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2007年09月19日17:20

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「自由に在ること」についての格言

昨日の日記に出てきたSF小説の中のやり取りで、登場人物が古代ギリシャの賢人エピクテトスの言葉を紹介するくだりがあり、これは私は初めて知ったのだが大変含蓄のある言葉である。

曰く、「他人が支配しているものを通じて幸福を求めるな!さもないと結局は支配しているやつらの奴隷になる。」

我々の生活を振り返ってみると、これは知らず知らずのうちに浸透してしまっている・・といっても過言ではないだろう。



・・・・ラマナ・アシュラムにはいくつかのホールがあり、「瞑想ホール」もあるが(通称「オールド・ホール」・・・バガヴァンがそこで27年間起居されアシュラムの中心だった場所である)、別にそこでなくともどこででも自由に座っていることが出来る。

私は「たまには真面目に座ってみよう」の唯我独尊的スローガン?に基づき、時々「瞑想ホール」でシッダ・アーサナを組んで「それなりに瞑想っぽく」座ることもあるが、どちらかといえば、サマディホールの壁を背にしてのんびり・ぼんやりと普通に?座っている方が遥かに多い(笑)

こういうことが許されるから私はラマナアシュラムが好きなわけでもある・・・よくよく考えてみると、日本ではこういう事が簡単そうに見えて実はなかなか出来なかったりする。

まずそういう場所がない・・・それなりに聖なる場所にある寺社仏閣にこんな風にお金も取らずぼんやり座らせておいてくれる場所があるだろうか?(笑)

それどころか最近は街中で「ベンチ」を見つけるのが大変困難だったりする・・「休む」為には金を払って喫茶店やらファーストフードに入らねばならないように話が出来ているわけだ(笑)

大きな公園ならいざ知らず、ちょっとした公園のベンチとなると「理由もない」のに真昼間からいい年こいた中年男性がぼんやり座っているだけで、周囲の眼はかなり「警戒的」なニュアンスを帯びてくる・・うっかり子供に声なんぞ掛けようものならそれだけで警察に通報されかねない(爆)

こういう社会風潮を生み出してしまった理由は様々な要因が重層的に複合しているのだが、一つには例えば「物理的快適さ」を得るために「ある種の自由」と交換してしまったからでもある(これもまた現代的な「悪魔との契約」といえるかもしれない)。

古代ギリシャの賢人では他にデイオゲネスの話はかなり有名であろう、特にアレキサンダー大王との会話だ。↓

http://www003.upp.so-net.ne.jp/kishimi/diogenes.htm


「他人が支配しているもの」・・・それは必ずしも物質的なものだけではなく、「ものの考え方・捉え方」ということもそうであろう。とりわけそれが宗教的・スピリチュアルな領域にもよくあることをよくよく注意しなくてはならないだろう。


まずは「自由に在る」ということが肝心である。そうあって初めてあらゆる教えもあれこれの心身技法もその本来の意義が立ち現れてくるのではないだろうか?
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