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2012年12月19日12:06

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選挙等世の中盛り上がっている中

でもセッション日記。

とりあえず選挙はアレだ、
入れたい政党がある人はともかく、
入れたい政党がなくてしょうがない消去法っつったときに、
勝利のわかってるところになお票を投じる、
といういかにも日本人的な現象は
(なんだろう、「自分の入れた政党は勝てた」みたいな自己実現感を得られるんだろうか)
ちょっともったいなさを感じる。と言う所感で。

…各意見がそれぞれ的なんぞ射てようが射てまいが
ストッパーがいて「討議できる」空気があるだけで十分価値があるだろうに。
あんまり行き過ぎたおかげで、
某党員自身まで恐縮して「謙虚に」とか「行き過ぎないように自分を抑えて」とか連呼するようになってるじゃないか。


土曜日は咲さんの結婚式にいってきたからセッションなし。おめっとさんでござんす。
日曜日はBoA、私GM。私を忘れたあなたがたに会うために、長いたびをしてきたのです。の巻き。




シナリオの元ネタはZAZENBEATさんとこのCERAMIK HEARTから。
白蓮さんが人間をやめた日のお話を
BoAにあわせて”アクシス教皇”センテンティア二世さんが不死を得ちゃった日の話に。


あらすじはほぼ原作のまま。
ただ、ヒロインを一人追加しています。

「魔術で不死を得た教皇」と、
「件の教皇の生まれ変わりと思しい女性」を巡るお話。

あれ?生まれ変わった女性がいるなら、
不死の怪物として稼動している教皇は一体なんなの?どっちか偽者なの?

というところです。


PC1と旅を共にしている不死の怪物アクシス教皇は、「探していたものが見つかる気がする」と言って、
分かれ道で一度別れ、そのまま帰ってこなくなります。


PC達が宿を取るべしと向かった村には、
アクシス教皇の生まれ変わりか、と言われる娘がおりました。

彼女は一つの悩みをかかえ、日に日に不健康に衰えていきます。
何かを忘れよう、見ないようとするかのように、生業である薬師の仕事に没頭していますが、
とうとう聞き出せた話では、
「亡霊」が現れ、毎日家に石が振ってくるなどの霊障(?)が現れているという話。

それが、アクシス教皇本人のような姿
……つまり自分そっくりな姿をした「亡霊」。


亡霊のいわくでは、

「何故私を置いていったのか」。

アクシス教皇には、生前(?)影武者がいました。
破門され、次代教皇に追われる折、
逃亡の時間を稼ぐために影武者をかって出た、
驚くほど容貌の似た、親友であった枢機卿サヴェッリ。
捕らえられた先で、国王軍の兵士の暴行による傷が元で、亡くなったといわれます。


もしかしたらそうした人の思いが関わっているのかとも思われましたが、
しかし
「自分で望んで影武者となった」彼女が、
「何故置いていった」というのもぴんときません。


…その村の側に、誰にも見つからぬようにひっそりと作られた塚があります。
PCがそれを探ると、
……なんとアクシス教皇の隠された分墓であることが判ります。

誰にも知られるべきことではないが、
サヴェッリ枢機卿の死に様を聞いたアクシス教皇センテンティアは、
それ以来、何かに取り付かれたように、今までにもまして魔術研究に没頭するようになり、
最後には、
怪しげな魔術円の中で、

己の心臓を抉り出して、自害していたと。


この分墓には、そのときの心臓がおさめられているとか。


……あるいは、
現れた亡霊とは、
「先に死んでしまったサヴェッリに、置いていかれたセンテンティア」という構図かもしれませんが、
にしては死に方が手が込んでるというか魔術的に過ぎる。あせって追いかけた感じではありません。


シナリオ開始時にふらふらどこかへ姿を消した妖怪アクシス教皇について、
その「どちらか」の転生先であるヒロインに距離的に近づいたことで、
なんというか怪物の本性むき出しになって
亡霊作業に身をやつしてしまったのかと心配されましたが、
ちゃんと正常な状態で回収されました。


その彼女に「人間を辞めた日」の事を聞いてみると、
しかし全然覚えていない様子。
それどころか思い出そうとすると吐き気を催し、存在が消えそうになる始末。



オービスのPCが「杯の女王」をかけ、過去視を試みることで、
その真相にたどり着くことに。


サヴェッリの死によって、
己の死、近しい人の死、そうした「喪失」にわずかなりと恐怖を感じてしまったアクシス教皇は、
前半そこから逃れるために、
最終的には「その恐怖を魔術的に克服するために」、
「自分の命を神にささげてみる」という苦行に手を染めたこと。
自分の命を自分の外に出し、
「自分」に「生きている間に行う使命」だけを残して、
使命を終えるその日まで自分が消えない……「死なない」と言う魔術を作成したこと。


術の要旨として、
とうとう友を救えず、それを代償に永らえた「罪深い自分」が、

いまだに自分の欲と恐怖から生きながらえようとしているなら、来世により強い罰を受けるだろうこと、
逆に心底、信仰と利他のためだけにこの魔術を行えたなら、友に預けられたこの生を以後なお続けられるだろうこと、

己の行く末を、神に問うたのだということを、
PCも知ります。


妖怪アクシス教皇は、ちゃんと本人。
とするとどうやら、ヒロインさんは、誰恨むことなく転生できたサヴェッリ枢機卿。


では、「亡霊」はなにかというと。

あの日、
教皇が自ら抉り出した、「心臓」のアンデッド。
あの日置いていった、祭壇にささげた、
アクシス教皇の「死への恐怖」そのもの。
サヴェッリの死を悼んだ、喪失感そのもの。


「なぜ、私を置いていったのですか」。




……どんな宗教を見ても、
直感的に理解しがたい、
それのどこが正しいのか判りにくい「教義」、「善行」というものがよく存在します。

こいつを理解するには、当時の人々の文化、考え方をよく知る事はもちろん必要ではあるんですが、
もう少し哲学的に、
「その行いの、一体”善い”部分とはどこにあるのか」を
検討してみるということで、
「そういう考え方もあるんだー」というような、
それっぽく大げさに言えば「善の新しい発見」につながることと言うのは
宗教哲学かいわいではそう珍しいことではありません。


今回のは、キリスト教でアブラハムが息子のイサクの命を迷いなく神にささげようとしたエピソードが
多少含まれています。
この話はこの上ない「善行」として数えられておりますが、
直感的にはやっぱり受け入れがたい行為なので、
キリスト教内でも随分議論されたようです。



……BoAの話に戻りますが、
キリスト教がネタ元の一つになったと思しい真教は、
基本的に現世否定(生きること事態が苦しい地域で集団を対象として宗教できるとまずこうなるんですが)で、
「苦しい生をなぜ生きねばならないのか」を説明してくれるわけです。

生きてても、いい事なぞ8割がたないまま死んで行く人のために
「来世」の話をするわけですね。
「今世」をちゃんと生きないと、良い「来世」が訪れないよ、と。
キリスト教のままならこの「来世」はそのまま「天国」のことなんですが



真教は、聖痕がすべて天に帰るまで、何回死んでもツラい今世に転生しなおしてきて
人類の原罪についての贖罪が終わるまで、コレを繰り返すという厳しさ!
…生きることがつらい事、ということがわかりにくい文化の人だと(ゲームに現を抜かせる程度の現代日本人とかね!)
転生はむしろありがたいことっぽく受け取られることが多いですが
宗教としての至上目的からみれば、繰り返される人生とか、終わらないペナルティにすぎません。この辺は仏教的。


いわゆる「煉獄」が現世に相当している感覚でしょうか。
(殺戮者が落ちていった先の”闇”こそそうかもしれませんが)

というわけで人生は贖罪です。


さて、人がわざわざツライ目に自ずから会おうとする時ってのはどんな時でしょうか。
これはむしろ日本人のほうが共感を得やすいところですが、
往々「責任を取らなきゃいけないとき」です。


過去の自分たちの責任(”転生”があるということは、罪を犯したのはよく知らん祖先ではなく自分自身ということになりますね)
あるいは、
未来の自分たちの責任(こちらは”子供たち”と言う言い方をしたほうが受け入れられやすいのかな)
のために、
贖罪作業をキチンとこなしておかないと、
次の休みが取れない。
「安息の日」が訪れないわけですね。


なので、
「ツライ生を、しかし自害などして職務放棄し・逃げ出すことなく、ちゃんと最後まで全うする」
という教えになるわけです。




ちょっと前に「BoAで白蓮を作ろう」と思って、
700年前に魔術に傾倒し放逐された教皇、という公式の記述をもとに
「魔術の末に不死を得てしまった教皇」を作ったのが今回の話につながってきた流れになります。



さあ上記の教義の中で、「不死を得る」って、ややもすればすごい冒涜的です。
闇に堕ちてたって不思議はない。
ちゃんと生きて、死ぬときに死なないと、贖罪にならないわけですから。
しかもその過程の中に、あわや「自害」になる可能性のある行為が含まれている。



当時革新的な立場にいた魔術教皇は、
しかし信仰原理としては、

・生きよう、死ぬまいという努力を、神は認めてくださっている
・それは端的に、このつらい生を「死ぬ瞬間まで続けようとする」事自体に価値があることを意味する
・ので、あらゆる意味で避けようのない「死」が訪れるまで、「生」という苦行に身を浸らせ続けることは、全く信仰にかなっている

まあ、死ぬために、生きつづけよう。安穏たる死を賜るまで、生を苦しみ続けよう。ということですね。
そんなところに行き着いてしまいました。



逆に、じゃあどんな生を送るのかといえば、
利他、人のためになり続けようとする生き方以外は「出来ません」。
「贖罪のために」「いき続けている」という因果関係でくくった魔術なので、
贖罪のためでない生き方を己に認めると
魔術が解けて消えます。

……
「死ななかった自分」という召喚獣を自分の命を代償にして呼んで「贖罪を続けろ」というクエストを与えたとも言うかもしれない。



ここに、いっぺんでも「死にたくない」あるいは「死にたい」という
”利己”が存在していたら、
神はその存続を許さなかったでしょう。

この話の一番嘆かわしくて滑稽なところは、

「本当にそんな魔術が成功しちゃった」ところにあるわけでもあります。

最悪な前例と言っていい。
じゃあっつって似た術式をしようとした人は、信仰が足りなきゃ死ぬでしょう。
普通に敬虔な人はそもそもそんなことしないので、
それをしようとしている人をむしろ糾弾したり、
あるいは攻撃の火種になる事だってあることでしょう。


彼女が残した知の園「天慧院」内に、
「不死」を求める派閥が密やかに出来てしまったというのも、
負の遺産ではあります。


それでも、
「個人としてできる最大限正しい在り方」を追い求めたこと、
その後の(彼女ほど信仰深くない)人々の選択は別問題として、
「そういう新しいやり方があるんだ」という地平を切り開いたこと、
人々の「文明を前進させた」こと自体について、

神が「不死」という成功をお与えになった、
と考えるべきか、


それとも、それほどの罪に対して、
「生き続けるペナルティ」をお与えになったと考えるべきか。


いやさ、
信仰深いものにとってはそれは同じものなのか。
試練をもらう事はご褒美に過ぎないのか。


いずれ、魔術教皇センテンティアの終わらない生は続きます。
ああ、次はアンゲリアに会わなければ。
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