火取蟲
島村苳三(盛助) 明治四十四年十月「帝國文学」
一
雜木林を出はづれた所から路が二つに別れる。村の人が新道と云つてゐる方の砂利を敷いた道は二里ばかり距たつた奥州線のある停車場へつづいてゐる。他の、草に蔽ひかぶされた細道は遠野良(とほのら)へ通う路なのである。お千代は其の細道を傳つて三つ角の所まで歸つて來て、注意深い眼付をして前後を見廻してから生ひ茂つた芒(すすき)を押分けて雜木林の中へ這入つて行つた。そして擔(かた)げて來た鍬を置いて、菅笠を脱いで、兩手を後に廻して髪のほつれを撫でつけた。膝の上よりも少し短い派手な紺飛白(こんがすり)の襦袢を着てぐるぐる巻きにした眞紅な牡丹の模様のあるメレンスの胴締めを鴾色の前掛けの紐で押さへて、右と左と映り合ふやうに鶸(ひわ)色と白とを接(は)ぎ合せた幅の廣い襷をかけて、絞りの腰巻の下にきりゝと盲縞の股引を穿いていた。芒の間からひよろひよろと脱け出した女郎花(おみなえし)がすらりとしたお千代の軆に寄り添ふやうに傾いてゐた。夕日が雜木林の中に黄色く射し込んだ。穂の出始めた見渡す限りの耕地の稲はひつそりとして浪も立てない。耕地の右の果の、村はづれの大盡の家(うち)の土蔵の白壁が黒い杉森の下に白鷺のやうにぽつちりと白く光つていた。
お千代は其所にかくれて新道の向ふの端(はて)から動き出して來るものを見はづすまいとするやうな眼付をしてゐた。間もなく黒いものが見え出した。然し其れはお千代が待つてゐるものではなかつた。一つの洋傘をさし合ひにした二人の女だった。お千代は所在無さに、漸々に大きくなつて來る其の形ちを見つめてゐた。一人は薄色の着物を、も一人は紺飛白らしいのを見分けられる程になると、誰だらうかしらと種々(いろいろ)に考へて見た。時折り日の加減で、薄色の着物を着た女の髪に白いリボンのやうなものがちらちらと光つた。
「春ちゃんじゃ無かんべか」とお千代は獨語した。
確かにさうだつた。お春が東京から歸つて來たので停車場まで迎へに行つた姉のお芳と連れ立つて來るのだつた。お千代は二人に見付けられぬやうに氣をつけて、こちらからはよく見えるやうな所に身を屈めた。僅か半年餘りでも東京の風に吹かれたお春の容子(ようす)が見違へる程に變つてゐたので、お千代は美しく思はずには居られなかつた。お千代が隠れてゐる芒の前を通り乍ら二人は何か話し合つては可笑さうに聲を立てゝ笑つた。お春の詞使ひは酷く際立つて東京風に聞こえた。お千代の羨みはもう冷笑に變つて唇の上に浮かんでゐた。「何(ど)うだんべ、己(お)れこそ面(づら)して」かう思つて林の中に隠れて行く二人の後姿を見送つていた。
「そんだが、あの人あ何うしたんだんべな」
お千代は立上がつて耕地を見晴らした。
新道の向ふへ荷馬車を御して來る編笠を冠つて印絆纏を着た��次郎の姿が見えたのは其れから程過ての事であつた。お千代は待ちかねて女郎花の花を掌へ溢るる程扱(こ)きためてゐた。そして取り止めも無い事を考へてむしやくしやした心持になつていた。
「��さん。��さんてば」
こう呼ぶ聲が道の傍の芒の中から聞こえたので、��次郎は吃驚して馬を控へた。
「誰だんべな。千代ちゃんぢゃねえけ」
「さうさや」
「何してたんでえ、まあ、其んな所(とけ)へ這入(へえ)って。山刈りにや早かんべに」と��次郎は常談を云つて笑つた。
お千代は��次郎と並んで村の方へ歩み出した。日は更に斜になつて林の其処此処で蜩が鳴き始めた。
��次郎はお千代と自分との間の事が何時も不安心でならなかつた。お千代が今迄やつた幾人もの男に對する仕打から考へて見ても、何時自分は振り棄てられて了ふかも知れないと思はれるのだつた。始めは��次郎もそんな事は覚悟しての上であつた。どうせ何時迄もつゞく仲ぢやない。女の方から厭きられない中(うち)に、いゝ加減に見切りをつけるのだ、とかう思つてお千代と近づき始めたのだつた。所が何時(いつ)とも知らぬ間に��次郎の心持は變つてゐた。もう自分の方から捨てるなぞといふことは到底出來さうもなくなつて了つた。如何(どんな)事があらうと女の方からも捨てられたくはなかつた。
暫くの間二人は黙つて歩いていた。
「明日の晩吉店(きちだな)に影人形(ねんぎよ)があるてつけ。千代ちやんも來べ」と軈(やが)て��次郎は道傍(ばた)の草に立止る馬を叱り乍らお千代に云ひかけた。
「行つてんべともせ」
「盆の十三日(さんち)つからぢやあんまり早えな。太夫さんの都合だんべが」
「ふんとだあすね」とお千代は完爾(につこり)した。
二人の話は何となく滯つた。��次郎は何か真面目な話をお千代から仕掛けられてはと恐れるので其れから其れへと移して行く話題を考へなくてはならなかつた。
雜木林を行き盡す頃に、お千代は到頭真面目な顔をして��次郎に話しかけた。
「こねえだ云つた事��さんは忘れちゃつたんだんべかな」
��次郎は項垂れて何とも返事をしなかつた。
「己(うんだ)が云ふ事が無理だんべかね」とお千代は竊(ぬす)むやうに��次郎の顔を窺きこみながら甘えるやうに聲を低めてかさねて云つた。
「無理ぢや無えんべが…」と��次郎は周章てて遮つた。
お千代が��次郎に決心を求めた事は一緒にこの村を立退いて呉れろといふ事なのであつた。何故そんな事を云ふのだか��次郎には少しも其の理由が判らなかつた。實際お千代にも��次郎にもこの村にゐる事の出来ぬ様な差支へは一つも起つてゐないのだつた。立退かねばならぬものなら立退きもしやう。けれども必要もないのにそんな事は支度くないと��次郎は思ふのであつた。
「何故そうすべえな」と��次郎はお千代の思惑を憚つて半ば獨り言のやうに云つた。
お千代はまた何うして��次郎がそれ位の事を一大事のやうに思ふのだか其れが判らなかつた。思ふ同志が知らぬ他國で苦労するといふのは新しい話でもないではないか。自分が��次郎を思ふのと仝(おな)じ様に��次郎も自分を思つてゐて呉れるなら直ぐと相談に乗らなければならないのだと思ふのだつた。
「やつぱし己が無理だんべやね」とお千代は拗ねて見せた。
「怒つちやをえねな、千代ちゃんや」と��次郎は只當惑してゐる許(ばか)りだつた。
林を出はづれて、トンネルのやうに玉蜀黍の兩側につゞいた道を二人は離れ離れの心になつて行つた。程なく二人は別れなければならなかつた。日はまだ暮れ切らぬのに、芒の穂のやうな赤い玉蜀黍の花の上にもう薄白い月がかゝつてゐた。
「よく考げえとくべから」さう云つて��次郎はお千代と別れた。
二
栗畑の草を取り乍らお千代は、折々手を留守にしては取り止めのないことを考へてゐるのだつた。何故��次郎は自分の云ふことを聞いてくれないのだらう。自分だつて其の位な事はして見たい。遠い他國で頼りになり合つて苦労して見たい。お千代は最う幾人も男を知つてゐた。けれどもどの一人とてお千代の爲めならば奈何(どんな)事でもして見やうと云ふ頼み甲斐のある男はゐなかった。女と生れたからにはさうした苦勞のあり丈(つた)けも盡して見たい。かういふお千代の心願は就げられさうにもなかつた。お千代の目からは男といふものが皆薄情な、浮氣な、眞心(まことごゝろ)のないものとしか見えなかつた。唯一人、どうにかお千代の思ひ通りにしてくれさうなのは��次郎だけだつた。��次郎が煮え切らぬのは氣が小さいからだとお千代は一人できめてゐるのだつた。
お千代は手を休めて空を仰いだ。太陽は南の天に高くかゝつて最(も)う正午(ひる)に近かつた。
「ねえさん、はあ、お午だんべな」とお千代は畑の向ふの端に爲事(しごと)してゐる嫂(あによめ)に云ひかけた。
「さうだんべな。上(あが)るとすべか」
「さうすべ」
お千代は取り集めた草の葉で鎌の土を拭ぐつて畑の外に出た。
「父(ちゃん)ら、はあ、饂飩でも打(ぶ)つてべや」と嫂が云つた。今日から魂祭(たままつり)の日なので畑の爲事も晝までゞしまふのだつた。お千代は家へ歸つて行く道々、どうにかして��次郎の了見をきめさせなければならないとその事ばかり考へつゞけてゐた。
お千代は急いで晝食(ひる)をすまして髪結ひのお石の家へ水油の壜と元結ひをさげて出かけた。
「違つたものだな千代ちやんら、十三日から髪(つむり)でも結つて」なぞと後れて野良から上つてくる若い男達が行違ふ度にからかつた。
「大(おほ)さん、お世話だっつあよ己(おら)あ家(ち)の孫めらが」
お千代はからかひ返して溢れるような笑みを眼元に押へて睨んだ。
「今晩(ばんげ)吉店で待つてつかんね」こんなことを云つて通りすがる男もあつた。
休茶屋の眞桑瓜にも路傍の草の葉の光りにも盂蘭盆はもう逼(せま)つてゐた。
髪を結つて、歸つて背戸の柿の木の下に沸かした湯を浴びて了ふと、兄が嫁取羽織を着て家(うち)の定紋の附いた提灯を下げて、四角な顔をしてお寺から精靈を迎へて來た。麻殻の脚をつけた白瓜と茄子との馬に乗つて來た佛達が新しい眞菰の筵の上へくつろいだ頃、家の者は團欒して冷水(ひやみづ)に漬けた饂飩を胡麻汁にひたして喰つた。早く暮れろと待ちわびる日は西に落ちても、いつまでも雲の峯の頂に暮れ残つてゐるのだつた。
影芝居の寄せ太鼓がとうとうと鳴り出した頃になつて漸く夜が來た。
吉店の前は最う非常な人出であつた。
「今晩は」男達は白地の浴衣に赤い友禪の帶をしめたお千代の周りに集まつて來て狎々しく詞(ことば)をかけた。
「待つてやんしたに」
「さうでやんしたけ、大さん」とお千代は誰とも知れぬ聲の主に答へた。
明笛を鳴らして來るもの、尺八を吹いて來るもの、群衆は次第に大きくなるのであつた。店の後の杉森の中で空樽(からだる)の鏡を叩いて盆踊の拍子を取る音が聞え出した。
かち、かちと拍子木が鳴ると店の灯が皆暗くなつて「竹になりたや」を彈く三味線の音が太鼓に合せて陽氣に起つた。影芝居が始まつたのだ。人の頭で埋められた座敷の奧の闇の中に四季の花物の鉢植がずらりと並んで映つた。三味線が止むと、店の外までは聞き取れぬけれど、太夫が口上を云つた。また賑かな鳴物につれて、其れらの鉢植の花が一つ一つ滿開の有様を見せた。
「太夫が影人形(にんぎよ)は何時でも同(おんな)じこつたっつあ」かう云つて若い男達は見向きもせずに娘達と戯れてゐた。
お千代は到頭群衆の間に��次郎の姿をみつけた。��次郎はお千代がゐるのを知らぬ振りしてゐる様子であつた。
「今晩は。久し振りでやしたね」とお千代は態(わざ)と大きな聲をして、丁度この群れに這入って來た定吉(さだきち)という植木屋に詞(ことば)をかけた。定とお千代とが一頃譯のある仲であつた事は誰も知らぬものはなかつた。
「定さんな何時見ても小意氣だっつあ」
「そんだから、はあ誰かさんが何とかだっつあ」
娘達は思ひ思ひにこんな事を云つて笑つた」
「どうでやす、皆さん、一つ踊りやしよかな、千代ちやんの聲でさ」と定吉が提議した。
「踊りやしよ。踊りやしょ」娘達が聲々に應じたので、其の一群れの者は店の後の森の中へ迄入つた。そして空樽を眞中にして手をつなぎあつて大きな圓(まる)をかいた。音頭をとる女が二人中に迄入つて樽の鏡を鳴らし始めた。お千代は定吉と手を取り合つて踊子の一人になつた。踊子は圓くなつたまゝ音頭取りの周りを手拍子を打つゝ廻り始めた。聲自慢のお千代は直きに踊り乍らうたひ出した。――
連れて出るなら一夜(ひとよ)も早く
心變りのないうちに。
定吉が直ぐあとをつゞけた。(かう歌ふのが常例なので)
連れて出るから髪結ひ直せ
世間島田ぢや渡れない。
定吉とお千代は抱き合ふ許りにして踊つてゐた。森の枝の間から射しこむ明るい月の光が、右に左に揺れ乍ら渦巻のやうに廻(め)ぐる踊の群れを照らした。
軈て踊り疲れると思ひ思ひの男と女とが暗い木蔭で細語(ささや)き合つて夜を更かすのである。お千代は定吉と一緒になつて物蔭へかくれた。人々の眼は最う二人の仲がまたもとに返つたのだと認めてゐた。
三
翌晩も亦(また)お千代は定吉と踊つた。そして夜が更けてから静かな月の光を蹈んで我が家へ歸つて行く時何とも云ひ様のない淋しい心持ちをもつてゐた。
不意に道傍の茶園(ばたけ)の中から黒い着物を着た男が身を起して行手に立つたのでお千代はぎよつとした。けれども、かうある事は豫期してゐたので直ぐ我れに歸つた。
「誰だんべか、まあ」と態と驚いたやうに云つて立ち止まつた。
��次郎は何とも云はなかつた。
「��さんぢやねぇけ。やあだよ、この人は。何とか云つてくらつせぇな」と笑つて云つた。
「己(お)れたあ、はあ、他人だんべ」と��次郎は重々しく云つた。
「何故だんべか」
「汝(いし)が胸に聞いてみろ」と��次郎はぶるぶると身を顫はせて云ひ放つた。
「ふん」とお千代は鼻のさきで笑つて、「盆にや牡丹餅だっつあ、燒餅あ正月だっつあ」
「何だと」
��次郎が一步詰め寄つたのでお千代は恐ろしくなつた。
「何だんべ、まあ、この人あ。怒つたんだんべか」
「汝あ己(あ)りよ馬鹿にする氣だな」
「己(うんだ)がけ」
「知れたことよ」
「何日何所(いつどこ)で己が��さんこと馬鹿にしたんだべな。云つてくらつせ。さあ」
「おゝ云つて聞かせべえとも。汝あ、昨夜(ゆんべ)も今夜(こんにや)も定の畜生(ちきしよう)と踊つたんべが」
「踊つたともせ。それがどうしたえ」
��次郎は暫くはずむ息を耐(こら)えてゐた。
「汝あ己(お)れげ何(なん)ちつた。遠い他國(よそぐに)へ連れて遁(ぬ)げてくれろちつたんべ」
「云つたともせ」
「戯言(たはごと)云つて欺しやがつたな」
お千代は月に透かしてぢつと��次郎の顔を見詰めてゐた。
「ぢや��さんは己こと連れて逃(ぬ)げてくれる氣だんべか」
��次郎は頷いた。
お千代は��次郎の胸に縋り附いて涙を眼に浮かべて云ひかけた。
「さういふ氣だたあ知らずに…」
然し��次郎はお千代を押しのけた。
「己ら知らねえから定が所(とけ)へ行かつせえ」
「堪忍(かに)してくらつせ。堪忍してくらつせ」
とお千代は白地の浴衣の袂を顔に押あてゝ泣き出した。そして、其れなり��次郎の胸に凭れかゝつて歔欷(すすりなき)してゐるのであつた。
月は静かに空に澄み渡つてお千代の浴衣が雪のやうに白かつた。歌の聲も絶えた。草も木も人も凍り果てたやうに深い寂寞に落ちた。蟲の声も更けた。
四
魂祭が過ぎて二日目に村の人々を驚かすやうな事が雜木林のはづれの新道に沿うた耕地中で起つた。――お千代と��次郎が心中を遂げたのである。
何故二人は心中したのだか誰にも其の動機がわからなかつた。よく世間にあるやうな夫婦になれぬからといふ身の上でもなかつた。お千代は嫁入のならぬやうな不治の病に罹つてゐたのだと云ふものもあつた。死�辰房茲蠅弔�れたのだと迷信するものもあつた。胤(たね)の知れる子を宿してゐたのだと云ふものもあつた。數知れぬ男を苦めた報いだと云ふものもあつた。他の男への義理に逼つて死んだのだといふものもあつた。然し二人が駈落をする積りで出て來たのだと云ふことは��次郎が二十圓餘りの金を持つてゐたのとお千代が身の廻りのものを風呂敷包にして携へて來たのとで明かであつた。検屍した村の醫者はお千代に姙娠してはゐないと云つた。
この事變を發見した人は――人もあらうに――村のはづれに住んでゐるお千代の伯父だつた。其の朝、村内(むらうち)に用があつて夜が明けると間もなく新道を通つて來た。そして耕地の中程の用水の土橋の上で男女の下駄を揃へて脱いだ上に、砂利石を重しに置た、一片の書置きを見つけたのである。現在の姪のお千代と��次郎とが「死なねばならぬわけ」があつて、こゝに身を投げるとあるのを讀んだ時の驚きは云ふまでもない事だつた。騒ぎを聞きつけて次第に�愿弔伶鍛罎忙海里笋Δ某佑�群集した。
二人の死軆は容易に發見されなかつた。こんな事をして人目をくらませて、其の間に駈落をしたのだらうと云ひ出すのもあつた。然し二人の死骸は遂に半町餘りも下流のキリゴミの中から引上げられた。お千代は例の白地の浴衣を着て、赤いメレンスの帶をしめてゐた。��次郎は紺飛白の着物に寒紅縮緬の兵兒帶を巻いてゐた。そして二人の身軆(からだ)はお千代が鴾色の細絎(ほそぐけ)でしかと結びつけてあつた。袂には大きな砂利石が一ぱいに入れてあつた。最う一時間も早く發見されたら二人共蘇生の見込があったと検屍の醫師は云つた。
互ひの親達は其の罪を嫁(かたづけ)し合つて怨みに思つた。然しこの心中の動機は到頭何人(なんぴと)にも判斷が出來なかつた。
其の日は明け方まで雨が降つてゐた。
お千代が��次郎と示し合せた時間を待つてゐる頃はかなり強い降りであつた。早くから床に這入って、氣取られぬやうに睡た振りをしながら雨戸に降りかゝる雨の音を聞いてゐるとお千代は行末のことを思はずにはゐられなかつた。この頃村で流行つた綾野と芳雄――學校生徒と教員の――心中の歌の文句が、拂つても拂つても心に浮んでならなかつた。色戀故に身をはたしたこの二人が可愛相でならなかつた。お千代はまたこの二三日の定吉のことを思ひだした。さうした間柄にはあの義理立もいらぬ事なのだと思つて見ても――そして��次郎の胸を固めさせる手段に定吉と親しくして見せたのに過ぎないのだつたけれど――其れでも心にかゝるのだつた。
お千代は巧みに人目を忍んで家を脱け出した。降り頻る雨の中に��次郎は侑然(しよんぼり)としてお千代をまつていた。
「徳さん、嬉しいよ」かう云つてお千代は男の手に縋つて泣いた。何時までも��次郎と離れたくないとお千代は思ひつめた。
雜木林にさしかかつた時にはもう夜明けが近づいて雨は小降りになつた。はふり落ちる木雨(きあめ)を浴びながら二人は道を急いだ。
お千代が��次郎に死んで呉れろと云ひだしたのは殆んど突然だつた。
「何故さうすべえ」と��次郎は愕然として云つた。
けれども��次郎はもうお千代と離れることが出來なかつた。用水の土橋にさしかゝるまでには��次郎も二人の幸�討和兇粒阿砲覆い隼廚劼弔瓩討陲燭里任△弔拭�
��次郎は自分とお千代との爲めに鉛筆を嘗めて懐紙に書き置きを書いた。死ななければならぬと云ふ理由を書く所で當惑した。さうして思ひめぐらしてゐる中にもう東が白くなつた。
「夜があけるから惜しき筆とゞめ候」とかいて其の所に置いた。
其の間お千代はほろほろと涙を落し乍ら新道の其所らから袂(たもと)の中へ砂利を拾ひこんでゐた。
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