mixiユーザー(id:2223977)

2016年08月27日21:46

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善悪の境界と民主主義の限界

善悪は
基準次第で
いくらでも変化する。

犯罪者には
平時は
刑を課し得るが

有事(戦時)には
何万人殺されても
殺害の責任主体の
罪が問えない。

なぜなら
殺害や破壊の主体である戦勝国は
戦時の殺人や破壊の責任を
免れるからである。

つまり
有事(戦時)は
軍事力(武力)が
平時の法律を
凌駕(無視)している事実を
明らかにする。

即ち
有事は
平時とは
異なる法(戦時法)が
通用することになる。

つまり
平時に「悪」と判断されていたのと
「同じ殺害行為」が
有事には「善」として
あるいは「命令」によって
「為すべき義務」と化する。

世界最大の軍事力にとっては
人の命も
自由自在であるという
恐ろしい事実が隠れている。

つまり
絶対的な力の前には
論理(言葉や理性)は無力だ。

また
民主主義は
過半数が誤った判断を持つ者の集団の中では
誤った判断が通用することを
許容する限界を持つ。

最も優れた判断が出来る者が
過半数を占めていない限り
民主主義が
正しい判断で世の中を主導することの
原理とは
成り得ない。

この民主主義の限界を越えて
本当に優れた判断が
全体を主導し得る原理を
見つけ出さなければならない。

けれども
善悪の基準といっても
価値観の多様性が存在している以上
(言い換えれば
 人の価値観の相違を受け容れるならば)
絶対的な原理を設定することは
独断主義を免れ得えないだろう。

しかし
民主主義に優(まさ)る
社会の主導原理を
見出すのは困難かもしれない。

ならば
マイノリティは
マイノリティの権利を守る
自衛の方法と原理を
持たなければ
マイノリティは
永遠に報われない
だろう。

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最終更新
平成28(2016)年8月28日 午前2時22分
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