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2013年04月10日14:23

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総括2.演劇は存在しないのではないか(まとめなど)

3/29に分割ポストした「演劇は存在しないのではないか」にかんする所感をまとめました。舞台関係者、芸術表現関係者にはちょっと読んで欲しいかもなこと書きます。



(以下採録)

演劇は存在しないのではないか…?と思ったことのある演劇人と話してみたいんですがそういう人どっかにいます?

つまり「ゴドーの不在なのではない、これは演劇の不在なのだ」みたいな(ロジカルにならすぐ言える)ことを、現場で実践しようとしてる演劇人に会ったことがない。すごく不思議だ。「最後は言葉なんかじゃないよね」て言う人はいくらでもいるのに、演劇の存在ってそんなに信頼できるものなのかな…?ぶっちゃけ演劇は何かと何かの媒介物じゃん?媒介物は挟雑物の側面も持つわけだから、ない方がいい場合もある。演劇は存在する!てことに固執すると本来媒介すべきだった二者を損なうかも知れないよなあ、とか、僕は思うんだけど。少なくとも演劇を媒介物つまりコミュニケーションツールの側面からとらえる時には、よくいろんなカウンセラーがさらっと「カウンセリングなんてものは実は存在しないんですよ」と言ってのける程度の認識は持っていたいと思う。

もちろん共通認識(約束事)としての演劇はあって、作り手も観客もそれに沿って場を作りあげ共有する。しかし約束事が高次に実現した時、人は、ああこれが演劇だ、と思うだろうか。これは演劇をこえた何かだ、と思うのではないのか。これぞ音楽、これこそが詩、という言い方感じ方にはさほど違和感がないのだが、これこそが演劇だ、なんていう感じ方はいったい存在するのかな?あまり聞かないし何千の舞台を見ても自分ではそう感じたことはない。こりゃもう芝居じゃねえや、という賛嘆はたまに聞くし自分も感じるけど。

つまり演劇は例えば音楽や詩のもつ「本質」を備えていないのかも知れない、と僕は感じているわけですね。どこまで行っても手段であり約束事であり触媒であって、それ自体が目的になりうるほど本質的に「存在する」とは言えないのではないか。存在する気がしているだけなのではないのか。だとすれば音楽や詩が自己目的化してOKなのと同じ伝で演劇を自己目的化してもOKとは到底言えない、という気がする。

コミュニケーションツールには終わりがある。カウンセリングに終わりが、恋愛に終わりが、ナンパに終わりがあるように、演劇も一過性のツールだと捉えるのがもしや正しいのではないか?少々緻密ではあるが要するにたんなる約束事の集積である演劇の場は、その高次の成功により演劇本来の姿を現すかと思いきや、そこに顕れるのはすでに演劇をこえた何かである。そんなら演劇はどこにあるのか。演劇は存在するのか。これ認識論でもゲーム理論でもなくて、真面目な話、演劇は存在するなんて思ってて大丈夫なのか。

呉智英が漫画はコマと絵とネームであると整理したのに倣えば、演劇とは演者と観客と場である。しかしこれは演劇を成立させようとする約束事を簡略に述べただけで、コマと絵とネームがあれば漫画であるように演者と観客と場があれば演劇であるかというと、これまた違う。この点漫画の方がずっと爽やかに割り切っている。

2005年に着手して去年から本格的に取り組んできた、約束事の簡素化。来週の「虫たちの日」なんかほとんど演出をしていない。約束事を減らすことによって見えてくるものがきっとある。たぶんそれは演劇ではなく「演劇の向こう側」だろうと思う。たぶんまた、演劇のない演劇祭をやろうとしている。ちなみに約束事の3要素をさらに削っても演劇は一応成立する。観客を無くしたブレヒト教育劇、演者を無くした桜美林ゴドー、場を無くした寺山の書簡演劇等。だがむろんこれらは普遍性を求めぬカウンターなので例外。

約束事を減らしてもゼロにはならないし減らした結果が却って新しく約束事(スタイル)になって演劇を縛ることはたぶん起きてくるが別に構わない。福岡正信は約束事ゼロとしてバラマキ農法をやったわけではあるまい。約束事の簡素化と偏狭さの排斥を両立させるための専門への知悉があったはずだ。福岡正信の知悉は約束事への知悉ではなく約束事の向こうにある農、植物そのものに対する知悉であったはずだ。ここが大事。演技を学び演技に精通することでは演劇をこえることはできない。かりそめの演劇に囚われず、演劇の向こうにあるものを知悉するためこその、約束事の簡素化だと僕は考えている。

(採録ここまで)



20年くらい前に平田オリザは第一演劇論集を出版するにあたり演劇をどう行動するかの前に「演劇は可能か」を本来は論じなければならないはずなんだが大変すぎるからいっぺんに語るなと太田省吾にいさめられていったんスルーする、みたいなことを書いてた(「現代口語演劇のために」)。でも可能か可能でないか、必要か必要でないか、みたいなことはわりとどうでもいいのだと僕は思う。よりラディカルには「演劇は存在するのか」という問いがあるのであってそれ以外ではないと思う。

旬な話題なのでサッチャーのことを言うが、サッチャーの「社会などとというものは存在しない」という発言は当時の僕にとってはわりとショッキングだった。だってそれ言いつつフォークランド戦争やるわけですよ。社会が存在しないのに領土問題を力で決めつけようとする。どっちやねんつーか、つまりむちゃくちゃ抽象度高いこと言うオバサンだなあと思った。

個々人の哲学の問題が問われるサッチャー政権だったと思う。東アジアで元気よく行われてたレーガン中曾根全斗煥なんてのはあれに比べればじつに和気あいあいとしてたというかね。



強靱な抽象家が乏しくなってきた現代は短兵急な二項対立主義者が跋扈することを表層的には許してるけど、そんなもんで実際の世の中は動きません、よく言えば中道、悪く言えばUnKnown層でひとびとはできてるのよ。われ関せずの最大派がなに考えてるのかを読み取らずして過剰な主張なんか通りません。



演劇が存在するのか、という問いは、たとえば「占いは当たるのか」というのと同じことだと思う。そしてもし演劇が存在するのだと思う人がいるならば、その思考は「占いは当たる」と同じことを言ってるのだと自覚する必要があるのだと思うよ。これはキツイことだよね。僕もまだ理路を追っている段階。



演劇が誕生したのはいつか、というスパンを計る努力は定義上いちおう重要なのでやっておくと、「いつから人類か」的な大きなスパンで計ればだいたい120万年前くらいのたしかフランス??(失念)の地層から鳥の骨で作った笛が発掘されたのが現状最古の芸能っぽい証拠。

だが上記分割ポストで書いたような「演者/観客/場」の再結合としての演劇が日常化したのはおそらく日本では江戸中期までくだる。それ以前は辻説法的な浄瑠璃語り、特権層の謡曲観賞、そして神社中心の奇祭群(とそれに含まれる一連の神楽)があっただけで、それらはザッというともはや痕跡もみつけられない蝦夷毛人系の芸能のうえにかぶさった田楽・申楽の系譜と真言天台系の密教儀礼の系譜が元になっているのだと思う。

おそらく上方と江戸で起きてきた小屋掛けの人形浄瑠璃が、木戸銭払って観客の立場を買うという意味での最初の「観客」の登場だったと思うんだけど、そこで初めて発生した、ある雰囲気としての「演劇」が今に至るまで演劇だと思われている。そういうものがあることを否定はしないし僕自身もそういう芝居をしてしまうこともままあるけれども、それのみを演劇だと思ってしまうと縄文1万年のありとある芸能の試みを何も知らないまま、あーいい演劇を見たと思って死んでいくのかなあそれつまんねーなー、と思うことは確か。

だから演劇はないのだと言ってのけておく方がいいんじゃないかと思ってる。社会は存在しないと言ってのけてラディカルにロンドンの保守層を解体していこうとしたサッチャーの目論見はむしろ北アイルランドや労働層などの辺境文化を率先して解体し貧困化させたので、あの抽象度の高さは評価しつつも現実の政治家としてはやりすぎだったと思わざるをえないわけだけど、芸能者が「演劇は存在しない」とアジるのは結局、市民大学化する地歌舞伎とか神楽保存会みたいなものから見なおさねば、ていういちばん根柢の問い直しをただみずから行う契機になるわけだから社会的には無害で微々たる貢献のみが残る、という形になって、なかなかいいのじゃないかと思う。



日曜の平原演劇祭のまとめはまた別に書きますが、とりあえずまとまらないまま、公演前に考えていたことをぶちまけてみました。長文失礼。
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