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2022年02月04日21:19

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【論理VS信仰】

「テニプリのオタクから漫画全巻と棚が一緒に届きました」 収納まで考えられた手厚すぎる“布教”に「強い」「初めて見た」と衝撃が走る
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=6838383

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【論理VS信仰】
30年ほど前、とても穏やかなエホバの証人(以下Tさん)方を「論破」できないかと思い
毎週水曜日の夜に訪問をしてもらってたことがある(若気の至りですな)。訪問布教は2年の間続けられた。
Tさんは私を信者にすべく説得しようとし
私はTさんの信仰の矛盾を指摘する「対立関係」である。

結論から言えば「論理的矛盾をいくら指摘しても信仰は揺るがない」というすこぶる当然の結果となった(笑)。当時は「分厚い信仰心に論理は通じない」と解釈したが、現在は「信仰というのもある種の論理性」だと理解している。

論理は万能ではない。むしろ相互に一定の論理性がなければ通用しない脆弱なものだ。また両者が一定の論理性を有しているとしても寄って立つものが異なる時点で残念ながら会話がかみ合わないことは多々ある。

「それぞれの正義」があるように「それぞれの論理性」がある。その意味では「信仰」も論理の一種と言えるのだろう。(なお、私の就職までTさんとは友好的な関係が続いた。相互に相手に敬意をもつ文明人同士ならば「意見が異なるという理由だけでいがみ合う」なんてことにはならない)


【「絶対正しい教」という信仰】
「自分が絶対に正しい」という「信仰」こそが「傲慢さ」につながる。逆に自分への懐疑心を持つ論理的な人間は謙虚なものだ。

「自分が間違ってるかもしれない」という懐疑的な態度こそが「論理的態度」だからだ。
「もしかしたら自分が間違ってるかも」という迷い、謙虚さがあればこそ、自分と異なる意見をそこまで馬鹿に出来るものではない。

羽生結弦さんや大谷翔平さんや藤井聡太さんが伸び行くのは「その謙虚さ」ゆえだ。
「まだ自分は完成してない」という人間は進化成長していく。

逆に「自分は絶対に正しい」と思い込んでいる人間は、その分野に置いては伸びしろがない。本人は「完成した」「自分が正しい」と思ってるから変わる動機もない。そして他人を「未完成」「間違ってる」とみなして強く攻撃的に断言してしまうわけだ。

内心で「あ、間違ってたな」と悟った時でも、それまでの言動が邪魔して素直な訂正ができずひっこみがつかなくなる。めでたくも「自分絶対正しい教」の出来上がりだ。

「貴方の考えをすべてひっくり返すような前提がどこかにある可能性」をなぜ完全に否定できるのか? 「その可能性を考える能力の欠如」なのかもしれない。

多数派や権威者が常に正しいとは限らない。天動説だって地動説でひっくり返るのだ。

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