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2013年11月13日21:17

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なかなか完了しない・・・(笑)



さて朝方に日本から到着した相棒と合流、奴にとっては4年ぶり2度目のアルナーチャラである・・・前回もほぼ同じ時期でディーパム聖火も2回目ということになる(この時は私は日本で留守番してたざんす)。


・・・お湯の出る新しいゲストルームだろうと思っていたら、本体敷地内の古い女性用シングル(部屋内に湯沸かし用設備がない)に放り込まれたそうでご愁傷様ですなあ(笑・・もっとも屋上に「太陽熱温水」タンクがあって、昼以降晩方までなら「自分で汲み」に行けばお湯が使える)。



日本での「同居人」なのだから、私の方で部屋替えしてツインルームへ一緒に(ラマナアシュラムでは夫婦やカップルは同じ部屋になる)・・・ということになるかな?(ディーパム大祭で混んできているし)とも思ったが、結局バラバラのままである・・・しかしこの方がありがたくもあるのだ。


というのは奴は「夜は9時に寝て、朝は3時過ぎに起きる」超朝型人間であるのに対し、私の方は「夜は1時近くまで起きていて、朝は朝食ぎりぎりまで寝ている(アシュラムの朝食時間が決められているので「やむなく」起きるのである・・笑)」夜型人間なのである。


・・・・・これでは同じ部屋では生活できませんな(爆)



ここ数日の日本は「真冬並み」の寒さだそうだが、当地は常夏である・・・雨期のはずだがどうやら近年は季節自体がズレてきている傾向があるらしく、このところ晴天基調で日中は「暑い」といっても良いほど・・・就寝時も、「Tシャツ&パンツ1丁に薄い上掛け」で充分ざんすからね。


私の滞在も後1週間である・・・が帰国は12月に入ってからなので、日本に戻ってからの気温差を考えるとかなりつらいものがあるのだよなあ、本来ならばこちらもしくは東南アジアで冬を越してから帰国したいところだ(笑)



さて論考はそろそろ完了したい・・・けどまだしばらく続きそうだ(笑)



完結編 「私なるもの」は果たして放棄しうるのか? その1



完結編に「最も相応しい命題」が前回最後に登場した、すなわち・・・


「ラマナ・マハルシの教えに深く心酔し、彼のことをサットグルとして尊敬し、全てを明け渡しているバクタである」


・・・ということが「私なるもの」の中味の物語の最大のテーマであり、究極・絶対的なアイデンティティである・・のだとしたら、


これは果たして「適切な」状態と言えるのだろうか?


答えを先に提示しよう、

「これは大変不適切であり、断じてそうあるべきではない!!」



何故だろうか?・・・実際問題として現にシリウス・マハナンダ、本名鈴木尚志なる人物の定義?としては、この・・・


「ラマナ・マハルシの教えに深く心酔し、彼のことをサットグルとして尊敬し、全てを明け渡しているバクタである」

として機能している領域は、生活全体の中でかなりの領域を占めているではないか?


であればこそ、何らの報酬も無いのに(笑)「臨在」サイトを管理し、請われれば「ラマナ・ミーティング」を開いて、諸情報を直接お伝えするだけではなく、


毎年アシュラムに長期滞在し、要すれば「ご案内業務」を担当し、せっせとギリプラダクシナをやっている・・・のではないか?


・・・さよう、おそらくシリウス・マハナンダ(鈴木尚志)なる「身体的存在」は、現象世界の関係性の編み目の中でそのような機能を発揮している・・・ことそれ自体は否定し難い事実である。


しかしながらこの事実に敢えて「異議」を差し挟めば、

「であればこそ」という接続詞がかなりインチキ臭いではないか!(笑)


果たして、この2つの内容すなわち、

「ラマナ・マハルシの教えに深く心酔し、彼のことをサットグルとして尊敬し、全てを明け渡しているバクタである」

というテーゼが、

「臨在」サイトを管理し、請われれば「ラマナ・ミーティング」を開いて、諸情報を直接お伝えするだけではなく、毎年アシュラムに長期滞在し、要すれば「ご案内業務」を担当し、せっせとギリプラダクシナをやっている。

ということに、「であればこそ」で結びつけられて良いのか?


に対して大いに疑問を抱くべきなのである。


話がややこしいかな?・・・では表現を変えよう、


この私は毎日毎日、全く途切れもなく常時、

私は「ラマナ・マハルシの教えに深く心酔し、彼のことをサットグルとして尊敬し、全てを明け渡しているバクタである」と、定義し続けているのか?・・・あるいはそれが「理想的な状態」なのか?

そしてそれ故に、「であればこそ」という表現が出てくるのか?・・・



ここで「霊性の道」ということを改めて、その本質をできるだけ簡単に表現すれば、


「エゴを越えた」生き方・在り方に徹する・・・さもなくばそのようにあろうとする営為である。


ということだとしよう(これが「唯一絶対」に「正しい定義」ではないが・・)、そしてこれまでの論考で延々と述べてきたのは、


「私なるもの」の中味とは、蓄積された記憶から編集され構成された物語としてのリアルな虚構であり、「私なるもの」それ自体さえ実体は無い(のかもしれない)・・・ということなのだが、


つまりそのように機能しているのが「エゴ」なのである。


エゴが常に「物語の内容」を必要とし続け、それは「もっと!」を要求し続け、総体として怪物的に肥大増長していく・・・


そういう運動を「越えてしまう」生き方・在り方というのが、本来の「スピリチュアリティの神髄」なのだとしたら、


単に物語の内容としての、

「ラマナ・マハルシの教えに深く心酔し、彼のことをサットグルとして尊敬し、全てを明け渡しているバクタである」

ということが最大のテーマであり、究極・絶対的なアイデンティティである・・・という状態は、


結局実際には、「エゴの増長を強化するだけの熱心かつ偏執的なお題目」でしかない・・・のではないか?


少なくとも、そういう「懐疑を自らに突きつけ続ける」必要がある・・・のではないか?



次回に続く

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