はや1月も15日、松の内が明けた。角川『俳句』1月号に、「松の内過ぎいよいよの余生かな 宇多喜代子」とあった。うぅ〜ん、実感!
栂尾の明恵さんは1月8日(承安3年)に生まれ、1月19日 (寛喜4年)に示寂。そんなこともあってか、このところ明恵さんに浸っていた。私奴の勝手に思うところだが、日本の高僧でもっともお釈迦さんに近づいたのは、明恵さんと道元さんではないかな。
私奴が初めて明恵さんに接したのは、明恵さんが書いた一通の手紙から。その手紙の宛先は生まれ故郷紀州湯浅に現存する島(苅藻(磨)島)で、内容は以下のような感じ。
「其の後、何条の御事候哉。罷り出で候ひし後、便宜を得ず候ひて、案 内を啓せず
候。抑嶋の自躰を思えば、…(略)
かく申すに付けても、涙眼に浮かびて、昔見し月日遥かに隔たりぬれば、磯に遊び島
に戯れし事思ひ出されて、忘れられず、恋慕の心を催しながら、見参する期なくて過
ぎ候こそ、本意に非ず候へ、…(略)」
「なんとまあ、故郷の人でなく島へマジな手紙を出すの?」と興味を示し、その後アレコレと明恵さんについて詮索し始めたのがキッカケだった。(刈藻島のとなりの鷹島の石を拾って生涯大事に側に置いていたり、「あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月」なんて歌を詠んだりと、まことに興味深かった。ちなみに石については、「われ去りてのちにしのばむ人なくば 飛びてかえりね鷹島の石」と詠んでいる)
このところ明恵さんに浸っていたというのは、昔読んだ河合隼雄さんの『明恵 夢を生きる』を再読したり、白洲正子さんのエッセイ『明恵上人』を覗いたり、田中久夫さんの『明恵』を拾い読みしたり、録画しておいたNHKプレミアムカフェ「白洲正子が愛した日本人 美の旅人 西行と明恵」をジックリと見たりという三昧だったということ。
(河合さんの臨床心理学は私奴には超難解だが、明恵さんの「夢の記」をベースに、明恵さんとさしで向かい合った河合隼雄の見解には、「なるほどなあ」と思った。)
河合さんも書いていたけど、エッセイスト白洲正子さんが鋭く指摘した「彼(明恵)が信じたのは仏教ではなく、釈迦という美しい一人の人間だったといえましょう」というのは、「まさにその通り」といえるだろうと思いました。
とは言え、明恵さんは真言密教・華厳宗・倶舎宗を修めた華厳宗中興の祖とも称される人。明恵さんの「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」という言葉には、お釈迦さんの教義の深いところをも示した言葉だろうと私奴は偶考している。
さらに妄想を逞しくすれば、明恵さんの「阿留辺幾夜宇和」は、道元さんの「只管打座」にも、もっと言えば一緒にするのはマズイかも知れんが親鸞さんの「自然法爾」や、世阿弥の「秘すれば花なり」や芭蕉の「不易流行」、更には漱石の「拙に処す」にも一脈通じるものがあると言えるかも知れないなあなんて。
いやあ、「夢を生きた」と称される明恵さんの尻馬に乗って、あらぬ夢のような妄想を書いてしまった。この辺りでお開きとしよう。明日からは、「いよいよの余生」を。
写真左:栂尾高山寺の明恵上人樹上坐禅像(部分)
写真中央:明恵さんゆかりの湯浅施無畏寺境内から見た刈藻島・鷹島(2004年写)
写真右:湯浅の街並みに掲げられた明恵さんの歌(2004年写)
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