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2016年03月01日18:50

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第26回 西田哲学研究会(於:京都大学)備忘録

いつもは
京大時計台の2階で行われる
西田哲学研究会(京都)
だが
今回は京大文学部新館の2階で開催された
第26回 西田哲学研究会
(2016年2月28日(日)午後1時半〜午後5時半)

西田幾多郎の論文
「表現作用」(1925 年)
の報告を担当し、
有意義な討議が行われたので
忘れない内に
記しておく。

1)美濃部 仁 先生からの質問
 「西田が表現作用を、
  表現内容、作用、表現其者(そのもの)
  の三つに区別しているが

  この区分は、
  ソシュールの言語論における
  シニフィエ(記号内容)
  シニフィアン(記号表現)
  などを想起させるが
  何か関係があるのか」

2)美濃部先生の質問に対する
  森 哲郎 先生の返答
  「ソシュールよりも
   フィードラーやディルタイからではないか」

☆ 私の感想

西田は
「表現作用」(1925 年)
の「一」で
表現作用の区分を
(1)表現内容(意味)
(2)表現作用(意味と存在とを結合するもの)
(3)表現其者(存在:表現を荷(にな)うもの)
に区分している。

ところで
プラトンのイデア論(Ideenlehre)の
分有(metoche, Teilhabe)説(Platons Einteilung)
(特に『国家』)の中で

見られる世界(Welt des Sichbaren)

認識する世界(Welt des Erkennbaren)

区分した上で
さらに
それぞれ

1)Dinge(諸物),Lebewesen(諸生物),
  Gegenstände(諸対象)
2)Abbilder 写像・影像(Wörter 諸言語)

1)Ideen(イデア)
2)mathematische Formen(数学的諸形式)
に区分して

いずれも
1)が原型(archetypos)
(といっても、その中でイデアが最も根源的な原型)

2)は模像(eikon)
に過ぎないと
語られているけれども

西田が
表現作用の
種類として
1)表出運動
2)言表作用
3)芸術的表現作用
に区別している中で
2)の言表作用を挙げていること


プラトンが
言語を見られる世界における
具体的な物の模像と捉えていたことと
関係しているとするならば

ひょっとして
表現作用の区分も
プラトンのイデア論に基づいている
のかもしれない。
(参考 URL

その場合
(1)表現内容(意味)
(2)表現作用(結合)
(3)表現其者(存在)

(1)が(2)によって映された意味内容としての
   言語、数学的形式等の模像(Abbild)
(2)が原型写す(映す)作用其者
  (質料を映す Spiegel 鏡 ; 質料を受取る Ort 場所)
(3)が光(照明作用としての)イデア
  (叡智の眼で見る世界=Welt des Erkennbaren
   =プラトンにとってはオン=真実在=有)
  (或いは 物、生物、対象等の質料
   =肉眼で見る世界=Welt des Sichtbaren
   =プラトンにとってはメー・オン=非有=無)等、
   原型(Urbild=実在)
   と呼ばれるもの

纏めると

(1)表現内容は、Abbild(模像=質料=無)→キリスト
(2)表現作用は、Spiegel(鏡;Ort=場所)→ 聖霊
(3)表現其者は、Urbild(原型=形相=有)→ 父なる神

ということになるだろうか。 

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

それから
ディルタイ(Dilthey, Wilhelm Christian Ludwig 1833-1911)
からの
西田(西田幾多郎 1870-1945)
への影響という観点からは

ディルタイが
自然科学(Naturwisseschaft:
ナトゥア・ヴィッセンシャフト 自然学問)
に対置した
精神科学(Geisteswissenschaft:
ガイステス・ヴィッセンシャフト 精神学問)
という
発想を
西田は評価していた
のだと思う。

特に
新カント派の
リッケルト(Rickert, Heinrich John 1863-1936)
によって
精神学問(Geisteswissenschaft)

文化科学(Kurturwissenschaft)

矮小化されようとしている
流れ
(この「流れ」が結局
 Geisteswissenschaft(精神学問)を
 「人文科学」という名称に
 変質させてしまう結果を伴った。)
に対する
精神学問(Geisteswisseschaft)

復権を目指した
西田の思想には
共感できる。

というのは
ディルタイの発想は
そもそも
ミル(Mill, John Stuart 1806-1873)

『論理学体系』("A System of Logic" 1843 年)

ドイツ語版翻訳(1849 年)
に当って
自然科学
にミルが対置していた
道徳科学
(「人間本性に関する諸科学」の意味で、
 歴史、言語、経済、社会、人類、心理、法律、宗教
 などに関する諸学問)
に対して
Geisteswissenschaft(精神学問)
という訳語が造語されたことを
契機として

ディルタイが
(急逝した生理心理学者であり哲学者でもあった
 ロッツェ(Lotze, Rudolf Hermann 1817-1881)の
 後任として1882年に
 ベルリン大学教授に就任し
 その翌年に発表した)
" Einleitung in die Geisteswissenschaften " 1883
(『精神科学序説』第一巻)

「Geisteswissenschaft」
という用語を用いたことで
普及した概念で、

その後
心理学者の
ヴント(Wundt, Wilhelm Max 1832-1920)
の実証的な心理学の諸著作
などによって
流布するようになり

自然科学を除く
「経験科学の総称」
とされるようになった考え方。

ディルタイ自身は
この
Geisteswissenschaft(精神学問)

基礎付けに
努力し
それをディルタイは
Hermeneutik(解釈学)
だと捉えて
方法論的基礎を確立すべく
努力した。

ディルタイが
Geisteswissenschaft(精神学問)

対象を
歴史的社会的現実
だと捉えたのは
シェリングや
マルクスの
影響が見て取れるが

Geisteswissenschaft(精神学問)

方法論的基礎

従来の
「説明的構成的心理学」
に代わる
「記述的分析的心理学」
だとし
それを
後には
「解釈学(Hermeneutik)」
だとしたあたりには
哲学者としての不満が残る。

そのあたりを
西田は
より深めようと
していたと思われる。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

2)氣多 雅子 先生の疑問点
 「西田は言葉では歴史と言うけれども
  西田は歴史を撥無してしまうような永遠を語る。
  けれども
  永遠なるものから歴史は出て来るのだろうか。
  果たして西田には歴史的なセンスのようなものが
  あったのだろうか」

3)氣多先生の疑問に対する
  美濃部先生の質問
 「氣多さんが言う歴史とは
  どういう意味で言われているのでしょうか。」

4)氣多先生の返答
 「radical(根源的)な reality(リアリティ)です。
  事実性だとか実在です。」

☆ 私の感想

たしかに
思想(それが真実在だと言われたとしても)
からは
実在も事実も出て来ない。

そのことは
シェリングも言う。
即ち
絶対的なプリウス(真実在)にとって
経験への
いかなる必然的な移行も存在しない、
と。

けれども
シェリングは
キリスト教の教義に基づき
絶対的なプリウス(宗教的に「神」と呼ばれているもの)

その自由意志によって
気まぐれに
存在の中へ受肉(神託 incarnation)するので
(とはいえ、神によって選ばれる個人は
 神が選びたくなるような個人であり
 神をして incarnation せざるを得なくなるような
 そういう人格的な特性を備えた個人である場合が多いが
 それとて決定的なことは何も言えない。
 なぜならば
 善人だけが、あるいは
 徳を積んだ人だけが
 啓示を受取るという必然性はどこにもなく、
 極悪非道な人であっても
 神が受肉して
 彼が啓示を受取ることが
 いくらでもあるから。)
絶対的なプリウスが
存在化する「必然性」は無いけれども
絶対に存在化しない
わけではないことを言うし

そもそも
現実に何物か(Etwas)が存在している
という事実は
その存在を生み出した
何ものかが
ある(居る)
からであり

その意味で
存在を存在化しているもの(絶対的なプリウス)を
想定することは
避けられない。
(だって、既に存在は存在として
 事実、存在しているのだから、
 この存在の原因を考えることは
 思惟の必然性であるからだ)

なので
現実の存在を
存在化している(あるいは存在化した)
そして今後も永遠に存在化させ続けるであろう
究極の根拠として
絶対的なプリウスは
消極哲学の最終結論として
出て来ざるを得ない。

ならば
我々が現実に見ている事実
我々が見る事の出来る存在

絶対的なプリウスの痕跡を
見出す事が出来れば

絶対的なプリウスの存在を
背理法的に
つまり
ア・ポステリオリに
実証することが出来る筈であるし
また
真実在するもの(純粋存在)であれば
それがたとえ
永遠に存在化しないもの
(存在化したものはすべて模像に過ぎない)
にしても
その存在の原因と成り続けているものを
実証することは
少くとも間接的には
可能でなければならない。

そう考えたのが
後期のシェリングであり
その為に創始したのが
積極哲学なのであるから
シェリングの方法論と原理論を採用すれば

叡智的世界と
現実的世界(したがって歴史的世界)とを
結び付ける証明は
不可能ではないはず。

もちろん
その証明は
絶対的に完結していない証明に
成らざるを得ない運命にあるのだけれども
(なぜなら、証明されるべき対象は
 どこまでも対象とは成り得ない非存在だからであり
 絶対的なプリウスであり
 認識されることを拒み続けるものだから)
そこで証明され続けられるものは
勝義の原理(宗教に固有な原理としての神話と啓示)を
基礎としている。

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最終更新
平成 28(2016)年3月12日 午前6時47分
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