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2022年12月26日11:20

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水のナツウラ

水のナツウラ

 ナツウラの引く車の上で、絵描きは考えました。礫だたみががたごと背骨にこたえます。
(さて、俺はいったいどうしたものかな? この男は俺を好いてくれているのは確かだし、俺もやっぱりナツウラが好きだ。けれどまた、俺たちは日に千円払ってもいる。)
 疾うに日は落ちて辺りは海の底の宵闇です。車軸に提げたカンテラの青い尾を引く明かりに、時たま水牛やこぶ牛の緑な目が苔のように光るばかり。隣りでは絵描きの奥さんがやっぱり静かに、黙ってがたり、ごとりと揺られています。その顔の辺に、河の方から匂いに乗って朱い羽虫がいくつも流れてきては渦を巻きます。
(今日まではうまくいったとも。俺たちはナツウラの言う通り兄弟だった。それが明日も続けよ。続けよ、と思っているのはしかし今日の俺だ。明日のことは分からない。ナツウラだけが知っている。)
 北斗が低く伏せるようにして登りました。そしてふたりを乗せた人力車は暗い町を通り抜けて坂上の宿の玄関に停まりました。昼ならばそこから灰色の河を見渡せるのでした。ナツウラと奥さんと絵描きとは下手な英語で挨拶を交わして払いもきちんと済ませ、木みたいな右手と握手をして、その晩は別れました。
 宿ではふたりの主任がおわん帽を撫でながら、やきもきして待っていました。
「随分ごゆっくりなお戻りですね。何か、危ない目にでも遭われましたか?」
「いえ、そうではないんです。俥引きと仲良くなりましてね、一日川向こうのお寺など見て回っていました。」
「ははあ。」
「それから午後は、その方のお宅へお招ばれしていたものですから。」奥さんがつけ加えました。
「俥夫の家にですか、なるほど。」
 主任が少し難しい顔をしましたので、奥さんは急いでまた言いました。
「素敵でしたわ。狭い部屋でしたけれど。娘さんたちが夕ごはんを煮て待っていて下さいましたの。それに近所中の人たちが珍らしがって尋ねて下すって。広場で楽器や歌まで聴かせて頂きました。」
「家はどの辺りでしたか。」
「沼の方ですわ。」
「結構でした。」
 けれどもその言い方があまり結構ではなさそうだったので、ふたりは一度部屋に戻ったものの、食事の後でまた主任に相談してみようと決めました。夫婦は明日の午後、ナツウラの案内で、汽車と乗り合いバスで丸一日ほど行ったマガールという漁村に遊びに行くことになっていたのです。もとより全てをナツウラが計画して切符までもう揃えてあるのですが、まるで聞いたこともないそんな村にふらりと随いていくことは、まだ実はあまり気味の良くないことでもありました。案内料も相当かさむことになっていました。
 絵描きたちの話を黙って聞き終わると、やがて太った主任はこんな風に話しました。
「お決めになるのはあなた方ですから、私はただ仕事がら率直に申しますが、これは危ない旅行です。あいつもいつもは善い人間ですが、私の方がよく彼のことなら心得ています。それに酒を呑むと奴は変わりますよ。マガールにはこれといって見るものもなければ、水も売っておりません。食べ物だってお口に合うかどうか分かりませんし、第一宿がありません。慣れない土地でいちばんの危険は悪人と病気ですが、恐らくあなた方はその両方に出くわすでしょう。よく考えてお決めなさい。」
 翌朝まだ熱くならないうちに、私たちは駅へ、切符の取り消しに出掛けました。朝早くなのでもちろんまだナツウラはホテルに来ませんでしたので、私たちはすたすた歩いて緩い坂になった砂利道を下りました。夜中聞こえていたのは道ばたの小川の水音だったねと話していると、遠くから不意に
「ヘーイ、ブラタル!」という甲高い声がしました。
 私はくらげを踏んだかと思いました。その上近付いてくるナツウラが俥夫に似つかぬパリパリのワイシャツと、ズボンにサンダルまで履いているのを見ては、どうにも身の置き所に困りました。
 紅い檳榔の口許を緩め、どこへ行くんだという無邪気の質問に、実はこれこれで今から駅に行くのだと私たちとしては精一杯角が立たないように話したのですが、聞くなり、今まであんなに立派だったナツウラの目は急にぎろりと剥いて顔は痺きつり、みるみる首筋まで焦げたみたいな赤ぐろに変わってしまいました。そうして
「私の家は気に入らなかったか?」と訊きますので私たちは両手を振り回して盛んに打ち消しました。とんでもない。ナツウラは重々しく、そうか、と言ってそれから私たちを俥に乗せ、鉄道まで下りて取り消しの手続きから何から全部手伝ってくれたあとで、ただ五十円だけ受け取って帰って行きました。
 私たちはやり切れない思いで、安ペンキの剥げかけた人力車とその堅い車軸に結んだ子供靴の片われ、ナツウラの真黒に焼けてひび割れたふたつの足とを見送りました。私はぼんやりと、これは何をつかむための旅だったろう、と思いながら奥さんを見ました。彼女は目を伏せ蟻でも見ているようでした。
 けれどもまだ続きがありました。
 その晩、三階の部屋で私は裏窓から外の景色を描き、妻は傍らでお茶を飲みながら何か読んでいました。闇の底を水時計がちらちらと砕き、壁の電燈のそばには深紅の目をしたやもりが二匹、いつものように蟻を狙って無心に伏せておりました。夜風がすっと流れ込みました。
 すると階下で何かがたがた物の倒れるような気配と、続いて二三人の何やら言い争う声が聞こえました。珍しいので不思議に思って私たちは顔を見合わせ、下りてみようと部屋を出ると、宿の小僧が妙な目をして押し止め、小声で
「ナツウラ」と叫びました。
 私は突っ立ってしまいました。耳を澄ますと、それは確かにナツウラの声、けれども酔っ払ってすっかり悲しい乱暴者に変わったナツウラの声でした。
「主任を出せ――こんな目を食らって、俺はもうこの町で仕事ができない――大事な友達に何を吹き込みやがったんだ――俺はいつでも外国人を案内して喜ばれていたんだ――あんまり威張りやがるなよ、俥引きのどこが悪いんだ――こんなに信用落とされてもここで働らかなけりゃならないなんて、いい笑いものさ――それにしても誰が俺を笑えるってんだ?――俥引きにだって面目はあるぞ・・・・・」
 たまたま主人は何かのお祈りで出掛けていたらしくそれ以上騒ぎは広まりませんでしたが、そのかわり俥夫はいつまでも罵り続けるのでした。私はよほど下りて行こうと思いましたが妻と小僧とが両方で引き止めますし、いったいもうナツウラの前に出て私に何ができたでしょう。
 そのうち玄関の鉄格子を閉てるガラガラという音がして、とうとうナツウラはしめ出されたようでした。それでも彼は叫び止もうとしません。通りの土に座って歌のような呟やきのようなものを吐き、いつしかそれは昨日の夕暮れ沼の村で聴いた漁の歌に変わっていました。けれどもバニヤンの木陰で沼の風に取り巻かれて歌った聖人のようなナツウラの姿は今もう見ることができず、ただドロ酒に焼けた咽喉からギイギイと細い声が途切れ途切れにもれ、それは北斗が高く昇る頃になってもまだ続くのでした。
 次の朝まだ明け染めの頃、私たちは宿をそっと出て最初の乗り合いバスで次の町へと発ちました。それで、もう、お話しすることは何もありません。

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