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2013年11月04日21:10

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炭の効用?彼自身が炎だから・・



私事で恐縮であるが、11月1日というのは私の「IT化記念日?」なのである・・ちょうど12年前のこの日に初めてEメールと携帯電話なるものを使い始めたのであった。


以来12年・・・・各SNSを通じて様々な方と知己となったし、管理している「臨在」サイト(こちらは来年1月に運用10周年を迎える)も、日本語でのラマナアシュラムの紹介という役割にまずまず貢献している・・と思われる。



過去を振り返ってみると自分が一番きつくしんどい「実存的苦悩」に懊悩していたのは21才の時だろう・・自衛隊を退隊して「自由の身」になったのは良いのだが、その後あれこれあって8ヶ月ばかりだったかな?・・・最低最悪の精神状況に陥ってしまった。


これを書き出すとまた別の「論考」になりかねないので止めておくが(笑)、何というか「世間から隔絶した」「どこにも所属していない」という不安と恐怖で、

アイデンティティの危機に晒されて「自己顕示欲」&「承認欲求」の充足を渇望して、結果的に「迷走したというか結果的に遁走」してしまった・・・苦々しい時期である。



それから31年も経過した現在から振り返ると、その時期というのは「あの時に別の決断をしていたら・・・」という典型的なよくある「もしも?」なのだが、


それと同時にその頃にネット環境が存在していたらこれまた随分違う様相を呈していたことだろうなあ・・・とも思うわけである。



そもそも現在でも、私の「自己顕示欲&承認欲求の少なからぬ部分」がこのネット世界でまあまあ充足されている・・・のだろうなあ、というのが否定しがたい実感である。

・・・だからこそ長広舌を飽きもせず延々と繰り広げる次第(笑)


もちろん大前提である「神様に愛されているのだ!」という究極の「承認欲求」が満たされているわけで、それなくしては私の人生の様相は、現在のようなお気楽脳天気ぶりを存分には発揮出来ないであろう・・・ことは言うまでもない。



さてさて、最近ふと生じた疑問・・・



インドでは「火葬」が一般的であるが、「生前解脱者」は火葬しない・・のはなぜだろうか?

すでに煩悩の炎だったかな?・・何か炎に例えられる試練?を通過したからだ・・・とかいうのがあった気がするが、


それとは別にたとえば、「彼自身が既に炎であるから」というのはどうだろうか?

・・・炎は炎自身を焼くことは出来ないのである。


アルナーチャラに遺体を埋葬できない理由も、アルナーチャラ自身が炎であるが故に「生前解脱者」を火葬するタブーに抵触するから?というのはどうだろう。



ところでラマナもそうなのだが、「生前解脱者」の遺体を焼かずに埋葬した上にサマディを建てるわけだが、なぜそれが聖廟として機能するのだろうか?・・・そこに埋まっているのは遺骸という名の死体でしかないはずなのに。


ラマナご自身ですら、それを「脱ぎ捨てた衣」と表されていたではないか?(もちろん揚げ足を取るのならば、「脱ぎ捨てた衣」であってもお乞食さんにとっては大いに役に立つわけで、全く「無用の長物」ではないですな・・笑)


まあそれは「墓」なるものに対する普遍的感情のせい(でも何故そのような普遍的感情が生起されるのかな?)だとして、前述の炎のアナロジーで考えると、


何らかの?炎に焼かれ、また彼自身が炎であったとするならば、炎が去った後そこに残されたのは「炭」である。


炭ならば「再燃」し、炎を放つ潜在的エネルギーを有するから・・というのはどうだろう?・・・他にも実際的な「炭の有用性」はあれこれあるわけだし(笑)。



では似たようなもので「灰」は?・・・これはもう燃えない。これが聖性を帯びる(聖灰・・ビプティ)のは何故だろうか?


でもそれだと「炭」の方のアナロジーとは整合しないか(笑)


ところでお釈迦様が火葬されたのは何故なのか?

お釈迦様の時代にはまだ「生前解脱者は火葬しない」というしきたりはなかったのだろうか?

・・・やはり「燃えつくした」というニルヴァーナを象徴するのがいかにも彼らしいからなのかな?


埋葬してサマディ作っちゃうと地理的にはそこに限定集約されちゃうからねえ・・・遺骨になるとあちこちに分散できるという「布教上の利点・効用?」があったのかも?


もっとも世界各地に伝わっている「仏舎利」を全部集めると象1頭分になる・・・らしいからねえ、お釈迦様ってさぞかし大魔神並の大男だったんだろう(爆)

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