mixiユーザー(id:2223977)

2022年01月27日05:05

83 view

宗教原理を体得し、これを哲学して現実化する生き方

(トップ1枚目(一番左)の写真は
 平成元(1989)年から平成17(2005)年まで
 別荘として父が所有していた物件近くの
 岡山県 真庭郡 川上村 東茅部(現:真庭市 蒜山 東茅部)近くの道から見た蒜山三座。
 東茅部に別荘があった頃(1989〜2005年)に乗った車は(それ以前も含めると)

 (1)富士重工スバル360(1986年4月22日〜1986年8月)
 (2)日産自動車グロリア200SGL(1986年8月〜1988年4月)
 (3)トヨタ自動車クラウン2.8Royal Saloon(1988年4月20日〜1994年8月)
   グロリアとクラウンはベンツ購入後も同時所有していた。
   特にクラウンはベンツと2台連ねて大阪から蒜山へ行っていた。
   グロリアは蒜山高原の別荘にしばらく放置され、
   その後、父がロシアかどこかに格安で売却したようだった。
 (4)ダイムラーベンツ230E(1994年8月12日〜1996年9月)
 (5)BMW320i(1996年9月13日〜1997年3月)
   ベンツも BMW 購入後、しばらく同時所有していた。
   父がベンツを、私と妻が BMW を主(おも)に使っていた。
 (6)スズキ自動車販売岡山ジムニーWild Wind(1996年12月3日〜2005年6月)
 (7)スバル・フォレスター S/tb(1997年3月〜1999年4月)
   ジムニーはフォレスター購入後、ミラジーノに乗り換えた後も
   母が蒜山高原の別荘で温泉に行く時などに使っていた。
   父が平成8(1996)年1月26日に亡くなった後も。
   その後、京都に家を建てる時、蒜山の家を売却した時と同時だったかどうか
   母亡き今となっては知る由(よし)もないが、転倒して修復してあったが
   60万円くらいで売れたと母が言っていたように思う。流石(さすが)ジムニー。
 (8)ダイハツ・ミラジーノ・ミニライトスペシャル(NA:1999年4月〜2004年)
 (9)ダイハツ・ミラジーノ・ミニライトスペシャル・ターボ(2004〜2005年5月)

 トップ2枚目(中央)の写真は
 令和3(2021)年7月14日から住む古民家と
 その西側の道(旧:真庭市道 上中井川線)に停めた
 令和3(2021)年2月28日に発注し 半導体工場火災の影響で遅れて5月18日納車の
 2代目ハスラー J スタイル四駆ターボ
 (オフブルーメタリック / ガンメタリック / 2トーン)の写真。

 トップ3枚目(1番右)の写真は
 古民家の東側に新設された
 真庭市道 上中井川線と、そこから見える蒜山三座の写真。)

宗教は自証が無ければ
無意味である。

教祖を信じても
自分自身に悟りが得られなければ
信心も空虚である。

他律で心が満たされるのではない。
自律
それも内在超越者の起動としての自律こそが
心を満たすのだ。

金では得られない
名誉でも得られない
権力でも得られない

それが
内在超越者が
自分自身の内面において
誕生することだ。

神仏が
自分自身の中に誕生しなければ
宗教は始まらない。

自分自身の中に
自分自身の神仏を持たない間(あいだ)は
信心してもナンセンスだ。

むしろ
無神論を主張することの方が
ずっと正直だ。

神仏が
自分自身の神仏であるためには
他律が可能な限り排除されている必要がある。

そのためには
教義や経典を持たず
(教義(クレド)や経典を持たない禅宗はあるが
 禅宗でも達磨の四聖句として不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏を定めており
 教義を持たないわけではない。
 ただ、ヨーガは瞑想を主としているので教義や経典を持たないようでもあるが
 古典ヨーガが二元論のサーンキヤ哲学を採用し
 ハタ・ヨーガが一元論のヴェーダーンタ哲学を採用するなど
 世界観を持たないわけではないので
 教義・経典を持たないわけではない。)
宗教でさえない
自律性療法が
最も純粋に
神仏を
自分自身の中に生むことができる。

もちろん
生まれてくるのは
神仏の方であり
自分自身は
生む主体ではない。

生む主体は
どこまでも
内在超越者(母なる神)であり
母なる神を子に持つ
外在超越者(母方の祖父なる神)である。

神という表現を
嫌うなら
非実体(非対象)的な
どこまでも実態を持たない(実態を欠く)
仏でもいい。

神であれ
仏であれ
自証されていなければ
意味がない。

その上で
自証された自分自身の神仏と共に
哲学的宗教が始まる。

意識を主体とする人生を卒業して
外在超越者を父に持つ
内在超越者としての母なる神仏を主体とする哲学と共に
生まれ変わった人生が始まる。

外の世界が
資本主義社会であろうと
関係ない。

自分自身の中では
資本主義社会のような
未熟で煩悩に塗(まみ)れた社会は
了(おわ)っているのだから。

自証としての宗教を
獲得できたら
(これが生涯獲得できない人が99%以上であることが悲しいが
 そんなことはどうでもよい)

論証としての哲学が
自証されて手許(てもと)にある宗教原理を根拠として
開始する。

宗教原理が根拠なのであって
書物が論拠であるこれまでの哲学とは質が違う。

絶対的なリアリティ。

リアリティの絶対性。

どこか嘘くさい
抽象的でよそよそしい論理
ではなく
どこまでも事実に基づき
生きて働いている原理が
次々と
これまでに無かった表現を生み出してゆく。

ドキュメンタリーとしての哲学が
歴史的事実として残されてゆく。

自証の絶対性は
そこに宗教原理が
したがって
真実の神仏が
生きて動いている
ということ。

論理では絶対に至れない表現が
神仏だからこそ描かれる。

査読なんか必要ない
博士号も無力だ。

大枚叩いても買えない。

権力を行使しても
神仏は動かせない。

神仏を動かせるのは
無心のみだ。

煩悩の消えたニルヴァーナ(涅槃)のみが
神仏を召喚しうる。

召喚された神仏はしかし
新しい主人として
自分自身の意識の代わりに動いてくれる。

それも無限に。

そんな「絶対の主体性」が
哲学という論理を纏った時
Dass(Existenz)は Was(Wesen)を得る。

純粋に存在するものは
ポテンツ(存在しうるもの)を得る。

自証のみが存在理由を与える宗教原理にとって
論証としての哲学が自分自身についての認識(自覚)を神仏に与える。

最後は科学が実証の役割を果たす。

けれどもこれまで科学は
一度も宗教原理を実証しようとしてこなかったし

ども社会理論(どの社会学者)も
神仏の国家を作ろうとしなかった。

宗教が権威を持って
社会を支配した時代が
過去に無かったわけではないが

しかしその社会は未だ成熟していなかったが故に
差別も暴力も払拭できていなかった。

総ての国民が
煩悩(原罪)に対する処方を修得して
不要で無用なトラブルが
自然に減って
その程度が一定限度を越えれば

社会は
誰がどう考えようと
どんなに資本主義を維持しようとしても

自然崩壊せざるを得なくなるだろう。

判断も
今の世の中のように
権力に忖度して
本当に言うべきことが言えない大多数の国民である段階を
越えて

神仏の世界が
それ故に
差別も暴力もだれも行使しなくなり
(時代遅れになって)
いまよりもずっと
ストレスレスな社会が
勝手に動き出して生成するだろう。

そういう時代は
私が生きているうちに来ないかもしれないが

私は私の使命と天命を全うする。

そうして
私の中で生まれた
私の本当の祖先全体の意志を
実現することができれば

いつ死んでも悔いはない。

その日が早く来るように
今から動き出すのだ。

=======================================
最終更新
令和4(2022)年1月27日 23時59分
令和4(2022)年1月28日  2時30分
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2022年01月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     

最近の日記

もっと見る