mixiユーザー(id:4632969)

2016年10月23日02:06

529 view

『海神の子』第3話

『海神の子』第3話

 カノンの腹の中の双子の胎児は順調に生育した。腹部は大きくなり、胎動も感じられるようになった。レウコテアは、カノンが人前に出なくても適度な運動ができるようにと、温水プールやウォーキングの施設を元首公邸に増設させた。さらに熟練の産婆や乳母の手配をし、二人分の産着やおむつ、ベビー服やベビーベッドを用意し、子供部屋を整えさせた。出産のことなど考えたくもないという風情のカノンに代わって、「母親」がすべき準備を全てレウコテアが行った。
 だが胎児が成長するとともに、カノンの精神状態はますます不安定になっていった。腹の中の子を恐れ、化け物と呼び、何度も殺そうと試みた。政務については冷静な判断をして滞らせることはなかったのだが、プライベートで一人にしておくと何をするか分からなかった。
 食器のナイフやフォークを腹に突き刺そうとしたこともあった。このため食事はあらかじめ切り分けた形で供されるようになり、先の尖った食器類はカノンの前には出されないようにした。執務中にペン先を腹に突きたてようとしたこともあったため、常に誰かが側に付き添ってカノンの動きに目を配るようになった。入浴時に冷水に長時間漬かって堕胎を図ったこともあったため、これにも付き添いが必要となった。発作的に飛び降りるのを防ぐため、居室の窓には格子がはめられた。
 サガはアテナの許しを得て長期休暇を取り、カノンの傍らにつききりになって看護に当たった。「妹」の膨らんだ腹に顔を寄せ、胎児が動いたと言って喜ぶサガは、まるでカノンの「夫」になったかのようだった。
 そして出産予定日が近づいたその日も、サガはカノンの側にいた。
「…サガ、このハーブティー…ぬるくなったから入れ替えてきてくれないか」
 カノンにそう言われ、サガはティーセットを持って厨房に向かった。部屋に戻ってくると、彼の代わりにカノンに付き添っていたニンフがカノンの部屋から出てきた。
「どうした?」
「シードラゴン様が水を持ってきてほしいと…」
 その時、室内から大きな音がした。
「いけない!カノンを一人にしたら…!」
 慌ててサガとニンフがカノンの居室に駆け込んだ。室内では、磁器のティーソーサーを床に投げつけて割ったカノンが、その尖った破片の先を腹に押し当てていた。
「やめろ、カノン!」
 サガが飛びつき、カノンの手から破片を落とす。
「邪魔するな、サガ!」
「だめだ、やめろ!」
「こいつらを殺させてくれ…!いやだ、産みたくないんだ!」
「落ち着け、カノン!」
 他のニンフたちも駆け付け、数人がかりでカノンの暴れる体を抑え込んだ。
「気鎮めの薬湯を!」
 ニンフたちの女官長が指示を出す。やがて疲れて椅子に座りこんだカノンは、持ってこられた鎮静薬を飲むことを手を振って拒否した。
「…いらん」
「でも、シードラゴン様…」
「もういい。大丈夫だ…」
 ぐったりとカノンは椅子に座りこんだ。
「カノン、大丈夫か?」
 サガの声かけに、カノンは顔をしかめた。
「腹が痛い…」
「え?」
「昨日の夜から…時々腹が痛くて…」
 まさか胎児に異常が…と危惧したサガだが、ニンフたちが声を上げた。
「陣痛が来たのですわ!」
「大変、シードラゴン様がご出産なさいます!」
「お医者様と産婆をお呼びして!」
「シードラゴン様を産屋にお移ししましょう」
 公邸内が出産の準備に向けて慌ただしく動きだした。サガは入浴して清潔な衣服に着替え、ニンフたちと共に産屋に入ってカノンに付き添った。
「カノン、気を楽にもって」
「くそ…、さっさと産まれてくれ…」
「初産で、双子だからな。半日くらいはかかるかもしれん」
「ははは…嫌な事実だな」
 古代ギリシャ・ローマからの伝統で海界では座位分娩が一般的なため、分娩椅子に座ったカノンは陣痛で顔を歪めながら兄に笑ってみせた。
 カノンが産気づいたという知らせが伝わると、人々が元首公邸前の広場に集まってきた。この世界の女性にとって出産は常に命がけだ。集まった市民たちは安産と母子の無事を神々に祈った。元老院は安産を司る女神であるヘラ神殿とアルテミス神殿に使者を出してカノンの安産祈願を行わせた。レウコテアも元首公邸を訪れ、子の誕生を待機する態勢に入った。
 夕刻になり、カノンの陣通は規則的なものとなった。
「いやだ…」
 痛みで苦悶しながら、カノンがうめいた。
「カノン、しっかり」
「いやだ…産みたくない…!」
「お生まれになります…!」
「いやだぁ!産みたくない!アテナ、お許しを…!お助けください…!」
 悲痛な叫びとともに、カノンは第一子を産み落とした。
「お生まれです!」
「シードラゴン様の第一子です!」
「男の御子様です!」
 赤子の誕生にニンフたちの歓喜の声が響いた。はあはあと大きく息をつきながら、大仕事を一つやったカノンは疲労感とともに赤子の産声とニンフたちの喜びの声を聞いた。
 へその緒が切られ、赤子が産湯で洗われる。産まれた赤子は、金褐色の髪をしていた。
「綺麗な御子様ですこと」
「金色の髪ね。お父上に似たのね」
 この場合の「父上」とは、赤子の遺伝子上の父親であるジュリアン・ソロのことだった。
 サガは産着に包まれた赤子を抱き締めてカノンに見せた。
「ごらん、カノン。元気な男の子だ」
 赤子を抱く兄を見て、カノンはまだ続いている痛みで顔を歪めながら微かに笑った。
「はは…そうしていると、お前が父親みたいだな」
「私もそんな気分がしてきた」
「…いっそお前が本当に父親だったらな…。そのほうがまし…」
 再びカノンが大きく顔をしかめた。第二子の出産が始まったのだ。
「第二子、お生まれになります!」
 間もなく、カノンは第二子も生み落とした。第二子は、紺黒の髪をした男児だった。赤子の容姿にニンフたちが戸惑った。
「不思議な髪色…。お父上にもお母上にも似てないわ」
「誰に似たのかしら」
「ポセイドン様の本来の御姿を受け継がれたのね、きっと」
 ニンフたちが生まれた赤子の世話をして、産着で包む。
 やがて後産も無事に娩出し、カノンは初めての出産を安産で終えた。

次へhttp://mixi.jp/view_diary.pl?id=1956331223&owner_id=4632969
前へhttp://mixi.jp/view_diary.pl?id=1956284698&owner_id=4632969
目次http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1956265572&owner_id=4632969

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する