先日はTAICHI-KIKAKUの12月に行われる身体詩劇作品公演での、我々プルミエ・グループのミーティング初召集に参加してきた。
プルミエ・グループが身体詩劇公演に参加するのはこれが3回目であるが、回数を重ねるに従い我々の登場シーンの重要度&密度が深く高まってきているようだ。
今回は過去2回とは異なる状況が2点ある。
一つには、グループ全体の演技だけでなく、メンバー一人一人が「完全な一人芝居」を展開する構成になっているという点、
そしてもう一つは稽古の進め方としても、今回はメイン・パフォーマーのオーハシさん達同様のレヴェル・・は無理にしても、それに準じた「創造のプロセス」に則って展開していくという点ざんす。
というわけで「完全な一人芝居」というのも、既に完成している脚本に書かれているキャラクターの演技を再現する・・・わけではない。
ただし作品全体のテーマやプロット、そしてプルミエ全体としての表現するモチーフは決まっている・・・それをメンバー一人一人がいわば自分の存在の深層領域から「創造的表現」として練り上げていく・・・というプロセスなのざんすね。
さてさて、その「プルミエ全体としての表現するモチーフ」であるが、
「旅をしない人」
・・・・なのである。
TAICHI-KIKAKUというパフォーマンスグループ自体が、結成以来20数年間で世界21カ国50都市で公演を展開してきたわけで、様々な意味で「旅なるものの本質」をアイデンティティの極めて重大な構成要素として血肉化しているだけに、
作品の中でも常に「旅の本質」がその時々のテーマの基底に流れる「通奏低音」として、あるいは主題として彩り豊かに創造的な「魂の表現として顕現されている」ように感じられるざんす。↓
http://www2u.biglobe.ne.jp/~TAICHI-K/homepage.htm
・・・・もちろんこれは「象徴」としての旅であるわけで、「観光旅行・紀行」そしてまちがっても「物見遊山」ではない(笑)
では、アンチテーゼである「旅をしない人」とはどんな状況にあることなのか?
まあそれを我々が一人一人の個性と感性と表現力で創り出していく・・・のが今回のプルミエのミッション?なのざんすね。
そこらへんについてのあれこれ・・をミーティングの場でディスカッションしてきたのであった↓
http://blog.livedoor.jp/taichi_kikaku/archives/51078728.html#comments
私の中にあるイメージとしては、
「自国から持参した日用生活用品を巨大なリュックにごっそり詰め込んでその重さに呻きながら、見知らぬ外国のバザール(市場・・そこではいくらでも日用生活用品が入手出来る!)を徘徊するバックパッカー」
とか、
「窓のない薄暗い図書室で万巻の書籍に囲まれながら、『太陽』について理解しようと苦闘する学者(一歩外に出ればそこには「本物の太陽」がある!)」
とか、
「自分の身体に取り付けられた爆弾に怯え、その解除を『他者にやってもらおう』と恐怖で狂乱する男(実は解除方法はその爆弾自体に隠されていて「自分で解除する」のが唯一の方法)」
とか・・・・・ざんすね。
因みにこの『爆弾』とはもしかしたら「死」そのものであるとしたら・・・「死」とは何か?を見切ることだけが「恐怖」から解放される唯一の手段である。
いずれにしても、現在の私自身とっても「旅しない人」というのは大変切実なテーマであるだけに、今回の公演参加というのはそれ自体が「自己探求」の営為である、といって過言ではない・・・・・
さあさあ、いかなる展開が開けていくのだろうか?
今年の年末には私はどういう風に生きているのだろうか?(笑)
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