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2018年08月31日11:06

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告白小説、その結末(ネタバレあり)


「トイレ、その後に」みたいなタイトルですが、とにかく言い辛いです。
チケットを買う時に「すみません、告白小説・・・」と言ったら、ああハイハイとすぐに先に進んでしまったので、「その結末」を言えなくて・・・夏。

ここからはネタバレ全開ズバリ言うわよ!という感じで行きますが、まあ別にネタバレでどうこうという映画では無いと思います。
ある設定については、その人物が登場した時点で「これはそういう事かも」疑うように演出してあるからです。
それは、主人公である女性作家デルフィーヌのファンであり友人となるエルが本当は存在しない、つまり主人公の妄想上の人物である事です。

この点については、実は最後までハッキリと指摘される事が無いため、こういった映画に慣れていない人は最後まで気付かない可能性もありますが、同じような設定の映画を観た事がある人ならすぐに分かるはずです。
この女性は常に主人公としか会話をしないし、誰も彼女を意識する事すらありません。
こういった演出が律儀に最後まで徹底されているので、非常にフェアな作りと言えますし、そこは好感が持てます。

ただ普通、この設定をサプライズとして活かそうとすれば、その事をもっと分かり辛くするはずです。
そこをあえて分かりやすくした場合、そう思わせて実は違う(妄想では無い)という捻りがあるか、そこを分かった上で観ていく必要があるのかのどちらかになると思うのですが、今作は後者になるでしょう。
実はエルが妄想じゃないかという疑惑が常にあるからこそ、この映画のサスペンス性は高まるのです。

こういった設定の映画はこれまでもたくさんあったし、設定やあらすじを読んだだけでそういう話じゃないかと思った人も少なくないと思います。
なんでこんな話を今更と。
僕はミステリー小説が好きで色々読んでいるのですが、その分野ではこういう話は本当にいくらでもあります。
そのため食傷気味になってもおかしくないのですが、不思議と素直に楽しめました。

これは女優2人の演技の面白さ、巧みさに魅せられた部分も大きかったと思います。
主人公は、目つきが完全に「warning!私どうかしてます。」という感じだし、エル役のエヴァ・グリーンについてはキレ芸が素晴らしく、終盤は完全にホラー映画です。
主人公がゲロを吐くシーンとか、まずいスープを無理やりのまされるのを本気で嫌がるシーンは、こちらにも伝染するような迫力があり、思わずゲーとなりました。

あと、同じ設定の話をたくさん知っていると「この話はどういうオチにするのかな?」という興味が逆に湧いてきます。
もちろんダメなオチだと怒り心頭になるわけですが、この映画についてはなかなかきれいにまとまったと感じました。

主人公は前作がヒットして人気となった作家なのですが、それは自分の母親について書いたノンフィクションでした。
このため親族からは家族を売ったと批判されたりしていたので、今回はフィクションで行く!と決心したのですが、これが書けなくて悩みます。

彼女はどうやら、ノンフィクション、つまり本当にあった事なら書けるけれど、全く架空の物語を書く事はできないみたいなのです。
そこで、ピンチの彼女を助けるがため、脳内で作られたエルが登場して創作を強要する事になります。

主人公はエルと交流を重ねる内に、彼女の過去の話を聞くことになります。
そこで、この話を書けば良いのだ!と思い付き、彼女に様々な事を語らせるのですが、当然主人公=エルなので、彼女の語る「辛い過去」というのは主人公自身の過去でもあると分かります。
どうも主人公はこれまで過去の辛い記憶に封印をしていた様ですが、それがこの過程を経て、遂に本を書く事に繋がる(すると結局またノンフィクションなのか?)といったお話なのです。

ところで、上記はあくまで僕がこうだと思った話であり、実際の内容と異なるかもしれません。
それは単なる勘違いかもしれないし、自分の解釈に近づけるために意図的に一部を捻じ曲げているのかもしれないのです。

映画の中で、フェイスブックにおける主人公の成りすましやそれによる炎上騒ぎが登場します。
ネット社会においては、個人があらゆる文章をあらゆる場所に書きこんでいますが、果たしてどこまでが事実なのか創作なのか、これに至ってはもう誰にも分かりません。

書いている当の本人はどうなのでしょうか。
事実では無いのに、その人の脳内では現実と認識して書いている例も多く、本人ですらどこからがフィクションが分からないのでは。
そんな勘違いや思い込みや妄想、意図的な嘘までが、現実とマッシュアップされてSNS上に公開されているわけです。
読んでいる方では、すべて本当の事としてひとまず認識する他ありません。
フィクションとノンフィクションの垣根が、これまで無いほど曖昧で境目が無い時代に、我々は今生きているというわけです。

この映画の主人公の様に妄想の相手と会話するなんて、キチガイ行為じゃないかと思うかもしれません。
でも、想像の中での自分との対話というのは、多くの人がやっている事なのではないでしょうか。
自分が話したい事があっても誰も聞いてくれないので、心の中にいるインタビュアーに質問させて自ら答える、という脳内対談は、声に出して電車の中とかで言わない限り、異常な行為ではありません。
そうした行為によって、自分で問題を解決できる事もあるでしょう。
この行為自体を文章にした場合、これは作家にとっては限りなくノンフィクションであると言えないでしょうか。

この映画は、創作におけるそういった過程を描くと同時に、フィクションとノンフィクションの垣根が不明瞭な現在の世界を描いているのではないかと思いました。
だから、最後まで明確な線引きは登場しないのでしょう。

さて、実は一番驚いたのは、映画を観た後、原作があるのを知ってそれについて調べた時でした。
なんとこの作者は本当に主人公と同じ境遇、つまり母親について書いたノンフィクション(リュシル: 闇のかなたに)でヒットして有名になり、その次回作として書いたのがこの作品の原作(デルフィーヌの友情)だったのです。
そしてこの映画の英題は「Based on a True Story(事実を元にした物語)」。

果たしてどこまでが事実で、どこまでが創作と言えるのでしょうか・・・。

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