mixiユーザー(id:10383654)

2017年10月01日15:10

216 view

与太と山姥

 先週木曜日から後期の聴講が始まった。少し早めに出かけ学生食堂で、「お久しぶり」と老齢(単に大学生さんに較べてのことだ!)の聴講仲間と馬鹿話をし、教室では一応神妙な顔つきで講義に耳を傾けた。「やはり、外に出かけ、電車に乗り、顔見知りとヨタ話に興じ、…」というのはなかなか気分がいいモンだ」と改めて思った。

 時間つぶしに図書館の雑誌コーナーで文芸春秋をパラパラとくると、「定年後の常識が変わった」との特集記事があり、少し前の日記に話題にした近時のベストセラー『定年後』の著者も「「良い定年後」と「悪い定年後」」とのタイトルの一文を寄稿していた。
改めて、「定年後ってのは、よほど世間の耳目を集めるらしいな」と感心しながらも棚に雑誌を戻し、このところ読んでいる『米寿快談』をカバンから取り出した。

 『米寿快談』は10年ほど前に出た本で、米寿に至った鶴見和子・金子兜太両氏の対談を纏めた本で、対談しているのがほかならぬ個性タップリの両氏だということと、対談をワザワザ「快談」と銘打っていることに引かれて読み始めたもの。これがナントモ実に面白い。(個性タップリと表現したが、実のところは両氏についてそんなに深く知っている訳ではない。それぞれの道で著名な年齢的には大先輩のオジサン・オバサンだなあ程度)

 「実に面白い」というのは、例えば、兜太さんの「夏の山国母いてわれを与太と言う」との俳句を取り上げての、以下のような対話。

 鶴見 「相手の欠点をついて大笑いして、しかし愛することをやめない。むしろより
  深く愛するようになる。これが喜劇精神である」。私はこの言葉が好きで、ずっと
  覚えてて、これがまたピュツと出てきたの(笑い)。というのは、その俳句は金子
  兜太と、百三歳で去年の暮れに亡くなられたお母様との、ほんとうの親愛感を表し
  ていると思うの。自分の子供の兜太を与太というところにお母様の喜劇精神がある
  んだと思う。
 金子 ああ、そのとおりです。
 鶴見 与太と言われて喜んで俳句にするところに兜太先生の喜劇精神があるのよ。そ
  して母親と息子の喜劇精神が結びあって、「ふたりごころ」になっている(笑い)。
 金子 うまいなあ。
 鶴見 それはいいんじゃない?
 金子 うん、それは明快だ。

(蛇足:兜太さんの用語では「ひとりこころ」とは自分だけを見つめるこころ、「ふたりごころ」とは相手に向かって開いていくこころ。相手とは人でも動物でも植物でも山河でも良い(要するに、自分以外の全て)のようだ。俳句には、この「ふたりこころ」が大事だと常々言っておられるようです。この辺りは正直なところ、私奴にはまだ良く分かっていないないのだが)

「快談」は、鶴見和子さんの生きざまを中心に、俳句と和歌の同質性・異質性、南方熊楠の話、ご両人若き日の人生、晩年に至っての心境などなど、溌溂として闊達な会話が次々と続いていて、大変興味深い内容となっている。

 ご承知の通り、鶴見さんは1995年に脳出血で倒れ、以降の左片麻痺の闘病生活の中に、新しく、猛烈に(まさに言葉通り猛烈に)和歌の道に勤しまれた。この本に載せられた幾つかの歌を、最後に紹介しよう。鶴見さんの最後の歌集のタイトルは「山姥」だ。

  半世紀死火山となりしを轟きて煙くゆらす歌の火の山
  我もまた動物となりてたからかに唸りを発すこれのみが自由
  踊り躍る感覚や戻りくるリハビリティションも稽古稽古また稽古
  きものすべてもんぺにせむと思い立ちおしゃれの心少し残れる
  完復は不可能と医師に知らされて限界までの自力ためさんと決す
  感受性の貧しかりしを嘆くなり倒れし前の我が身我がこころ
  生と死のあわいに棲みていみじくもものの相のするどき気配
  生命細くほそくなりゆく境涯にいよよ燃え立つ炎ひとすじ
  萎えたるは萎えたるままに美しく歩み納めんこの花道を

米寿を迎えてのご両人の快談は、なんとも爽快でお見事。世間でもてはやされる定年後ハウッーものより、余程私奴らに勇気を与えてくれる。

写真左:昨日の早朝散歩で見かけた彼岸花
写真中央:鶴見和子氏
写真右:金子兜太氏 
 
4 4

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する