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2015年12月24日10:41

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公演終わりましたー。ディストピアやってみました。

「これから僕は子どもについてだけ語ろう。それは僕らの議論の勢いを1/10くらいに落としてしまうのだが、それでも、子どもについてだけ語ろう」――イワン・カラマーゾフ





いやはや、めずらしくお招ばれで上演して参りました「碍子の兵法 月夜のでんしんばしら2119」、一夜明けましてぼちぼち大道具の片付けなどしながら、まとまらないけどまとめます。

ぜんぜん関係ないけどこないだ南多摩高校演劇部っていうとこがやった「ピロシキ」ていう二人芝居を見たんですが、要するにこれが漫才だったんですわ。漫才はええなあ、どんなハチャメチャな内容でも基礎的構成がしっかりしてるんでビクとも揺らがず上演できる。これは賢治童話で言えば「かしはばやしの夜」に当たるよな、と思った。

大体において童話集「注文の多い料理店」のラインナップは、この土台構成の頑強さってことではピカイチでして、これが上演時(特に児童劇の場合)すごくやりやすくなってる要因であります。ただ一篇「月夜のでんしんばしら」を除いては。

電気総長(潤色版ではチーフ・サッチナム)の膨大かつイマイチ意味があるんだかどうか分からない長台詞がありますね、「有名な話をお前は知ってるだろう」のとこ。高校生の時はじめに取り組んだ8篇の賢治童話(どんぐりと山猫から鹿踊りのはじまりまで)をぜんぶ通しても、あの長ゼリのアンバランスな肥大さは何なんだろう、という思いは大きな疑問として最初からあったわけです。

一方で、こと読解鑑賞ということになると、何十年も賢治を専門にやってきた僕らにして、一度も「これはこういうハナシだ」ていうキモを捉えた!との感触を得たことがなかった。こと本作に関しては谷川雁氏、赤坂憲雄氏の仕事も、本質に迫って俳優の身体に落とせるところまでの示唆をできるところまで行っていない、という感じがし続けてきています。これまで確か4次にわたって上演してきましたが、構成美はできるんだけども読解に届かない、という歯がみがですね、長年の宿題としてあったわけです。

賢治は親切な作家で、謎を散りばめた時には解読へのヒントも書く人です。未定稿ならまだしもこういう出版まで行った作品で謎だけ放り出すことは決してしない。シェイクスピアではありませんが「答えは台本に書いてある」わけです。しからばあのタドンのような長ゼリはなんであるのか。必ずワザと書いている。はずだ。ああ書かなきゃいけなかったわけがあるはずだ。

土台構成、と書きました。キッチリとした土台構成に収まらないものを、あのハナシは抱えている、収まりきらない苛立ちがあれをあのバランスで書かせ、そのアンバランスさが読者や観客をグラグラ揺さぶる。という苛立ちの伝達。それがそのまま恭一の一夜家出みたいな行動につながってもいるのだろうということは、モヤモヤのなかで何となく分かっていた。

そして去年、一次大戦開戦100年を迎えて2011-14年の日本の状況を百年史のなかに置いてみようとしている時、いくらなんでも百年もかけてシベリア出兵の総括を誰もしないままサクッと先へ進んじゃいけないんじゃないかと思ったのですよ。アジアを忘れて生きようとした近代日本が何を総括し損なってきたのか。東日本出身として、「北」をちゃんと見ようとしない日本の執権層に異議を申さないわけにはいかんだろうと。

僕は茨城県南の出ですので、タケルや田村麻呂への抵抗、秀郷や将門の抵抗、松平徳川への抵抗など風土も文学も波状的な度々の維新と受容の強制に晒されてきたことを自明のこととして育ってきています。サケもクマも知らない連中に武力で出し抜かれてきた歴史。敗者の土地としての礼賛しかねる故郷。だから、今日からは新しい政権に頭を垂れて生きなさいと教えられる思春期の苛立ちが家出に直結する感じはとてもよく分かる。分かるんだが、どうも恭一の苛立ちはそれだけでは述べ切れていないように思う…。

おそらく「黒船」みたいなもんだということは分かります。列車と電信という2大テクノロジーの到達。今では旧態に属するこれらとの初の出会いが恭一を揺さぶった、と。旧態だからなかなか僕らには分からなくなってるんだと。今回の演出の半ばは、「そんなら時代を未来にとって再度の鮮烈な出会いを試してみよう」ということでした。そのことは間違ってないしたぶん本作の演出においてまだ試されたことのない境地ではあろうと思う。それでも、まだ何かが足りない。

賢治ははっきり書いていないことですが、岩手に関しては田宮虎彦が、シベリアに関しては黒島伝治が書いていることがあります。黒菅連作10篇を初めとする幕末東北ものにおいて幾度も幾度もそしりの対象になっている二本松藩の裏切り。奥羽越三十一列藩同盟を薩長土肥に売り渡した同藩の行いによって会津が一夜にして陥落し伊達南部庄内も次々に落ちていく様子。また、沿海州の奥深くロシア赤軍追討の任に着いた日本陸軍が大義なき戦闘に疲弊して滅亡していく様子。

東北本線はシベリア出兵の補給線として急ぎ敷設された鉄道であり、東京電気会社も日本碍子会社もこれに間に合うように稼働した国策企業でしたが、戦争自体はロシア内戦への干渉が目的で、赤化されない土地をシベリアにとりあえず残すための共同ラインを作るため、いちばん近所だった日本が列強から駆り出されて参加した、つまり領土的野心も日程も不足のまま「つきあいで」やった戦争です。最近の言葉で言えば「集団的自衛権」の数少ない発動例でした。アテルイ以来抵抗の牙城だった岩手がある日侵略者への加担に転向したわけです。しかも負けた。このこともまた恭一を揺らがせた大要因のひとつだと考えられますし、月夜のでんしんばしらにこのことを付け加えた上演も、これもまた初めてのことだったと思います。

でも、それでもまだ、何かが足りない。

いま、上演を終えて、僕らはどういう時代に向き合わねばならないんだろう、ということを思っています。

「碍子の兵法」にはレジスタンスが出てきます。アイヌ、ツカル、ヒタカミ、ヤマト合同先住民戦線。あるいは蒙古靺鞨朝鮮と結んだ東シベリアの(おそらくレナ川・アムール川とサハ共和国・沿海州地方を母体とする)新共和国。これは、幻視された100年後としては起こりうる世界観です。でも、たとい起こりうるとしても、それは求めるべきものなのか…。日本国が日本州に転落しアジアのいち民族自治体にすぎなくなった近未来があったとして、そこに起こりうる理想的な姿としてレジスタンスを描くべきなのか、という問題が、宿題としてまた残ってしまった、という無念を感じています。だって、そういうレジスタンスなら何のことはないすでに世界にいやというほどあふれていて、たんに僕らがその当事者になる巡り合わせに今のところなってないだけじゃないか、と。

それは「テロとの戦い」などという本質を突かない態度表明と、少しも変わらないじゃないかと。戦争と内戦とテロとが規模と様態を少し変えただけの同じものであることは、ユーゴ内戦以降国連でさえ認めざるを得ない事実となってきていて、むろんアラブ対イスラエルの構図ができあがるずっと以前から抵抗側にとっては当然それは戦争であったわけでしょう。コソボはその最後の道標になってるわけでしょう。過ぎたことはやむなしとはいえ、もはや可視化された現代以降において、レジスタンスで平和がもたらされる可能性はぜんぜんないか、あっても極めて低い可能性しか持っていないことは、まず僕自身が認めなきゃいけなかったんじゃないのか。

じゃあどうすんだ、という問題はあります。どうするのかを考えるのは難儀なことです。でも難儀だからといって現行のままでいいということにはならない。もともと月夜のでんしんばしらはディストピアとして書かれてるのだから、ディストピアは乗り越える、という方針でいなければどうにもならない。はずだ。

そしてそもそも平原演劇祭は「200年後、国家の概念がなくなったあとの世界において、どういう芸能が存在すれば人々は幸せか」ということを追求するための現行最良のシステムプランとして15年も前に発案されたものなわけです。そして当初の予定の倍以上のペースで活動し続けてきてもいる。その平原演劇祭がここで今さらディストピアに取り組むのはもしかしたら醜聞なんじゃないかという疑問もあるようなないような。はるか先「だけ」を見つめてるんじゃダメなのか?という批判が内心聞こえてくるような気がしています。

でもね、賢治ですら、引っかからなきゃならなかった事案なんで、仕方ないのかもなあとも思います。そこで止まっちゃったらもちろんダメだけど、膨大で活発な作品を今後も残していくことでしか、時代の先を見通すことはできないかとも。

まあぶっちゃけたところを言えば、200年経てば国家なるものの世界的常識は今とはずいぶん違うだろうし(現行の国連式の近代国家にしても世界的に定着した歴史はわずかに1960年ころまでしか遡れません)、あらゆる意味で庶民の存在は大きくなっているだろう、ということは間違いなく言えると思います。そして大戦争は起きにくくなっているだろうとも。だので、争いなるものを大戦争から小競り合いや内戦へと縮小する試みはおそらく成功するでしょう。向こう三軒のご近所同士「仲良くケンカする」くらいのところまで縮小することができればそれは庶民の勝ちです。ここには見込みがあると僕は思っていて、そのためにみずからの中に異文化を見つけることのできる芸能の普及によってあらかじめその時代に備えて行くことは、現代から始めても決して遅くはない、というのが、平原演劇祭の基本理念です。

現代式の国家は金融と人口の問題を解決できない限り遠からず(半世紀ほどで)衰退に向かうでしょう。恒常性を備えてるはずだった現代のシステムが劣化していく時代に僕らはつきあわなきゃならなくてなかなかそれはキッツイことではありますが、生活の困窮として現れてくるに違いない世界情勢に対しては、それを笑い飛ばせる身体を身につけておく以上の良対策はなかろうと思います。

国家観の再編成はどういう具合に行われるか。谷川雁氏は「東アジア黄藍戦争」においてユートピア事例として「国家機能の地域自警団群への丸投げ」を小説風に書いています。僕らもこれは上演しましたしユートピア事例としては良好なんですが、それはあくまでも子どもの視点で書いているからで(ただし強調しておくとその視点を持つことは未来を見通そうとする場合必須)、現実の流れはそうそう甘くはないだろうとは思います。おそらく国家の崩壊に伴い幾つかの広域経済連合のようなものが世界を数ブロックに分割統治しようとする流れになりましょう。現代において早くも弱体化の兆しを見せ始めている僕ら中産階級はやがて定義づけられなくなり、貧富択一の世界で一握りの富者が生き残り戦を展開することになろうかと思います。ただ、その富者たちが、自身が充分に生き残れるためにすら現行の美味しい目先の独占金融体制(=何も売り買いせずともものの価値が全体に下がっていくスパイラルシステム)を手放すかというとそれはきわめて疑わしく、彼らのやり方が破綻する可能性は大いにあると考えます。そこが貧者にとっては狙い目です。ごっそり実質上の自治権をご近所の長屋に持ち込んでしまうチャンスで、しかもそのチャンスは何度も訪れましょう。アジールはたまにあるからアジールだけど、そこら中にあればそれは新しい国家観の主要要素になり得るし、おそらくはそうなるしか道はない、と私は思っています。

阪神大震災の直後に北村想氏は「がれきの中でも子どもはゴムまりを放る。そのことを知ってる限り演劇にはまだやれることがある」と書きました。まったくその通りなんですが、平原演劇祭はそれを「あらかじめやる」ことを目的にしてきており、まだそれは誰もやっていないスタイルであり、今後もその方針に変わりはないかと思われます。


https://www.facebook.com/hirohide.tsunoda/posts/935352276558812
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