「最大級に変てこ?な演技(その2)
さて演出のモリムラさんから出された課題として私が作っていったモチーフというのは、それはそれなりにインパクトのあるシーンとなりえたはずだった(私としてもちょっと未練もあるので?いずれそれについても書くことにしよう・・笑)。
なぜそれが日の目を見なかったか?・・・・思うにこれが私以外のメンバーがやったら立派に表現として出来上がって行けたのではないか?と思うのざんすね。
事実、他のメンバーの作り出してきたモチーフそれ自体が、私の考えたそれと極端にレベルが異なるというわけではないように感じられるし、モリムラさんの演出で大なり小なりのアレンジが施されたにしろ今度の舞台で実際に展開される・・のである。
それに対し私は、自分の持ってきたモチーフとは「全然無関係の演技」を展開することになったのだ!!
ではどうして私の持ってきたモチーフは採用されなかったのか?(笑)・・・
まあ、もちろん表現力自体の力量というのもある・・・私とて決して素人ではないのだが、他のメンバーがほとんど日常的に「表現活動」に従事する人生を営んでいる中で培われてきた「表現力」の多彩さ・面白さにはやはり太刀打ちできない。
しかしそれよりも大きな問題点があったようだ・・・・。
それはそのモチーフを生きるパーソナリティーに、
「哀しみ」がリアルに立ち上って来ない・・・ということだった。
我々プルミエグループの演ずるシーンは「旅をしないひとたち」というテーマであり、その後でメインの3名による「旅をするひとたち」とのコントラストが作品の見所のひとつであるのだが、これは単純な善悪や是非という二元的対比・対立を意味するものではない。
「旅をしないひとたち」とは象徴的な表現であって、もっと広義の意味では、
「何らかの既成概念にがんじがらめにされて、新たなる世界への一歩に踏み出せない」
という状況をそれぞれに表現しているのだ。
大変アバンギャルドな演技&シーン構成だし、かなり笑いを取ったり、あるいは????のように見えるところも多分にあるのだが、演出はその「旅をしない人たち」を批判し見下して滑稽さを強調しようというのでは決してないのだ。
アヴァンギャルドで不条理な場面であるだけに、「そのように生きている人物の哀しさ」・・・がリアルに伝わってこないと、単なる「おかしな絵空事」の提示になってしまうわけで、それでは芸術としての創造表現にはならないのだ。
ここで私のユニークな個性というのが影響してくる・・・のだろう。
誤解を恐れずに言えば、シリウス・マハナンダには「哀しみ」というものが希薄だからなのだ!!
モリムラさんは、
「シリウスさんの作り出したパーソナリティって、『哀しみ』のポイントがなんか不鮮明なのね」
と大いに困惑されたらしい・・・で、我々の稽古終了後にメインの4人と私の場面についてあれこれミーティングがもたれたそうで、家に帰り着いていた私にモリムラさんからこんな内容のメールが来た・・・
「シリウスさんが実生活の上で『哀しみ』を感じるのはどういう時ですか?」
それで私はこんな風に返信したのざんす・・・
「私のエゴが『哀しみ』を感じるのは、『自分が無視された時』だと思います。ただし私はどのような状況下にあろうと『神様の下に生かされ在る』境地で生きているつもりですが・・・。」
さよう、これはバクティ・ヨーギとしてはあまりに当たり前の感覚なのだ・・・たとえ世界中のすべての人間に無視されて絶対的孤立の状況にあろうとも、神様は常に「今・ここに・共に」おわしまするのざんす。
私にとってそれは「ラマナ・マハリシ=アルナーチャラ」として顕現されている・・・彼の臨在と恩寵についての直覚的体験が私にもたらしたものは「揺ぎ無き確信」に裏打ちされた至福と安寧なのだ。
まあ、そういうわけなので私の存在感には「哀しみ」というのが大変希薄になっている次第なのざんすね・・・・
しかしこれでは、今回プルミエに求められている表現にはそぐわなくなってしまうわけで、さてさてこれは一体これからどうなっていくのかなあ?・・・・
と思いつつも、その次に稽古に行ったら、モリムラさんから「方針大転換?」を告げられ、
「シリウスさんには、他のメンバーとは違うポジションでシーンに参加してもらいます!!」
またまた次回に続く(笑)
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