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2009年11月18日00:21

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「魂が純化された透明な至福感」

「カーテンコール・ワーク」は身体詩ワークショップでの定番であるが、身体詩作品の公演稽古の時も、準備体操&気功法が終わって、場面の稽古に入る前に出演者全員で実施している。


ワークショップの時は、宇宙から降り注がれる「祝福を感じて受け取る」事がメインであるような印象を受けるが、稽古の前におこなうそれは「祝福を贈る・捧げる」ということの方に力点がある。


オーハシさん曰く、

私達のパフォーマンスは、単に会場のお客さんに向かってというだけでなくむしろ、そのお客さんたちの背後・遙かな彼方の宇宙の一番奥の「大いなる存在」というようなものへ祝福を捧げる行為なのだ!


とのこと・・・これは先日紹介した演出のモリムラさんの言う「ふへんてきな神さまへの祈りの芸術」という最高理念であるわけざんすね。


それは私自身のスピリチュアリティの領域で臨んでいる世界とは必ずしも完全に一致するわけではないにしても、私の感覚としては身体詩作品のパフォーマンスに参加するという行為は、

「世界を嘉し寿ぎ幸わひたまふためのお祭り儀式」

ということなのざんすよん!


先日の稽古はいよいよ全体の通し稽古の初日だった。


我々プルミエにとってはようやく今回の作品全体が明らかにされたわけだが、昨年の作品に比べるとより一層叙情的な作品であるように感じられる。


それは昨今の「人間性そのものが抑圧された生活と純化された魂の相克と昇華」を生と死、そして輪廻というところまで踏み込んで、夢とリアルの重層構造の中に(作品世界だけでなく、演ずるという行為そのもの自体もパラレルに)表現している・・・という風に書くと何やら難解な前衛演劇と思われるかもしれないが(前衛かつシュールなのは事実であるが・・)、

決して観念的でなく切なく真摯に叙情的に描かれている・・物語そのものはまさしく寓話・ファンタジーそのものざんすよ!

それを言葉による説明で描こうとすれば難解に成らざるを得ないところを、身体詩作品は基本的に台詞で観念を説明・伝達することを放棄し、


「(祈りという)気エネルギー」で伝えようとするのだ!


それ故に世界各地で通用するし、子供でもその舞台を食い入るように見つめてくる・・・ということになったりする力を持っているわけざんすね。


従ってパフォーマー個々人が、単に「自己顕示欲」で上手く見せてやろう!・・なんて意識で演技するとたちどころに作品が矮小化してしまう。


何と言うか極めて真摯に真剣に、「魂から発する宇宙への捧げもの」という祈りの意識というレヴェルが要求されるのだ・・・これはまさしく俳優が、その始原であるシャーマンの精神にたち返る宗教的な行為の発露ともいえるであろう。

我々プルミエも多士済々であるが、メインの3人のパフォーマーの表現は22年間に20カ国50都市で公演を重ねてきた「べらぼうに凄いキレと高度さと深さ」があるざんすよん!


関東地方在住の方だけでなく、遠方にお住まいの方もこれは是非ともご覧頂きたいものざんす。

・・・決して糞真面目に硬質な哲学を主張するのではなく、なかなか奇抜かつ思わず噴出すギャグシーンや切々たる涙を誘うノスタルジックなシーン、また我々プルミエも参加してのラストの「夢幻的な輪廻のワルツ」のシーンなどなど・・・音楽のセンスも素敵だし、照明もきっと素晴らしいものになるはずざんす!!


見終わった後には、「魂が純化された透明な至福感」に満たされることであろう、乞う御期待!!(チケットは私から買ってね・・笑)


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