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2018年08月16日03:45

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『河神の娘の物語』第2話

『河神の娘の物語』第2話

 アルクマイオンはいつもの悪夢に襲われていた。
 蛇の髪の毛をうねらせ、人を石に変える怪物ゴルゴンのように恐ろしい顔をした復讐の三女神たちが彼を襲う。
『呪われろ!』
『呪われろ!』
『呪われろ!』
 黒いコウモリの翼を広げた三人の女神が松明を手にアルクマイオンを追う。彼は必死に女神たちから逃げた。
「やめろ!来るな!私は…悪くない!悪くないんだ!」
 走って逃げるアルクマイオンの足先が水音を立てた。真っ赤な血色の泉が彼の前に広がった。その中央から、血まみれの母親がぬっと現れる。
「…母上…!」
 怯えて足を止めたアルクマイオンを、母親が血で汚れた指を付きつけて罵った。
『この親不孝者!』
『母殺しめ!』
『さあ、もう一度、剣で刺すがいい!お前を産み出したこの腹を!』
 母親の血塗られた指が己の子宮を指し示す。
 足を止めた若者に復讐の女神たちが追いついた。
『大罪人よ!』
『お前に安息の地などない!』
『誰からも忌み嫌われ、孤独の果てに死ぬがいい!』
 アルクマイオンが耳を塞いでも、女神たちと母親の罵りの声は頭の中に響いてきた。
「違う…!違う、私は…!」
 彼が叫ぶと同時に、悪夢は終わった。
 はっとして目を開くと、粗末な板葺きの屋根が目に入った。ところどころ穴が開き、外の光が差し込んでいる。壁際には漁網や魚を捕るための銛、釣り竿が無造作に積み重ねられていた。板の壁には鍋や小刀などの日用道具が吊り下げられて、床には壺が転がっている。
「ここは…」
 記憶にない場所にアルクマイオンは戸惑った。彼自身は藁を積んで毛布をかけた物の上に寝かせられ、体の上にも毛布が掛けてある。
「ああ、良かった。目が覚めたのね」
 ひやりとした布の感触が顔をぬぐった。横を見ると、一人の若い女性が座っていて、彼の顔を濡れた布で拭いていた。濃い茶褐色の巻き毛を粗いひもで結い上げ、着ているものも質素な生成りの亜麻の上衣とスカートだ。だが瑠璃色の瞳が輝く顔立ちは可憐で愛らしく、一国の王女にもひけをとらない美しい顔立ちをしていた。
「ずっとうなされていたのよ。気分はどう?」
 女性がアルクマイオンの額に浮かんだ寝汗を拭いて尋ねる。
「あなたは…」
「私はカリロエ。近くに住む漁師の娘です」
「『美しい流れ(カリロエ)』…?」
 名を反復し、アルクマイオンが問う。
「あなたが…私を助けてくれたのですか?」
「ええ。河畔で倒れていたのを見つけたから、この漁師小屋に運んだの」
「それは…ありがとうございました。ご迷惑をかけて…」
「いいのよ。気にしないで」
 カリロエは小屋の中央に火鉢を置いていた。火鉢にかけていた鍋の中身を彼女は大さじでかき回した。
「麦の粥を作ってあるわ。食べます?」
「ええ…」
 アルクマイオンが体を起こすと、カリロエは陶器の碗に麦粥を移した。
「はい。ゆっくり、少しずつ食べてね。急に食べたら胃に悪いわ」
「どうも…」
 カリロエに言われたとおり、アルクマイオンは碗の中の麦粥を少しずつ指ですくって口にした。
「おお、気がつかれたか」
 小屋の扉が開き、一人の老いた男が入って来た。灰白色のほつれた髪の毛に、あまり手入れされてない顎ひげ、日によく焼けた肌に深い皺の刻まれた顔。まぶたは垂れ、その下から小さな目をしょぼしょぼとのぞかせている。背筋は曲がり、着ているものは粗末な羊毛のチュニックで、手には魚を二匹、ぶら下げていた。
「父です」
 カリロエが紹介する。老人は火鉢の傍に座り、アルクマイオンに会釈した。
「わしはこの近くに住む漁師でクレオンと言う」
 漁師は青銅の小刀で魚の鱗を落とし、腹を開いて内臓を取り、木の枝で魚を口から尻尾まで串刺しにすると、塩を振って火鉢であぶり始めた。
「お若いの。おたくは何と言うお名前かな?どこから来られた?」
「私は…アルクマイオンと言います。父の名はアムピアラオス。アルゴスの生まれです」
「ほう、アルゴス…。それはまた遠くから…」
 クレオンが呟いた。アルゴスから今いるアイトリア地方に来るには、ペロポネソス半島を縦断して海を渡るか、コリントス地峡をぐるっと回らなければならない。
「ずいぶんと衰弱しておられたが、盗賊にでも襲われましたか?」
「いえ…」
「では道に迷われたか?この地に何か御用がおありかな?商売かな?」
「そういうわけでも…」
「では訪ねる人でもおられるか。どこに行かれる予定かな?」
「……」
 重なる問いかけに、アルクマイオンは黙りこんだ。
「…まあ、何ぞ事情がおありのようだが…」
 クレオンはひげの生えた顎を撫でた。
「まずは体を治すことですな。ここでゆっくり養生されるといい。何かあったら娘に言いなさい」
「ありがとうございます」
 クレオンは立ち上がり、小屋から出て行った。
 火鉢の火で焼き上がった魚をカリロエが手にしてアルクマイオンに差し出した。
「はい、どうぞ」
「……」
 魚に刺された枝を握ったアルクマイオンは、しばらく焼き魚を凝視していた。
「あら?魚はお嫌い?」
「いえ…その、食べたことがないので…」
 アルクマイオンは内陸部の育ちだったし、それでなくとも彼の属する階級では食事の中心は家畜の肉で、よほど困窮した時でもないと魚は食べる習慣がなかった。
「大丈夫よ。そんなに悪い味ではないわ。慣れたら、食べられます」
「……」 
 焼けた魚の目はアルクマイオンをにらんでいる様で気持ちが悪かった。アルクマイオンは目をつぶり、勇気を振り絞って魚にかじりついてみた。
「……」
 アルクマイオンの口の中に、ほのかな塩味と淡白なうまみが広がった。
「ね、どう?」
 心配そうにカリロエが彼の様子をうかがう。
「…うまい…」
 そう呟くと、とたんに彼の目から涙がこぼれてきた。
「ど、どうしたの?熱かった?」
 慌てるカリロエに、アルクマイオンは泣き笑いの表情を見せた。
「いや…私は生きているんだな、と…」
 アルクマイオンは涙をぬぐった。空腹の身には、素朴な焼き魚は神食(アンブロシア)にもまごう美味に感じられた。
 アルクマイオンは夢中になって焼き魚と麦粥を食べ、咀嚼し、飲み込み、生きるための営みを続けた。
「…あなた方にはお世話になりました。何のお礼もできませんが…」
「気にしなくていいのよ、そんなこと」
 申し訳なさそうに言ったアルクマイオンに、カリロエが笑う。
「いえ。動けるようになったら、すぐに出ていきますから…」
「だめよ!」
 カリロエは声を少し大きくしてアルクマイオンを叱った。
「ちゃんと体を治してからでないと。またすぐ倒れてしまうわよ」
「でも…」
 アルクマイオンは言い淀み、それから改めて口を開いた。
「いつまでもここにいるとあなた方にご迷惑がかかるのです。私は…呪われた身なので…」
「……」
「すみません。本当に…すぐに出ていきますから…」
 アルクマイオンは悲しそうにそう繰り返したのだった。

「お父様…」
 河畔に立つアケローオス河神にカリロエが声を掛けた。「漁師のクレオン」に変化していた河神は、いつもの紺青の髪と青緑色の瞳を持つ美しい青年の姿に戻り、衣装も粗末なチュニックから美々しいものに変わっていた。一方、カリロエのほうは暗緑色の髪を茶褐色に変化させて、人間の娘として違和感のない姿をとったままだ。
「あの方…何かわけがありそう…」
「そうだな」
 アケローオス河神の答えはそっけなかった。
 アルクマイオンと名乗った男には、育ちの良さを感じられる気品があった。言葉遣いも丁寧で、漁師とその娘に対しても礼儀正しい。ずっと洗っていないだろう黒髪は汚れていたが、彫りの深い顔立ちは端正で、身なりを整えれば見事な貴公子になるだろうと思われた。鍛えた筋肉がバランスよくついた体つきはひとかどの武人のもので、農民や商人のものではない。そんな男がなぜ行く当てもなさそうな流浪の旅をして、行き倒れていたのか。カリロエは不思議だった。
「あの方…、元気になったらどうされるのかしら?行くところがあるのかしら?」
 心配そうにアルクマイオンの行く末を案じるカリロエに、河神は苦笑した。
「まあ、今はそこまで気を回しても仕方あるまい。とにかく、元気になるまで世話をしてやれ。必要なものがあったらおれの館に取りに来い」
「はい」
 そうしてアケローオス河神は河畔から姿を消し、河の底にある己の館に戻って行った。

 アルクマイオンは三日ほどで歩けるようになった。すると、彼はすぐさま自分の外套に身を包み、漁師小屋を後にして旅立とうとした。
「だめよ!」
 カリロエが外套をつかんで引き止める。アルクマイオンが倒れていた時に着ていた外套だ。カリロエが洗ったが、汚れはたやすく落ちず、羊毛の布地はくたびれたままだった。
「まだ足がふらついているのに…、出かけるなんて無理よ!」
「カリロエ殿、お世話になりました。私は行かなくては」
 アルクマイオンは彼女に謝意を示しながらも、旅立つ決意は固かった。
「どこか行く当てがあるの?」
「……」
 カリロエの問いに、アルクマイオンは行き先を告げることが出来なかった。
「ほら!急ぐ旅ではないのでしょう?もっと体をきちんと治してからでないと、だめよ」
 二人が漁師小屋の扉の前で言い争っていると、クレオンが姿を見せた。
「お父様!お父様も止めて!この人ったら、旅に出るというのよ。まだ無理よ。こんなに弱ってるのに」
 カリロエが父に頼む。アルクマイオンはクレオンに軽く会釈した。
「お二人にはお世話になりました。ですが…私は呪われた身で、ここに長居すると、あなたたちも私の呪いに巻きこんでしまう。恩人をそんな目に合わせるわけにはいきません。私はもう行きます」
「私は災厄なんて気にしません!とにかく、もうしばらく静養してください」
 クレオンはしばらく二人の様子を見ていたが、やがてアルクマイオンに視線を向けた。
「アルクマイオン殿、あなたには何かご事情がおありのようだが…。よければ、我々にその事情を話していただけませんかな」
「それは…」
「そうでなければ、娘も納得しませんて。あなたにどういう呪いがかかっているか知らんが…事情を話す間くらいは、呪いも待ってくれるでしょう」
「……」
「どうですかな?」
 しばらく目を伏せていたアルクマイオンは、やがて決心とともに顔を上げた。
「分かりました。お話しましょう。事の起こりは、テーバイで起きた王位継承の争いでした…」
 そうしてアルクマイオンは彼の持つ事情を説明し始めた。

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