一昨年なら、東日本において「水没祭」なる名称を使うことは不可能だった。
震災から3度目の夏を迎えてやっと僕らは「役者が本物の池にダッパンどっぽん飛び込めばそれだけでクソおもしれーwww」ということに素直に向き合えるところまで快復してきた(はずだ)。なによりこれが、水没祭決行に踏み切った動機だった。
90歳すぎまで立って原稿を書いていたゲーテが亡くなったとき無論ドイツ文壇は衝撃を受けたが、いち早く旧時代の終わりを引き受けてすぐ次に進んだ者もいた。21歳の医学生ゲオルク・ビューヒナーはゲーテの死後わずか2年あまりという短い執筆期間に後年のドイツリアリズムと観念文学の原石をごろりと投げ出して死んだ。彼の仕事がなければヘッセもブレヒトも生まれなかったしベルクとアルトーの仕事も成されなかった。
引き受けることは痛みと法悦のさなかに躊躇なく身をおくことだ。震災直後の数日に僕は「なんだか分からんがバッカバカしくてどでかいスケールの喜劇をやる!」と宣言した。快復のために芸人である自分らにできるのはそれだけだろうと思ったし、我知らず長年のうちに作り上げてきたかも知れないヌルイ現場をいったんチャラにしなければ、常識がチャラになった東日本で表現者として生きていくことはできない、とも思った。
芝居に出ませんか、という誘いには嫌とも応とも答えられる。だが「水没してみない?」という誘いには、理性より先に体が応と答える。引き受けるという痛みと法悦を体が求める。引き受ける、ということのしんどさと可能性を体が感じとる。たとえ出演に至らなくとも、たとえ誘われなかったとしても、そこにどれだけの可能性が広がっているかを、体は知っている。よね?
そういうことを企画したかった。ビューヒナーの成し遂げたことを、僕らが成し遂げる可能性だってあるじゃないか。可能性に向かうには、まず「引き受ける覚悟」に踏み込むことだ。生誕200年を記念する気もあやかる気もない。僕ら自身の快復がそのまま、チャラになった日本の常識の先を作り出していくための、その道筋としての水没祭だったのです。
25名の出演者はどうだったろう。
短距離男道ミサイル↓
蒼木瞳↓
松本萌↓
全員を紹介することはできないが、つらつら思うに、企画にあやかって参加した人がいなかったことは特筆に値する。もっと先に進むために自分にできることはなんなのか、を、自分のこれまでのテリトリーから踏み出すために渉る川がいかに狭く浅いものであったかを、皆が確認しようとしていた。
ざっと言えば僕らは、本質的には仲間ですらなかった。舞台どころか地面から作り出さねばならないことに戸惑いおびえ、かつ毛孔と瞳孔を開いて快感を吸い込んでいた。観客もともに。
これが芝居だ、と僕は思う。この先にあるのが芝居だ、とも。
この先に、いったい何があるのだろう。今はまだなにも見えないし来年の夏などまったくのノープランだ。ぜんぜん分からん。ぜんぜん分からんところまでたどり着けた。しあわせだ。
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