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2015年11月19日03:37

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反社会と非社会と超社会(超歴史)

イスラム国の処刑行為も
反イスラム国勢力の軍事行為も
どちらも
「反社会」行為で
「偽」であり
「悪」であり
「醜」であり
「俗」である。

ところで
「非社会」行為とは
社会的で再生産的(reproduktiv)ではないが
反社会的でもない
いわゆる
「無用・非実用的」な行為で
これは
社会的な意味は無いけれども
排除されるべき行為
ではない。

要するに
「無意味」な行為ではあるが
「為すべきではない」行為とは
判断されない行為。

具体的に言えば
認知症の症状によって生成される行為など
がそうである。
その行為が
迷惑だと判断されれば
排除されたり抑止するべき行為だと
いうことにされることが多い行為である

その行為そのものが
「犯罪」と判断されることはない行為。

これらに対して
「超社会(超歴史)」的な行為とは
社会の常識や
時代(歴史的に限局された或る時代)の傾向から
自由に
社会(歴史)そのものから
独立に為される行動。

その行為が
社会(歴史)を前進させる時には
「社会(歴史)前進的行為」
と見做される(といっても事後的に)
だろうし

その行為が
社会(歴史)を後退させた場合は
「社会(歴史)退行的行為」
と見做される。

「超社会(歴史)」的行為が
結果的に
社会(歴史)を前進させるか
それとも
社会(歴史)を後退させてしまう結果を招来するか

行為されている最中(さなか)では
判断し難い。
つまり
行為された後でないと
判断できない。
(事後であっても
 判断は分かれるだろう。)

けれども
社会(歴史)を前進させる力(或いは勢力)は
最初は
「反社会(歴史)」的だと見做されて
処刑されたり(イエスやジョルダーノ・ブルーノのように)
抑止の対象と見做されて
虐待されたりする傾向がある。

もちろん
その「反社会(歴史)」的と見做された行為が
歴史的に見ても
「反社会(歴史)」的であったことが判明することも
多い。

その逆に
社会(歴史)を進歩させると信じられていた
社会的行為が
結局は
社会を崩壊させる行為であることが
後に判明する場合もある。
(フランス革命後の恐怖政治や
 ドイツのナチズムや
 イタリアのファシズムのように)

いずれにせよ
或る行為が
「反社会」的であるか
「非社会」的であるか
「超社会」的であるか

判断するのは
「一定の限定された社会」という
「視点(パースペクティヴ perspective)」
であっては
ならない。

というのは
一定の限定されたパースペクティヴは
真偽や善悪や美醜や聖俗の
判断の「基準(Kriterium)」
として
無くてはならない
判断の主体でもあるけれども

その基準(視点)を
「固定化」すると
真偽と善悪と美醜と聖俗が
あらゆる場合に一つの答えしか与えられず
そのような判断では
現実の多様性に対応できなくなる。

また
一定の固定化された社会の判断
(例えば中世の社会の判断)
において
「真・善・美・聖」
と見做される判断

他の別の固定化された社会の判断
(例えば資本主義社会の判断)
において
「真・善・美・聖」
であると見做される判断
とでは
同じではない。

なので
一定の固定化されたパースペクティブ
(あるいは一定の限定された視点)
ではなくて

場合に応じて
視点を切り替えられるような
自由度が有れば

現実の多様なケースの
各々に対応した処置が出来るので
あらゆる問題を
解決に導き得る。

なので
パースペクティヴ(perspective 視点)

360度
前後左右
上下斜め
どちらへも
首を振れるような
「揺れ(schweben)」
もしくは
自動車のハンドルの「遊び(Spiel, Sport)」
のような
柔軟性(融通無礙性)を
持っていることの方が
固定(限定)化されて
いるよりも
多様な現実の場面(現場=実践局面)における
判断には
有利である。

即ち
「視点(Perspective)」
或いは
「立場(Standpoint)」
そのものが
融通無碍であるような
「立場無き立場」

「中庸の判断」には
求められる
ということである。

そのことは
裁判官の判断が
一定の固定的な立場に立つのではなく
常に
公平で中立の立場に立つ
ということが求められている
ということを例に考えれば
判りやすいと思う。

即ち
「公平で中立な中庸」

「対立する二項」

「Case by Case(ケースバイケース)」

「如何様(いかよう)にも
 変化(へんげ)し得る、
 360度、上下左右の自由度を持つ
 判断」
である。

何が中庸で
何が逸脱かを
区別することが出来ないことを
仏教では
「愚痴(ぐち=理非の区別がつかないおろかさ)」
と言うが

中庸(メソテース)か
逸脱(das Abweichen)か

判断は
実際には
とても高度で困難な判断なのだ。
(生体の場合は
 正常な細胞か
 生理を逸脱した
 異常な細胞(癌腫または肉腫)であるかは
 一目瞭然であるのに、である。

 そこには
 「一目瞭然」であっても
 それを
 「王様は裸だ」と言えなくする
 「力」が作用しているから
 であり
 中庸の判断を
 そのまま発言したり行為することを
 控(ひか)えさせてしまう
 「暴力」が存在するから
 から
 である。

 その意味で
 中庸の判断を為し、行為することは
 「世間的な富や名誉」を求める人にとっては
 「割に合わない、損な考え方」であり
 場合によっては
 「社会的に干される可能性もある危険な思想」
 として
 避けられる傾向にある判断でもあろう。

 しかも
 その「中庸」としての
 「中心点」ですら
 「固定化」されてはならない
 のであるから
 「悟り」も「啓示」も
 パースペクティブが固定化された途端に
 「悟り」であることを辞め
 「啓示」であることを辞め
 「悟り」の「生命」
 も
 「啓示」の
 「生の弾(はず)み(élan vital エラン・ヴィタール)
 も
 失われてしまうことを
 忘れてはならない。

 その意味で
 唯識思想において安慧(あんね、あんえ)等が唱えた
 「無相唯識」の立場は
 傾聴に値する立場であると言えるだろう。
 もちろん、唯識の立場を固定化すると
 また「悟り」から離れてしまう事になるのだが。)

イスラム国の処刑行為も
愚痴ならば
イスラム国に空爆するフランスの行為も
愚痴であると
判断するのが
中庸(メソテース)の判断
あるいは
大中観」の判断で
なければならない。

そういう判断を為し
そういう判断の基(もと)に行為することは
イスラム国からも
フランス国からも
敵視されることになる。

それどころか
何らかの固定化された立場に立って
その視点(パースペクティブ)から
物事を判断する
殆(ほとん)ど総(すべ)ての人から
敵視されることをも
意味する。

つまり
中庸の判断を為し行為することは
両極端な二つの勢力の主張のどちらにも
反対する立場を採ることを意味するので
両陣営から
敵視され攻撃される事を
覚悟できなければ
為し得ない判断であり行為なのだ。

或いは
殆ど総ての人は
何らかの固定化された立場(Standpoint)で
物事を判断するので
固定化されない無の立場(立場無き立場)で
物事を判断する者は
固定化されたパースペクティブを持つ総ての人
から
敵視されることを
覚悟しなけれれば
出来ない判断である。

中庸を行為し
ミッシェル・フーコーの言う意味での
「パレーシア
(真実を言うこと)」
を実践する
「パレーシアスト(真実を隠さずに率直に話し行為する人)」
であることは
イエスのように
磔刑(はりつけの刑)にされたり
ジョルダーノ・ブルーノのように
火刑(火炙(ひあぶり)りの刑)にされたりする
危険を伴うことを覚悟しなければならない。

それが怖いので
みんな
言動を控えるのだ。

そして
支配者や
為政者は
そのような
人間の恐怖心を
利用して

自らの悪行を
堂々と実行し
目的を達するのだ。

或いは
フーコーが区別したように
「暴力」は消極的に
他者の意志を無視して己の意志を実現すること
であるが
「権力」は積極的に
他者の意志を己の意志に従わせること
であるならば
「支配者」は「暴力」で国民を抑圧し
「為政者」は「権力」で国民を操作して来た
と言い換える事が出来るだろう。

人類の歴史は
そのような
人間が恐怖心を越えられないことを見込んだ
「暴力の論理」
または
「権力の論理」

多くの理不尽な行為が
実行されて来た(「暴力の論理」の場合)し
あるいは
可能化され(「公的」という蓑にその暴力性が隠されつつ)
実行されて来た(「権力の論理」の場合)。

この
人間の「恐怖心」を前提とする
「暴力」

人間の「世間的な成功を求める願望」を前提とする
「権力」
(つまり
 「出世したければ我々が用意した枠内に収まれ。
  我々が用意した枠内に収まらないのなら
  出世はさせないし、仕事も与えないぞ」
 という
 「政治的圧力」)
から
「自由な翼」

我々は
「悟り」と「啓示」の中に
(「仏教の悟り」と「キリスト教の啓示」の中に
 もちろん、その他の総(すべ)ての宗教の原理の中にも)
つまり
総じて
「宗教に固有な原理」の中に
再発見し
しかも
その
宗教に固有な原理を
経験的にも
実証してゆき
(つまり
 宗教が科学を排除せず
 科学もまた宗教を排除せず
 宗教に固有な原理
 したがって
 理性では到達し得ない原理と
 我々が
 単に宗教的に獲得するだけに留まらず
 理性的経験的にも獲得できるように
 実証を伴った宗教原理を
 解明してゆき)

そのことを通じて
我々が
「恐怖心」や
「世間的な成功」から
「自由」に成って
そういう
「暴力」や
「権力」に
暴力によって支配されたり
権力によって「洗脳」されてしまわない
判断を
持てるように
自分自身を
自己形成してゆく
「道(方法)」を

一人ひとりが
持てるように
そのような
「行・学・道」

確立されるので
なければならない。

そして
そのような
「中庸(或いは「大中観」)」の判断を形成し得る
家庭環境や社会環境
もしくは
教育環境を
我々は整えてゆく努力を
惜しむべきではない。

悟りが開けた人(覚者)

人間の「恐怖心」を前提とした「暴力」

人間の「世間的な出世願望」を前提とした「権力」
に対して
「自由」である。

また
啓示を受けた人(聖者)

「恐怖心」を前提とした「暴力」

「世間的な出世願望」を前提とした「権力」
から
「自由」に判断し行為し得る
はずである。

覚者や
聖者が
「中庸(大中観)の判断」を為し
「中庸(大中観)の判断」に基づいて行為する
人間であるということが
現実の社会の中で
経験的に実証されてゆけるのでなければ
仏教にもキリスト教にも
また
総じて宗教の
存在する意味(レーゾンデートル=存在意義)
がない。

宗教が単に
非社会的集団であるだけではなく
また
反社会的集団に成ってしまうのでもなく
超社会的実勢力として
しかも
歴史的にその勢力の判断と行為が
社会前進的判断であり
社会前進的行為であった
ということが
実証されるように

宗教は
宗教自身の固有の原理
しての
「悟り」と「啓示」のみならず
宗教とは異質の
理性の原理としての
「理論理性」と「実践理性」
によって
脱分化再構成(Morphallaxe, morphallaxis)されるので
なければならない。

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最終更新
平成27(2015)年11月19日 午前7時22分
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