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2019年08月30日01:17

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妙高紀行11 窯右衛門 ピッツァランチ / 東本願寺新井別院

 20日火曜日は、マイミク美女のpotiサンの車で天神堂古墳群〔史跡〕から、昼食のため国道18号線(上新バイパス)を南下、昼食のために道の駅あらいへ向かいました。
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 国土交通省北陸地方整備局と妙高市が管理する道の駅あらいは、平成12(2000)年にオープンしましたが、並行する上信越自動車道の新井パーキングエリア/スマートICに隣接しており、同PAからもハイウェイオアシスとして利用可能になっています。
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 平成27(2015)年に「駐車場立体化によるスノーシェルターやメガソーラーとEV車を活用した災害時の電力供給など、防災拠点」を理由として、重点「道の駅」に選定されました。
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 窯右衛門って店に入ってみました。
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 ピッツァランチ1706円也を注文しました。
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 パスタ・サラダ・ドリンク・デザートの外、ピザが食べ放題になっています。
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 店員が次々と各種のピザを皿に入れに回って来るシステムです。
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 私のパスタは「チキンとほうれん草のトマトソース」、彼女は「ツナとキノコとカイワレダイコンの和風」です。
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 満腹になりました。
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 続いて、旧新井市中心部にある東本願寺新井別院へ向かいました。
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 豪雨はピークを越えた感じでしたが、近くを流れる矢代川(関川の支流)は濁流が轟々と渦巻いて水位が上がっており、かなりヤヴァそーな感じになっていました。
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 当地には近世初期に浄土真宗の大寺院願生(ガンショウ)寺がありました。願生寺は、親鸞の高弟たる善性が下総国下河辺(シモコウベ)荘に設立していた寺院でしたが、戦国時代に戦乱を避けて信濃へ移り、それを上杉謙信が当地へ招聘(ショウヘイ)したのです。
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 願生寺は真宗の東西分裂後は東の大谷派に属し、17世紀中葉には檀家3000軒を数える有力寺院となっていましたが、高田城下の大寺院浄興寺と教義上の紛争を起こし、貞享2(1685)年に至って東本願寺の裁定で願生寺は異安心(異端)認定されて越後国外へ追放される事になってしまったのです。
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 願生寺の跡地には、門徒の動揺を抑えるため、東本願寺直轄の新井道場が置かれ、元禄元(1688)年に新井掛所と改名されています。一方、願生寺15世の英誓は信濃国へ逃れましたが、その子孫は越後帰還が許されて宝暦2(1759)年に頸城郡除戸(ノゾキド)村に証念寺を創建しまています。
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 新井掛所は延享4(1747)年の暴風雨、寛延元(1749)年の暴風雨、明和3(1766)年の火災、天明元(1781)年の洪水、天保14(1843)年の火災等、何度も災害で壊滅していますが、その都度再建され、明治9(1876)年に東本願寺新井別院と改称されました。明治11(1878)年には明治天皇の北陸行幸(ギョウコウ)の際の行在所(アンザイショ)にもなりましたが、その直後にも火災で本堂が炎上しています。毎年11月上旬に行われる報恩講は「おたや」とも呼ばれて頸南(ケイナン)地域最大の行事となっています。
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 山門を潜ってすぐに樹高20m・目通り幹囲5.3mに達する大銀杏〔妙高市指定天然記念物〕があります。推定樹齢300〜400年なので、新井道場設立の際に植樹されたと思われます。写真がピンボケになってしまったので、ネットで拾って来ました。
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 本堂です。明治28(1895)年の再建で、正面三間向拝付平入銅板葺(ドウバンブキ)入母屋造(イリモヤヅクリ)で、外壁は真壁造り白漆喰仕上げになっています。桁行・梁間がそれぞれ十八間もあり、新潟県最大の木造建築です。本尊は阿弥陀如来です。
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 左が食堂(ジキドウ)、右が庫裏(クリ)です。庫裏は明治天皇北陸行幸の際、関山にあった廃寺宝蔵院の庫裡を移築して行在所とした物です。
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 鐘楼と恵信尼公威徳堂(エシンニコウイトウドウ)です。恵信尼(1182〜1268)は越後国の豪族三善為教の娘で、承元元(1207)年に親鸞が越後へ流罪となった際、身の回りの世話をしたのが機で妻となりました。
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 恵信尼公堂は昭和31(1956)年の建立(コンリュウ)です。
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 境内には芭蕉句碑が建ちます。芭蕉が当地を訪れた事は無いんですが、嘉永6(1853)年に俳人和田清風が中心となって建立しました。芭蕉最晩年の句です。この写真も拾って来た物です。
 「人聲(ヒトゴエ)や 此道かへる 秋の暮れ」
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 境内には南蘋(ナンピン)派の絵師である森蘭斎(モリランサイ;1740〜1801)の墓があります。
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 蘭斎は新井宿中町の森田家に生まれ、20歳の頃に長崎へ遊学します。そして、8代将軍徳川吉宗の招きで享保16(1731)年から二年間に亙って長崎に滞在していた清(シン)の花鳥画家沈南蘋(シンナンピン;1682〜?)の高弟熊代熊斐(クマシロユウヒ;1712〜73)の婿養子となって画法を学びました。その後、一時帰郷しましたが、やがて江戸へ赴いて画道に専念、後に加賀藩前田家のお抱え絵師になったとされます。江戸で没し、墓は浅草本願寺中妙清寺に建てられましたが、関東大震災で瓦解、直系の子孫が既に絶えていたため無縁仏に成りかねない所でしたが、新井の人々の募金によって、昭和5(1930)年に当寺に改葬されたのです。
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《続く》

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