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2020年05月10日20:20

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キリスト教思想史 II: アウグスティヌスから宗教改革前夜まで フスト・ゴンサレス 新教出版社 2017年8月25日

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p.206
父は子を生んだから、父の実体が子を生んだ。一方は生む者の実体で、他方は生まれた実体であり、おのおのは異なっている。それゆえ生む者と生まれた者とは常に複数を形成し、一つのものではない。
p.207
ロスケリヌスは一〇九二年にソワソン教会に召喚され、三神論を唱えたとして異端宣告された。
p.214
問題を解決するためには、普遍が「物質」ではないこと、つまり抽象化以外には、それ自身で存在することはできないということを理解しなければならない。普遍が存在するということの意味は、形相が物質の内に存在することに類似している。形相は物質から抽象化することができるが、形相は物質なしには与えられない。同様に、普遍は個から抽象化することが可能であり、考察するためにはそうしなければならない。だが普遍は具体的な存在から離れては与えられない。こうした、普遍の問題に対するアベラルドゥスの立場は概念論と呼ばれ、後の世紀に影響を与えることとなる(33)。
p.223
リカルドゥスによると知識には、cogtatio(思考)、meditatio(黙想)、そしてcontemplatio(観想)の三つの段階があり、それぞれ、想像力、理性、知性と関係する。…しかし精神が神の本質を理解することは不可能であり、精神は神を歓喜もしくは「超越」のうちに観想する。この直観的な知識においてこそ、魂はその能力を超えるものを受け入れることができる(50)。
p.226
だが、彼が「一」と「三」という数が神に適用される場合、それは相対的な意味においてのみであると述べていること、また人間の内にある「慈しみ」は聖霊であると論じていることについては議論が引き起こされてきた。…
…ペトルス・ロンバルドゥスは、人としてのイエス・キリストが「もの」であることを否定した。その意味は、ある人々が考えたような隠れた仮現論ということではない。むしろ、救い主の人性はアンヒュポスタシス(ヒュポスタシスを持たない人性)であるとの古い教理を提唱しようとする試みであった。
p.236
――では、御子は信じるか。
――はい、信じます――彼らは答えた。
――では、聖霊は信じるか。
――はい、信じます――彼らは答えた。
――ではキリストの母は。
――はい、信じます――彼らは繰り返した。
この時、すべてのものが大声で騒ぎ出し、彼らをあざ笑った。ワルドー派が混乱して引き下がったのは当然であった。
一同が笑ったのは、ワルドー派がマップに誘導されてマリアを神の母ではなく、キリストの母と認めたからなのか、あるいは神を信じることとマリアを信じることの違いに関する神学的な問題と関係してのことなのか、現代の解釈者の見解は分かれている。確かなことは、ワルドー派が卑劣な罠にはめられたということである。
p.241
「清い」を意味する「カタリ」の名が彼らに与えられたのは、ニカイア公会議がノウァティアヌス派をこの名称で呼んだからである。…
92 シャロンのロイトハルトがカタリ派であった可能性がある。もしそうであれば、彼は知られているかぎり最も初期のカタリ派である(西暦一〇〇〇年頃)。
p.262
 その一方で、プセロスは彼が「カルデア主義」と呼んだ一群の迷信を厳しく批判した。当時のビザンティウムでは、無学な人たちだけでなく世俗や教会で高い地位にある者たちの間でも、占いや占星術、魔術などが広まっていた。
p.264
32 たとえば、アンティオキアの執事ソテリコス・パンテウゲノスは聖餐の「あなたは捧げる方であり、また捧げられる方」という定式をめぐる討論をおこなった。彼によるとこの定式はネストリオス派による受肉した言の二つの本性の区別を示唆する。彼はまた聖餐の犠牲は、父にでも聖霊にでもなく、御子のみに捧げられるのであると主張した。一一五六年にコンスタンティノポリスで開かれた教会会議は、キリストが自らを三位一体への犠牲として祭壇に捧げたことを宣言した。それから間もなく、アンクシオス・アンゲロスの治世(一一九五−一二〇三年)の時、聖餐で受ける要素は普通の食物と同様に消化されるのかどうかをめぐる論争が生じた。それに対して肯定的な立場を取った者たちはラテン語のstercus(糞)に由来する「糞便派」(stercoranists)と呼ばれた。
p.265
シメオンの後を継いだペトルスの治世下で、「神に愛された者」という意味のボゴミールを名乗る宗教指導者が現れて、教理の多くをマニ教から採用した、新たな分派を形成した(36)。…
36 マニ教徒のおもな違いは、ボゴミール派にとって、マニ教と異なりマニが中心的ではなかったことである。ボゴミール自身もこの派の中心的位置を占めることはなく、彼は特別な啓示を受けた真の宗教の創始者にすぎなかった。
p.268
 ネストリオス派教会がこの時代に生み出した最初の重要な神学者は、七八〇年から八二三年までネストリオス派の総主教を務めたティモテオス(一世)である。彼の現存する著作は、教会法、何通かの書簡、そして『マハディとの討論』である。
p.269
その中で特筆すべきはニシビスのエリアス・バル・シナーヤーである。…この著作をはじめ、彼の書いた文書から知ることができるのは、イスラム教徒がキリスト教教理に対して反対した中心的な問題は、三位一体の信仰が多神教にあたるということであった。そのため、ネストリオス派の神学者たちは三つの位格を区別することよりも、神の本質の一体性を強調する傾向にあった。
…それらの中でも特に重要なのは、九世紀にメルヴのイショダードが著したもの、十一世紀にテオドルス・バル・コナイが著した『注解書』(Scholia)、十二世紀のイシュ・バル・ヌンによる『五書への問い』などである。…総じて、ネストリオス派の聖書解釈者たちは比喩的解釈を「冒瀆と偽りの源」と断じ、それが「愚かなオリゲネス」に従うキリスト教徒の多くが誤りに陥った原因であるとみなした。
p.270
彼らにとって言が「人」となったのは、神の「自発的な結合」による「神殿」としてであり、この結合において言と人は区別されなければならない。そこで、エリアス・バル・シナーヤーは次のように述べている。

 我々が「キリストは死からよみがえり、驚くべき奇跡を成し遂げた」と言う場合、それは神の実体である言について述べている。もし「キリストは食べ、飲み、疲労し、死んだ」と言う場合は、我々はマリアを通して人となられた方について言及しているのである。

 また、ヨハネ一・一四の注解でメルヴのイショダードはこのように語る。

 「言葉は肉の内にあった」ということは、その内に住んだということである。ちょうど「モーセは住処に」ということが、彼がその内にいたという意味であり、あるいは「ヨセフは監獄に」ということの意味は彼が監獄の中にいたという意味であって、ヨセフが監獄であったわけではなく、モーセが住処であったわけでもないように……言は本質において肉ではなく、神殿の内に住むように、肉の内に住まわれたのである。
p.271
エデッサのヤコボスとアラビアのゲオルギオスが創造、キリスト論、秘跡などについて書いている。
51 十世紀においてコプト教会で最も偉大な神学者はセヴェルス・アブル・イブン・ムカファである。
p.272
しばしば「アル・マンティクィ」(弁証家)とも呼ばれるヤフヤー・ベン・アディは、神学的問いに対して古典哲学を適用しようとした。ヤコブ派の神学は論争的であることがおもな特徴であり、その対象は、ムスリムとネストリオス派、コプト教会である。(54)またヤコブ派内部でも、摂理の有無をめぐる論争が短期間起きたが、摂理を否定する者たちはすぐに異端宣告された。(55)

54 ヤフヤー・ベン・アディは『ヤコブ派とネストリオス派の受肉に関する教えについて』を著した。九世紀にはイシュ・バル・ススハーンがコプト教徒に対する二つの論駁文書を著して、聖餐のパンに小麦粉と水、イーストと塩、油を用いるヤコブ派(とネストリオス派)の慣習を擁護した(Jugie, Theologia, 5:693-94)。十二世紀にはアンティオキア総主教ミカエルが、罪の告白を会衆の前でおこなう必要があるかどうかをめぐって、コプト教徒と論争になった。
55 彼らの指導者はハラン(もしくはマルディン)のヨアンネスである。Jugie, Theologia, 5:471.
56 パウロ派はマニ教的傾向を持つ分派で、アルメニアに広まっていた。トンドラック派はマリアと聖人に対する崇敬、位階制の権威、修道院主義、そしておそらく受肉の教理などに反対した(Jugie, Theologia, 5:480-82)。ビザンティン教会との統合の試みはナルセス三世グライエツィの主導でおこなわれたが、実を結ぶことはなかった。
p.303
世界の永遠性についてギョームは、永遠に変わらない神は、永遠の創造主であり、それゆえに創造もまた永遠でなければならないという議論をreductio ad absurdum(背理法)によって論駁した。ギョームによると、もしこの論法が正しいとしたら、すべてのものはなんらかの仕方で神と関係し、その関係は不変でなければならないから、すべてのものは不動で永遠だと結論づけなければならなくなる。他方、アヴィケンナが主張するのと異なり、言は発出の連続性から生じるのではなく、無からの創造による神のわざであり、必然によるのではなく神の意志の自由な決定による。ここでもわたしたちは、神学者たちが意志と善を自然と理性の上に位置付けたことの別の事例を見出す。
p.344
キュリロスについて学んだことによって、トマスはキリストにおける二つの本性の結合を「ヒュポスタシス的結合」の意味で解釈した。ペルソナもしくはヒュポスタシスは自らの実在を持つが、二つの本性はそうではない。したがって、救い主の人性は神の言の位格の内に存在している。この結合により、そしてそれぞれの本性の機能と固有性はヒュポスタシスへの言及であるゆえに、属性の融通communicatio idiomatumが生じ、そこで、神の言を、処女マリアから生まれ、苦難を受け、など人性に属する言葉で叙述することができる。
p.365
 この教えをあざけりの対象としたのは、アリストテレス主義と西方スコラ主義に精通していたカラブリアの修道士バルラアムであった。彼はローマとの統合を望んでいたこともあり、偽ディオニュシオスを根拠として、神は不可知であるから、聖霊が父のみから出るのか、父と子から(フィリオクエ)出るのかを知ることはできないとの見解を示した。…
…バルラアムはタボル山での非創造の光などはあり得ないと主張し、その根拠として、そのような光は神そのものであり、したがって目には見えないことをあげた。それに対してパラマスは、神の本質と、神の実体の顕現であるゆえに創造されたのではない神の作用との区別を明確にした。
p.369
ここで言及すべき神学者はひとり、エベドイエス・バル・ベリーカーである。彼は詩人にして学者であり、『真珠の書』は注目すべき組織神学書である。
p.370
エベドイエスは典型的なアンティオキアのキリスト論を展開し、人間存在としての現れは神が宿った神殿であるとした。彼が好んで用いた表象は、太陽が照らす真珠である。太陽が照らす真珠の内に太陽の光を見ることができるが、それは太陽そのものではない。もう一つの重要な点は、エベドイエスが教会の主教たちの一覧を作る中で、ローマ主教が他の同僚たちの中で特別な栄誉ある地位を有すると表明していることである。このことは、すべてのキリスト教会をローマの翼の下に位置付けようとするローマ教会の働きかけが、ネストリオス派の主導的な神学者にまで影響を及ぼしていた可能性を示唆している。

26 言及に価する他のネストリオス派神学者は総主教ティモテオス二世である。…
27 重要なものとしては、十三世紀に新約聖書の大部分の注解を著したヤラジ・イブン・アル・アッサルである。…
28 フッダイル・イブン・アル・アッサルは前述の兄弟であり、有能な弁証家にして教会法についての文書の編集者であった。アブル・バラカト・イブン・カバルは『ムスリムとユダヤ人への応答』を著した。…
29  特筆すべき著作はカバルの『闇の中の灯火』である。
p.371
聖餐におけるキリストの身体的現存は、ジャー・ミカエルに従うミカエル派が三位一体的根拠に基づいて、そして別の理由によって「シナイ山の異端」を否定した。彼らが否定したのはシナイ山修道院の極めて実在的な聖餐論であった。ミカエル派はまた、「神の像に」作られたということは比喩的に理解されるべきであると主張した。マリアと十字架に対する儀式は十五世紀前半に広まったステファノ派が拒絶し、十五世紀の終わりまでに鎮圧された。
p.372
グレゴリオス・バル・ヘブラエウスである。…
34 彼独自の定式は、「二重の本性」という表現に見られる。これは二つの本性という意味ではなく、なんらかの仕方で「二重である」一つの本性を意味する。彼がこの用語を用いたのは、ヤコブ派が伝統的に強く保持してきた受肉の主の一体性にもかかわらず、ある意味で二重であることを認めるためであった。
…これがアルメニア教会の中での絶えざる争いの原因となり、結局、フィレンツェ公会議が東方教会とローマの統合を打ち出すと、小アルメニアのシスの総主教と、古くからのアルメニア地方にあるエチミアジンの総主教との間で最終的に分裂が生じた。
p.373
このような状況下で、十四世紀におけるアルメニア教会の主導的神学者であったタテフのグレゴリオスが、ローマ教会と結びついたアルメニア教会を論駁することに多大の精力を費やしたのはやむを得なかった。…たとえば、キリストは二つの本性を持つと主張する者たちに対して、「キリストのどちらの本性が礼拝されるべきであるのか。もし神性であるとするなら、あなたがたはユダヤ人として礼拝するのであり……もし人性のみ(が礼拝されるべきであるとする)なら、あなた方は人を礼拝するという冒瀆に陥ることになる」と問うのである。



■モンテネグロ最大の聖地 断崖絶壁に立つオストログ修道院で厚い信仰に触れる旅
(GOTRIP! - 04月29日 06:41)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=206&from=diary&id=6065070

モンテネグロの中央部、首都ポドゴリツァから車で1時間ほどの場所には、この国最大の聖地であるオストログ修道院があります。



標高800mの地点で、山の岩肌にへばりつくようにして立っている修道院。秘境と言える場所にありながら毎年10万人もの人々が訪れ、熱心に祈りを捧げていきます。

セルビア正教会におけるもっとも重要な建物のひとつであるオストログ修道院は、17世紀に聖ヴァシリエという修道士によって建てられました。彼はその後の人生をこの地で過ごし、安置されている遺体は「様々な奇跡を起こす」と信じられています。

そんなオストログ修道院への道のりは、決して安易なものではありません。一番簡単な車で向かうにしても、山の上まで断崖絶壁のカーブ道を延々と走らなければならないのです。

車がなかった時代は、山の麓から急な山道を登るしかこの地にたどり着く方法がありませんでした。厳しい道のりを登りきるのは、熱い信仰心があるからこそ成せるもの。現在でも熱心な巡礼者のなかには、あえて自分の足だけで修道院へ向かう人もいるのだそうです。



長い道のりを経てたどり着いた巡礼者を迎える門。この門をくぐり敷地内にはいると、どこからか祈りの言葉が音楽とともに聞こえてきます。周囲一帯が神聖な空気につつまれ、信者でなくとも何かスピリチュアルなものに触れている気分です。



広場に面している建物には、事務所や巡礼者のための宿泊施設などが入っています。



壁に描かれた美しいモザイク画に注目してみてください。



そして入り口の門から入って最も奥にあるのが、聖ヴァシリエの遺体が安置されている教会です。ここに入場するには服装の注意があり、肩の出た服やショートパンツのままでは中に入れません。

モザイク画の建物の前にスカーフが入ったカゴが置かれているので、スカーフで肩や脚を隠すようにしましょう。使用後のスカーフはまた同じカゴの中に返却します。

遺体が安置されているのは、5人入ればいっぱいになる狭い部屋。開かれた棺の横には修道士がひとりつき、見学者は1人ずつ前に歩み寄って遺体と対面します。

オストログ修道院はセルビア正教会に属していますが、他宗教の者でも遺体との対面は可能。宗教は違えど、聖なる空気にふれて心が浄化されるかのようです。



教会のテラスからは素晴らしい眺めが広がります。俗世から切り離されたこの場所で、かつての修道僧や巡礼者たちもこの景色を眺めながら祈りの日々を送っていたのですね。



モンテネグロの秘境の地にひっそりと佇むオストログ修道院。人々の深い祈りに触れれば、信心深くない人でさえも何か心に感じるものがあるはずです。

オストログ修道院へ行くには、ツアーの参加が便利。コトルからの1日ツアーが出ているので、興味のある方はぜひ検討してみてください。

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