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2016年02月16日22:35

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「多元的不二一元論?」

さて2月15日というのは浅田美代子さんの誕生日であった、1956年生まれなので今年で60歳・・・おお、美代ちゃんも還暦を迎えたわけざんす!!

しかしまあ、同じくTBSの超人気ドラマ「時間ですよ」でデビューして一世を風靡した天地真理さんの(芸能人としては)あまり芳しからぬ現在の様子と比較すると、美代子さんは素敵な年齢の重ね方をして「可愛いおばさん」になりましたなあ・・・。


というわけで、こちらは先日放送された回顧番組での18歳の美代ちゃん






そして、最近の美代子さん動画・・・ふとした瞬間に「美代ちゃん」を彷彿とさせる仕草や表情が蘇ったりする(とくにくりくり動く大きな瞳)、同一人物なのだから当然といえば当然であるが(笑)






久々にヤフオクに出品されている「美代ちゃんグッズ」に入札し、一つは競合せず落札。もう片方は木曜夜にオークション終了予定だが、落札できる可能性は高いので大いに期待しよう。


しかしこの際は還暦祝いで、超レアものと化しているセカンドライブLP「美代子のページ」を是非ともCD復刻してもらいたいものだ!!!



さてさて、誰も興味を示さない道楽のお話?はこの辺にして・・・


今年はアルナーチャラ初見参20周年・臨在サイト立ち上げ12周年のメモリアルイヤーであるが、実はもう一つメモリアルな歳月の区切りの年でもある。


TAICHI-KIKAKUの身体詩ワークショップ・・・私がそれに初めて参加したのが2006年の冬のワークショップだったわけで、今年で10年となるわけざんすね。


http://taichi-kikaku.com/TAICHI-KIKAKU/Top.html


TAICHI-KIKAKUとの関係性のなかで展開されゆく「私の在り様」とでも言うものもこの10年の間にその意味するものが変化してきているわけでもあり、

とりわけラマナ信奉者として一応?「アドヴァイタ(不二一元論)」に準拠している以上、「私」とか「存在」とか「世界」とかへのアプローチに関しては、現在にあっては「立場の違い」がかなり明確になっているわけでもある。


ではあるにしても、身体詩ワークショップがもたらす「私なるもの」の在り様への新たなるインプレッション・・・は未だにビビッドな視点の変容をもたらしてくれるのである。



さて10年目の身体詩ワークショップ・・・シリーズとしては昨年11月からの連続ものなのだが(複数回で構成されるプログラムでもあり、全体を通底するテーマに沿って展開される・・のが常である)、

私は「第25次インド計画」で不在だったため、今月6日&13日の2回のワークショップが久々の参加となったのであった。


でまあ、もたらされた知見はいくつかあるのだが、主だったものとしては2つであった。


一つは「ペルソナ」に関するものである。

・・・ということでここでそれを説明したいのだが、実は一筋縄では行かない内容なのでもある。


実はある種のシンクロ現象と言い得るのであろうが、この2回の身体詩ワークショップを挟んでの数日間には、例えば入手することとなった古本とか、かなり意味深な夢見であるとかのそれぞれ単体としても興味深いインプレッションの去来が連日発生していて、


それら全体を整合的に統合して著述したい・・・という思惑もあって、これはもしかしたら「論考」というだけのスケールを持つものかもしれないのだ(笑)


・・・ということは、これは「ウルトラ長広舌」となる気配に満ち満ちているわけで、この際総括的な結論から先に提示すると


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要するに、私(あるいはシリウス・マハナンダたるところの)は

お気楽脳天気なニヒリストであるところの「神の道具として機能している」一人の道化

・・・というあたりがもっとも適切な実存状況と言えるだろう(笑)

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ということになるのだが、

それは同時に「世界」に対する責任放棄・・・という、バクタの在りようを肯定的に示唆しているわけでもある。


この「傍観者」というレヴェルは、あれこれの「自己実現ワークショップ」ではどちらかと言えばネガティブな響きで捉えられる傾向があるやに感じられるのだが、アドヴァイタ(不二一元論)的見地からはむしろ「世界に対して我々が取り得る唯一の営為」とでもいうような感触がある(ように私には感じられる)わけで、


後者の感触がバクタとしても整合性がある・・・としたならば、特に今回の夢見から得られたインプレッションの象徴するところは、(そのショッキングな内容とは反転して)どこか「ポジティヴ」なグラデーションに位置するかのように思われたりもするのだよなあ。


まあ、これは「刃傷事件」でもそれなりに自覚したわけでもあるが、案外私のアドヴァイタ(不二一元論)的な立ち位置というのは、単に観念的なものではない・・・ことの証左足りうる夢見のリアリティーなのかも?・・・と感じた次第である。


と同時に「一切の事象はただ過ぎ去る」という真理をクールアーナンダの様相で徹見する・・・という在りようが、最近のもう一つの道楽?として入れ込んでいるオットー・クレンペラーの創り出す音楽と極めて親和・親密的なグラデーションを体現する・・・のではないかなあ?と思ったりもするのであった(笑)



かくして、おそらく全体性の流れはどうやら「喜ばしき」方向性へと「成熟しながら推移しつつある・・・ような感触に満ちている!!・・のかしらん?


実は最終的な収束は、厳密には大変矛盾した表現であるが、

「多元的不二一元論?」とでもいうようなアクロバチックな地平

・・に軟着陸できるのかも?


というのは、さあて単なる「希望的観測」なのかどうか?・・を今後冷徹に見定めていくしかありまあせんなあ、わははははは・・・・・!!!!!


とかなり強引な荒っぽい展開で次回に続く予定ざんす。
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