なんだか凄い雲だなと思って、駅のホームから雲の写真を撮ったんだけど、仕上がりの画像を見ると面白くも何ともない普通の雲だった。パソコンの小さな画面のせいなのか、あるいは雲は動いてるから面白いのであって止まってる写真だとつまらないってことなのか、はたまたカメラの性能のせいなのか。
美術館で見た絵がとても気に入り、うちに帰ってきてパソコンで調べてその絵を見てみると何ともない絵だったりすることがある。なにやら雲の件と似ているわけなのだが、これもまたパソコンの画面が小さいからなのか、あるいはパソコンのせいで微妙な色合いが実物と違っているからなのか、はたまた実物の絵のデコボコ感が画面では分からないからなのか、いまいち分からない。ただ、パソコンの画面で見る絵は実物の持つ存在感が消えてるってことはよくある。
雲にしても絵画にしても、実際に見るとよく分からない部分というのがある。雲は動いてて形がどんどん変化していくから固定したハッキリとした形がよく分からない。絵画は見る角度や距離によって、画面の絵具の盛り上がり具合とか、表面の質感だとか、金や銀を使ってる場合にはその光具合だとか、画面上の小さな汚れとも何ともつかないような部分とか、そういうのが見えたり見えなかったりする。そしてそういったよく分からない部分というのは魅力でもある。ところがパソコンで見る画像になるとそういったノイズ的なものはさっぱり消えていて、綺麗にその形だけが現れる。
そういえば以前マレーヴィチのシュプレマティスム期の絵を近くで見たとき、絵具の劣化のせいでひび割れがすごくて、そこが何やら「わびさび」を感じさせて面白かったことがある。ひびの割れ方の模様がごく自然で、貫禄のようなものすら感じるのだ。もちろんそういうのはマレーヴィチが意図したものではないが、今どきシュプレマティスム絵画のようなコンセプチュアルなものを見るということは、そういった時間の経過を見るということくらいしか面白味がないだろう。だけど当然のことながらパソコンの画像では綺麗な色と形だけが現れる。僕が目撃した「わびさびシュプレマティスム」はそこに無い。
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