする話題ではないかもしれない。
そして一番肝心なことは、そもそも私は浅田美代子さんご当人とは「全く面識がない」のである。
家族親類縁者友人知人のいずれかならばいざ知らず、リアリティのひとかけらもない「全く交流のない赤の他人」である人物の、40年前の事実かどうか確証も得られないエピソード・・・なのである。
それが真実だろうと虚偽だろうと、私の生活にとっては利益にも不利益にもなりようはずのないエピソードである。
論理的にはそういう類の全く無駄な話でしかないはずである。
それなのに、どうして私はそれを一時的であれ「衝撃的」に「当惑」を感じたのであろうか?
・・・これは実は「エゴの本質」そして「崇拝する行為の本質」を顕著に示している例であるのだ。
次回に続く
ログインしてコメントを確認・投稿する