mixiユーザー(id:1057202)

2010年02月10日15:59

9 view

草稿・・・又の名を能書きともいう(爆)

「どうしたら私たちは『お気楽脳天気な幸福の世界』に生きていけるのだろうか?」





「これがあるから幸せ、あれがないから不幸せ」・・・私たちは「幸せ」という感覚を、ついつい「あれやこれやの対象(物であれ事であれ想いであれ・・)を所有する」事で保持しようとします。


さて何ものかの対象を得て満足することが出来れば、確かに「幸せを感じる」ことになりますが、不思議なことに決してそれだけでもう十分・これ以上は何も要らない!・・・ということになりません、その対象に満足してしまった「私なるもの」は「次の何か」が欲しくなるのですね。


それに満足してもまた「その次の何か」を欲しくなります・・・・これは無限に続きますから、それを実現していくということが人間にとってある種の生きる原動力である・・・し、そういう欲望を原動力として「経済活動」は展開されるわけです。


でまあ、「欲しいものがいつも『必ず・絶対確実に』手に入る(願望が実現する)!」ということはまず滅多にありません(笑)、そうなるとその状態は大変「不満・面白くない」感覚を生じます・・・人間というのは「じっとそのままにしている」というのが大変不得意な生き物なので、どうにかしてそれを手に入れようとするか、何か別のもので代用しようとか、きっぱり諦めようとするか・・・


いずれにしても「どうにかしよう・・」という行為に、私たちは多大なエネルギーを費やして(その行為に支配されて)生きていることにもなるわけです。


満足してもやがて「次の何か」が欲しくなるし、不満足なら「どうにかしよう・・」と動き回る・・・・しかもどちらも「これでお終い」というものがありません。私たちの暮らしている生活様式とは、全てを「数値化可能な対象」として捉え、「あれが欲しい・これが必要だ」という欲望を大量生産・大量消費することで「豊かさ」を作り出すマジック・・・と言っても過言ではないわけですが、

「私なるもの」はそういう行為を「私の中身」として生きている・・・が故に私は「私として」存在するのでしょうか?


このマジックに惑わされている限り、いつまでたっても「お気楽脳天気に生きる」事は出来ないのではないでしょうか?



さてでは次のような問いかけをしてみよう・・・・。


もしあれこれの「私の中身」ではなくて、ただ「私なるもの」という事そのものが、「在る」という事自体としての「喜びそのもの」であったとしたら?・・・・


そして実は『在る』ということだけが在る」・・・という事が、イコール「至福そのもの」であり、そのような「至福そのものが私なるもの」ということ、実はこのこと自体が「神様とか宇宙意識なるものの体現」なのだとしたら・・・


これは大変素晴らしいことだとは思いませんか?

私もあなたも彼も彼女も、老若男女関係なく、どんな嫌な野郎であっても(笑)、わんこもにゃんこも、生物も無生物も、この地球上にあるもの全て、いや全宇宙に存在するもの一切合財が「神様とか宇宙意識なるものの体現」なのかもしれない・・・としたら、

私たちは「肉体的」なレベルとしては各自ばらばらに相違があるけれど、実は「存在の大本・根源」のレベルにあっては一切合財は「全く一つなるもの」ただそれだけ・・・かもしれないじゃないか?


そのことをリアルに実感できたら・・・・確かに一人の人間として生きていく上で「あれが欲しい、これは要らない」から完全に離脱することは不可能であるにしても、相当なところ「お気楽脳天気!」に生きていけるのではないでしょうか?



では能書きはさておき、どういう風にしたらそんな様に生きていけるのか知らん?


さあ、それをどうにかしてみようじゃないか!!・・・というのが、私が「お気楽脳天気ヨーガ・ワークショップ」を試行錯誤している最大の命題なのざんすよん。

0 7

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する