言い伝えに黒豆を似るときに錆びた釘を入れるとつやの良い豆になるというのがある。なぜか分からなくても言い伝えを守る。ファリサイ人もその言い伝えを守らせるのに必死だった。エルサレムからガリラヤまで100kmあるがファリサイ人はその間を移動してイエス様の間違い(手を洗わなかった)を指摘しようとした。しかしユダヤ人が手を洗うのは異邦人と接触したかもしれないので洗うのであって洗うこと自体に意味はない。
クリスチャンになると仕方なく奉仕する人がいる。御言葉を守るために作ったルールを一生懸命守ろうとすると、肝心の御言葉が抜けてしまう。「自分の方がもっと奉仕している」(なので私の方が偉い)と誇ってしまう。我々が形式的なことをしていたら心は神さんから離れてしまう。
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