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2012年11月28日00:27

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「神様から振られた役割」と「アイデンティティ」は全く別物である

さて本日は今年のアルナーチャラ・ディーパム大祭最終日、先ほどアルナーチャラ山頂に聖火が点火されたざんす!!


この聖火の意義というのは何度も紹介しているが、


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アルナーチャラは、「山の姿をとってこの現象世界に顕現しているシヴァそのものである」とされています、南インド神話上では、最初シヴァは、「天地を貫く目も眩む様な巨大なる光の円柱」として顕現されましたが、その熱と光でお姿を拝することが出来ないので、目に見えるお姿で・・!という神々その他の要望に応え、山の姿となった・・・とされています。

そしてラマナ・マハリシはその肉体を離れてからは、=アルナーチャラとして現在でも揺るぎなく「臨在」されております。


毎年のこの聖火点火は、「天地を貫く目も眩む様な巨大なる光の円柱」であるアルナーチャラの本性を象徴的に想起させる行為であり、信奉者にとっては最大の感激の瞬間です、オリンピックの聖火なんぞ比較にならない?圧倒的な祝福と寿ぎの波動に満たされる光景です。

もちろんラマナアシュラムでもこの日は特別であり、サマディホール入り口通路に信奉者達が集結して点火を待ちます。

ラマナが使われていた椅子を真ん中にセットしてお写真を安置します。点火と同時にアシュラムでも聖火を点します。ラマナのサマディも美しく荘厳されます。


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という次第。

昨今ではライヴカメラで定点観測されているので、その様子をリアルタイムで見ることが出来る↓

http://www.webworldcam.com/webcam-index.php?var=1692&site=http://www.arunachala-live.com


のだが、今回は肝心な時にフリーズしてしまったようで大失態ですな(笑)


もっともこの聖火は昼には消してしまうので、今日から約2週間は「毎日点火」する・・・ので、しばらくは上記サイトで聖火の様子を見ることが出来るはず。

またアシュラム公式サイトでもライヴ映像を流していた・・・こちらはいずれアーカイブとして閲覧できるようになるはずである↓


http://www.sriramanamaharshi.org/index.html



しかしながらこのアシュラムからのライヴ映像を眺めていたら、カメラを切り返して「サマディホール前にて聖火を奉祝する人々」の様子も放映され、当然ながら会長さん始め「見知った顔」がたくさん並んでいるのを観ると、


「ううむ・・・来年は久々に現地で聖火を拝みたいものだ!この映像の中に私も写っていたらさぞかし愉快だろう」


などと思ってしまうのざんすよん!!


さてさて、そして今日この大変おめでたい日に、現地在住の知人からメールが来た。


というのは来月に刊行されるラマナ関連書籍、「ラマナ・マハルシとの対話」の表紙の写真を送ってくれたのである・・・でまあ、出版関係者のOKも出ているので「臨在」サイトの方で紹介して下さいとのことで、早速掲載したざんす↓


http://www.geocities.jp/ramana_mahaananda/talksinfo.htm


まあ「アルナーチャラの宣伝屋」としては今日はなかなか忙しかったのだ。


それから崎山綾子氏とのコラボ企画である「真理のみ」の「臨在サイト」からの全文掲載についても、とりあえず序章については、崎山さんと「校訂稿」のやり取りを何度か繰り返し、近いうちにいよいよ掲載開始にもっていける段階まで来たかな?(以降の章については今後毎月1章づつ掲載していく方針)・・・という感じざんす。


当初は今日の聖火点火に間に合わせられたら良いな・・・と目論んでいたがあえなく挫折、ううむ・・・聖火が燃え続けている今後2週間以内に!が次の目標かな?(笑)



それにしても最近この日記記事を書くのがすっかりご無沙汰になってしまった。

書く時間がないわけでは決してない・・・・相変わらず無為徒食の遊び人という寄食生活続行中だからねえ。


だがもっぱら「プールで泳ぐ」他には、先月来「アイドル時代の浅田美代子」にすっかり魅せられてしまい、歌やドラマの動画を集めて毎日見入っている次第(笑・・・しかし今聴くと決して「とてつもない音痴」ではないぞよ!)、後はかってファンだった14歳の頃の伊藤つかさの映像とか。


それはさておき、要するに「表現意欲そのもの」が極めて低調なのだ・・・


ただそれはこれまでとちょっと違って、

「自己顕示欲」というのがどうやら落ち始めたらしい・・からなのである。


何というか、これまでの人生において、かなり屈折した自己顕示欲に翻弄されてきたのだが、それは同時に

「やりたい事をやる」ために「やりたくないこともやる」・・・と言うと聞こえは良いが、実際には「やりたくないことをやらざるを得ない為に」、それを「やりたいことの為に」とでっちあげていたのかな?・・とふと気づいたのである。


今たまたま一時的であるが「やりたくない事をやらなくてよい」状況下にあるのだが、案外そうなってみると、特にこれといって「やりたいこと」が希薄になってしまったのだ・・故に私の「やりたいこと」というの実際には「自己顕示欲に起因する虚構だったのかもなあ・・と感じる次第(笑)


「やりたくないけどやらざるを得ない」という(情けない)自分を認めたくない故に、「それはやりたいことをやるためなのだ」と言い換えて、「やりたいこと」をでっち上げて「アイデンティテファイ」していた・・といおうか?


もっとも「でってあげ」であろうとそれに31年もエネルギーを注ぎ込んでいれば、それなりのリアリティが生じてくる・・・と同時に「使いようによっては薬になったりもする」ので他人様に喜ばれるような働きをすることもある・・・というところかな?要するに私の個性&才能とはそういう類のものなのだな・・と達観したとでも言おうか(笑)



そして、その「リアリティ」ということそれ自体が、考えるとなんだか判然としないのだよなあ・・・「リアリティ」ってどういうことなのだろうか?・・・というある種「根本的な疑問」を最近抱くようになってきたのだ。

実は「意識」というのも然り・・・この「リアリティ」&「意識」とは何か?というのがどうやら私の今後の命題・公案だな・・・と感じるようになったざんす。


そこら辺をもっと書いてみたいのだが、自己顕示欲なる「表現意欲」が衰退しているわけで・・・(爆)

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