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2013年11月07日20:33

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やり手のビジネスマン級?



さてさて昨夜のギリプラダクシナで19回目、通算312回・・・一応今回滞在での「最低ノルマ?」に到達。


いや別にノルマというのは大げさな表現なのだが、大概の場合私は「1回の滞在で12回歩く」のが基本なので、次回の滞在で108の3倍である324というのを狙っている・・・故に312が今回の「最低ノルマ」だった次第(笑)


一応予定としてはあと4回歩く・・・最後は18日であるが、これは前日の「ディーパム聖火」を受けて、聖火を仰ぎ見ながらの歩きざんす。


明日からいよいよその「ディーパム大祭」が開始となる(10日間・・最終日に聖火点火なのだ)、来週には同居している相棒がこちらに来て合流するので、それまでにあれこれ「懸案事項」を片づけておかねばなるまい。



因みに先日話題にした同居人の祖母は4日に逝去(享年96才)したとのこと・・いささか不謹慎な表現ではあるが「ようやく」ということのようで、親族一同はさぞかし「ほっとしている」ことであろう。


・・・もっとも我が相棒は、親族一同の中ではもっとも遠方に住んでいるので(実家は九州)、先週「婆さま危篤」の報を受け「今生の別れ」のために空路往復してきたが、今週は「葬儀」でまた空路往復。


しかも先々週は以前から予定されていた家族旅行の金沢観光のためやはり空路で出かけており、3週連続で羽田からのフライト(鴻巣〜羽田というのは案外面倒なのである・・往復所要時間もうっかりするとフライト片道分かかるからねえ・・笑)。


・・・で、来週は成田から南インドへのフライトざんすね。

本来は金沢旅行の後で2週間ある間にゆっくりインド行き準備のはずだった・・そういう意味では、8月の段階で私と一緒に早々とインドヴィザを取得しておいたのが思いもよらず功を奏した感じですな。


これらのフライトの合間にはもちろん仕事を挟んでいるわけで、まあご愁傷様としかいいようがないほど忙しいらしい(再来週には帰国フライト、つまり「5週連続で空の旅」って、やり手のビジネスマン級ですな・・笑)



そういえば昨年は私も母の入院で、2ヶ月弱というものは毎週浜松往復してたのだなあ・・退院してあれこれの後始末をつけて、やはり休む間もなくインドへ・・だった。


今にして思えば、これも昨年だったからどうにかなったのだな(演劇公演終了とインド行きの間の時期だったから)・・今年の同じ時期だったら演劇公演ともろに被ってもっと大変な状況だったことだろう。



というわけで、本編「虚構とリアル」その6 ざんす・・・これも奴が来るまでに何とか完成させる予定(笑)




本編 「虚構とリアル」その6


それなのに、どうして私はそれを一時的であれ「衝撃的」に「当惑」を感じたのであろうか?


・・・これは実は「エゴの本質」そして「崇拝する行為の本質」を顕著に示している例であるのだ。


さて、世の中には「似て非なるもの」というものが数多あるが、


「合一」と「同一化」というのもその1例である。


「合一」というのは、霊性の世界では例えば「神との合一」というのが典型的な使用例ですな、「ヨーガ」という言葉も「合一」という意味合いを持っているのは昨今結構知られるようになってきた。

要するに2つ(以上)のものが熔解して1つの存在になる・・・といったニュアンスで使われる。


一方で「同一化」というのは「心理学用語」としてよく使われている。


自分のアイデンティティがあまりに未熟で満足出来ない(特に「対人関係」において顕著だが・・)状況の時、何か非常に「優れたもの」・「力強いもの」に、自らを擬することで安心・安寧を得よう・・というある種の「防衛機制」である。


どちらも高揚感というか力強さ・美しさ・崇高さ、そして安心や平和、及び「それらの感覚」がもたらされる・・・という点では確かに似ているわけだが、ではどこが違うのか?


「合一」は2つのものが解け合う・・というよりむしろ、「エゴの働きが消えて」対象そのもの・対象それ自体がそのものとして「在る」・・・

前述の「力強さ・美しさ・崇高さ、そして安心や平和」そのものなのであって、それを「感じている」主体としてのエゴが「機能していない」・・のに対し、


「同一化」の方はどこまでも「エゴの意図的・積極的な働き」であり、エゴ自身がその感覚を感じている主体であるわけで、力強さ・美しさ・崇高さ、そして安心や平和は「対象としての内容」なのですな。


「虚構としてのリアルな機能」であるエゴは、常に自身の存在意義・存在証明(=アイデンティティ)を希求してやまない・・・それなしにはエゴは耐えられない、エゴは「内容が無い」ということに耐えられないのである。


そして「私なるもの」とは、「関係性・・・とりわけ対人関係」の中で機能するので、常に「他者との比較」というモードでヒエラルキー上の自分の配置を確認しようとする。(他者の存在がないとき「私なるもの」は機能する必要性が惹起されないのだ)


そして、「少しでも他者より優位にある」位置を狙いたいのですな・・その「優越感」が、力強さ・美しさ・崇高さ、そして安心や平和「という快適な感覚」をもたらすからである。


逆に「他者より下位である」位置というのは、大変不快なのだ・・他者の持っている「力強さ・美しさ・崇高さ、そして安心や平和」が「私のそれ」よりも素晴らしいからである・・・これが「劣等感」ざんすね。


面白いことに、この「優越感」と「劣等感」はどちらか片方だけがある・・・ということにはならないのですな、何故ならばどちらも「他者との比較」というモードで機能するから、

「優越感」に浸ることで「劣等感」を相殺しようとする・・・からである。


さてさて、どうしたらこの「優越感」なるものを入手できるのか?


そこで一番手っ取り早いのが、「力強さ・美しさ・崇高さ、そして安心や平和」をもたらすあれこれ・・・を、「同一化」を通して「私なるものの中味の物語を華麗に美化装飾」する・・・行為なのである。


そしてその物語りは固定したままでは困るのだ・・・というのはエゴは「時間の流れ」の中で生起しているから、「今・この瞬間」という位相には存在できない。


そしてぼんやりしていてはあっという間に他者に「追い越されてしまう」からである・・・常に他者よりも優位であろうとするならば、より「物語を華麗に美化装飾」するために、同じ場所に止まっていてはならないのだ


他者よりも、そしてこれまでよりも「もっと」力強い、「もっと」美しい、「もっと」崇高な、「もっと」安心な、「もっと」平和な・・・物語にしていかなくてはならないのだ。


私たちの日常生活の現場で生起しているのは、「合一」であることは滅多になく圧倒的に「同一化」なのである。


それは「私自身」が「力強さ・美しさ・崇高さ、そして安心や平和」と「合一」した・・のでは決して無く、それらを「所有」しよう・・という働きでもある。



こうして「同一化」の運動を通して、「私なるものの中味の物語」は所有物として果てしなく増殖肥大していく・・・そして本来「所有している対象」であるはずだった物語が、

いつのまにか「私自身を構成する一部」である・・かのように錯覚していくのである。



次回に続く


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