先月初めに書き始めた「無聊の慰め」との雑文、「続々編を書くころにはウイルス禍も下火に」と期待していたが、月が改まって、続々遍どころか遂に「続・続々続々遍」を書くはめに。
自宅に留まるざるを得ない時間が激増して、普段以上に賄い屋稼業に精を出した。このところのメインテーマは「スパゲッティ・なんとかかんとか」。新コロナ・ウイルス禍で最大のダメッジを受けているイタリアの皆さんへの励ましのエールとの意味もチラリと含めつつ。
ミンチ肉、ベーコン、ソーセージ、各種チーズ、ホールトマト缶、ニンニク、レッド・ペパー、…などなどを買ってきて、どこかで齧り読んだアルデンテだのベルデイベルデイなんて呟きながらキッチンで格闘。具材・ソース作りもごく簡単だし、ゆで加減のコントロールも少し鍋に付き添ってやれば、さほど難しくもない。短時間で出来上がるので、グータラ賄い屋稼業の持ってこいのクッキングだ。
上掲写真は今回取り組んだもの。左上:スパゲッティ・ミートソース、左下:ベーコンとコマツ菜のペペロンチーノ。右上:スパゲッティ・ナポリタン、右下:なんとかカルボナーラ。
以下は中尾佐助さん監修日清製粉編『小麦粉博物誌2』にあったエッセイ「投げつけてみよ、ゆでかげん」の全文(少し長いが)です。無聊を慰めるのにバッチリな文章でした。
パスタをおいしくたべるには一にも二にもゆで加減と、イタリア人はやかましい。
かんでシコシコ歯にあたる硬さ、これを al dente という。 dente とは歯のことで、
つまり歯ごたえがあるというような意味の慣用句。もっとも人によってはもう少し若
い verde verde を好む人もいる。
「包装にどういう指示がかいてあろうと、真に正確な茹で時間などないに等しい。同
じ商標の同じ製品でも、茹で上がる時間はすべてちがうからである。製造時に圧搾
機の型板が古くなかったか、空気ないし水と空気の相関作用の影響、さらには茹でる
水の計算が正しかったか、調理する場所の高度(海抜600m を越えると、水は100度c
以下で沸騰するのでこれがパスタにはよくない)までもからんで、ちがってくる。だ
からパスタから目をはなしてはいけない、というよりむしろ、絶えず茹で上がりぐあ
いを口で試してみること。目で見て、茹でぐあいを言いあてられる料理人はまずいな
いからだ。とにかく、そばをはなれないように。英国のある頭の良い作家は、ひとこ
とでこう表現している。”スパゲッティはさびしがり屋。ひとりにしてはいけない"」
(マッシモ・アルベリーニ、アンナ・マルチーニ『パスタ・ピッツァ』小野村正敏訳)
ゆで方をこれほどうるさくいうのだから、19世紀の中期、まだスパゲッティを食べ
る習慣のなかった北イタリア人にとっては、南のナポリの人々のパスタ料理はずいぶ
んつくるのが面倒だったろう。いっぽう、ナポリの人々は、北のパドパあたりの平原
ではスパゲッティのゆで加減を、壁に投げつけてくっつき具合で判断している、とま
ことしやかに信じていたのである。
しかし、不思議な暗合だ。実は日本のそうめんにもこの”壁(ウオール)テスト”がおこな
われていたらしい形跡があるのだ。江戸天明期の狂歌の名人、蜀山人の作に、
投げつけてみよ素麺のゆでかげん丸にのの字になるかならむか
古くから「禅僧のそうめん食うよう」とたとえのあるごとく、こだわらず、サラリと
したゆで加減こそそうめんの身上、それを壁に投げつけて試すとは。
そのウォールテストで、サラサラとゆであがったそうめんは「丸にのの字」を描く
という。アルデンテのスパゲッティなら「丸にsの字」かな?
蛇足:ある禅僧がこんなことを書いていました「今、我々が持つべき姿勢は、”なんとかウツラナイようにではなく、なんとしてもウツサナイように”ということだ」。
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