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2013年10月31日20:13

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「あれ?・・・俺は誰だっけ?」



今日の朝食はずいぶん久し振りに「旧食堂」の方だけで供された。↓

http://www.geocities.jp/ramana_mahaananda/ramanasramam-holder/meals/diningholl02.htm


今回の滞在では初めてのケースであるのだが、要するに「旧食堂」で収まる人数しかいない・・・ということざんすね、おかげで各ホール始め大変
静かな状況で、このぐらいの人数が「定常」状態だったらありがたいのになあ・・・などと感じてしまう。


私が長期滞在を始めた頃は、こういう静かな状態の日がもっと多かったような印象があるのだが(当時は昼食も「旧食堂」だけで供されることもあった)、昨今ではなかなか珍しいことではないだろうか?

アシュラム近辺の各種店舗やゲストハウスなどの盛況ぶりをみると、いかに沢山の訪問客が来るか・・・というのが実感できるざんすね。


まあ、この静けさもあと1週間続くかどうか?ですな・・・というのは11月8日からいよいよ当地における最大のイベントである、「ディーパム大祭」が始まるのである。


嵐の前の静けさ・・・なのであろうここ数日の「静けさ」を堪能したいと思う次第。



というわけで、今日も続くぜ長広舌!!(笑)



本編 虚構とリアル その4

「アイデンティティ」に特化している物語の記憶の喪失である。

これは大変困る事態なのだが、しかし「私なるものの内容」としての物語が欠落すると、何故「困る」のであろうか?


さあ、何故「困る」のだろうか?

いや、それほど難しいことではない、要するにそのままでは「これまで営んでいた社会生活」に対応し難いから・・・である。

「これまで営んでいた社会生活」とは、その「私なるものの内容」が機能することで、その身体的存在を維持してきた「生成の現場」であるから、その物語が欠落してしまうと、

当人にとっては「何故私はこのような生成の現場であるところの社会生活を送るのか?」への納得できる根拠がないまま、それに直面しなくてはならない・・・ということになる。


では逆に、「私なるものの内容」としての物語が欠落しても「あんまり困らない」という事態はあり得るだろうか?


それがあるのですなあ・・・現に私はそれを体験したことがあるのだ(笑)


時々日記に登場してくる「キノコ・トリップ」の際にそれは起こったのだ。


それは私の「ファースト・キノコ・トリップ」の時のことであった・・・



バキバキに決まった「大ぶっ飛びのホーリートリップ」では、まあ筆舌に尽くし難い「あれやこれや」の現象が生起してくるのだが、それはこのキノコの毒というのは「神経毒」なので、あれこれの神経の働きを「逸脱」モードにしてしまうのですな、


各種感覚機能を司る神経や、身体各部の筋肉の動きを統御している運動神経も通常の活動の範囲内を逸脱して励起し、オーバーラン状態になっていくのだ・・・・


それで何というか全体的に「頭の中が遊園地状態?」みたいなおかしさになってしまうのである・・・いや「世界」を作り出し認知している機能がショートしてぶっ飛ぶのだ!!

むしろ「世界全体が巨大な遊園地状態」になってしまうのであるよ(笑)



・・・そしてそれは「思考能力」を司っているのであろう大脳中枢をも、ある種のカオス状態にしてしまうわけだが(・・と書くと「恐怖」を感じるかもしれないが、それを「面白い!」と感じられたら天国である・・「ホーリー」か「バッド」かの分かれ目はその1点にかかっている)、


その時私に起きたことの一つは、


その「世界という遊園地」の中でふと気がつくと、「あれ?・・俺は誰だっけ?」という疑問が浮かんできた・・・のだ(まあふつうの意識状態では浮かばない疑問である)。

それも別に「私とは誰なのか?」という哲学的命題ではなくて、単純に「自分がどういう来歴の人物なのか?」が思い出せなくなっていた・・のですな、


正しく「私なるものの内容」としての物語が欠落してしまった状態・・・に直面してしまったのである。


さあその時私は困っただろうか?・・・・


全く困らなかったのですな、

何故ならそこは「世界という遊園地」(という「その時点における」リアル)であって、社会生活を送るべき日常の現場(という「その時点における」虚構)ではなかったから・・である。


それに困惑するどころか、「自分が誰だか判らない」こと自体が可笑しくて可笑しくて仕方がないほど愉快なのだ!!


かくしてたどり着いた?結論は・・・

「そうか、今俺は気が狂ってるんだあああああ・・・・・わははははは!!!!!」


ということで、今度は気が狂っているのが可笑しいだけでなくて、こんなに痛快・愉快なことはない!!という歓喜の哄笑の大爆発・・・・


私は「ラフターヨガ」のリーダー資格を持っていて、実際に共同主宰している「三鷹台ラフタークラブ」でセッション指導もしているのだが、↓

http://ameblo.jp/mitakadai-laughter/


それでもこの「キノコ・トリップ」の時ほど凄絶に笑い続けた・・・ことはないだろうねえ。


ニーチェの文章の表現に「世界が哄笑する」という感じのものが数多出現するが、それが実感できたみたいな感覚だったねえ・・・案外最初からニーチェは狂っていたのかも?(笑)



我々は普段「もし気が狂ってしまったら大変だ」と思っているのだが、案外困るのは周囲の方であって、当人は楽しいというケースもあるのかもよ(笑・・これは「死んだら大変!」というのも然りざんす)



かくして実際には「私なるもの」の中身としての物語が欠落しても、困るのは「それがないと対応できない状況」に直面することなのであって、その現象そのものが困るわけではない・・・ということになる。


となるとそこから導きだされるのは、

「中身としての物語」というのは「私なるもの」の実体ではない・・・ということになるのではないだろうか?


因みに「本当の私」などという概念は、単に「まだ物語化出来ない、過去の投影としての未来における内容」でしかないし、それが「物語化」出来たところでやはり中身としての物語であって実体ではない。

また「あるがままの私」というのも、案外出来の悪い「中身としての物語」を悪びれずに肯定しているだけ・・・だったりもするのだが、まあそれで「安心」が得られるのならそれも便利な道具であろう(笑)


さらにはこんな風に考えることもできる・・・


「中身としての物語」(それ自体がこれまで述べてきたように「過去の記憶から構成されたリアルな虚構」である)が機能しているが故に、「私なるもの」に認識しうるフォーマットが与えられるのだろうか?


しかし「中身としての物語」がなくても、そこに「私なるもの」という感覚があるのならば、それは一体何なのか?


あるいは、「中身としての物語」は地球上の個人の数だけ存在するわけだが、それが欠落しても「私なるもの」という感覚があるのだとしたら、もしかしたら実際には「私なるもの」という感覚は、

「一つしかない共通のもの」

を、個人がバラバラに「中身としての物語」によって、身体的存在にとって固有のものと認識しているだけなのだ・・・とはいえないのだろうか?


しかもその感覚には実体としての対象はなく、そのようなリアリティだけがある・・・のかもしれないではないか。

「私なるもの」があたかも「実体があるかのような虚構の」リアリティとして機能している・・・・

のかもしれないではないか!!



次回に続く

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