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2007年02月21日02:11

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TAICHI−KIKAKUの公演

19日の夜に新宿タイニィ・アリスという小劇場に演劇を見に出かけた。

何度か書いているが、昨年来「身体詩ワークショップ」でお世話になっている、TAICHI−KIKAKUというパフォーマンスグループの公演である。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~TAICHI-K/homepage.htm



このグループの公演を見るのは実はこれが初めてなのであったが、そもそも演劇を生で見るのも思い返せば結構久しぶりのことである。


さて会場に着いて座席に座った時、妙な違和感が感じられた・・というのはこういう小劇場にありがちな?アングラ的なむんむんした熱気とか、何かおどろおどろした情念的ものとは正反対の、極めて清明な、ふわりとして優しく暖かい、それでいて頭の中が冴えてくる・・・という不思議な感覚。


先日書いたような「自主トレがうまくいった時の清明な感覚」というのに非常に近いものだったので、もしかしたらこれはこの集団の作り出す「気」が、開演前から満ち溢れている・・ということか・・。


そして公演はちょっと言語として表現しがたい感銘を受けるものであった。

登場人物はわずか3人・・というかそもそもこのグループはその3人の俳優と映像作家の4人で構成され、驚くべきことに20年以上そのメンバーで創作し続けているのである。

映像作家の方は舞台には登場しないが、彼の撮った映像は不可欠なものだ・・・生身の俳優たちは凄まじい技術的錬度で、生々しい肉体(流れ落ちる汗が凄い)を駆使しているのだが、それが全く昇華され(よくありがちな肉体だけが暴走する「嫌らしさ」がない!)、映像と見事にシンクロしている。

作り出される世界は詩情漂う、静謐なそれでいて豊饒なファンタジーであるが、逆に映像の中には「リアルな素の彼らたち」が動いている・・というなにか「クラインの壷」のような構成。ファンタジーとリアルが重層的に交錯した劇的空間だ。


そして殆ど意味のある言葉は使われないのに(普通の意味での台詞はない・・が豊かな声はある)、喜怒哀楽の感情はじっくりと描き出される・・場面として内容が理解できないものもあるけれど、それをいちいち理解しよう・・というのは言語脳の無謀な試みだ。


それは人間である限り世界のどこであっても共通するコミュニケーションの本質そのものがストレートにそこに開示されている・・・(このグループは20年間でアフリカや東欧20カ国以上で公演している・・ゆえに「旅芸人」的な風情も漂うわけで)。

ある種の夢(誰が見ている夢なのか?)でもあって、そこに記号化された「意味」をつないで行く必要はない。一言も言葉を用いていないのに、こちらの情感に作用する「気の交流」が確かにそこに在る・・自然と目頭が熱くなった、直接には「何も物語っていない」のに・・。


俳優の3人と映像作家の20年の歳月によって熟成された濃密な絆によるこの創造行為は、極上の弦楽四重奏曲を聴くような体験であった。


しかし何だって私はこの集団に惹かれているのか?・・その辺は後日また書くとしよう。


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