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日本全国歴史的人物の墓を巡る旅コミュの奈良県にある歴史的人物の墓所・菩提寺等

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奈良県にある歴史的人物の墓所・菩提寺等を訪ねたよ!

って人!報告待ってます!

fromしゃけ
「ホームページアドレス」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/



※ちなみに私が訪問したことがあるところは以下の通り…

光雲寺(越智氏菩提寺)、後醍醐天皇陵、世泰親王の墓、村上義光の墓、
村上義隆の墓、吉水院宗信法印の墓、北畠親房の墓、小倉宮廟所、
南帝王の森、北山宮の墓、尊秀王の墓、自天王の墓、橘将監の墓、
戸野兵衛の墓、竹原八郎の墓、南帝陵、楠木正勝の墓、
佐久間信盛の墓、平維盛の墓、神武天皇陵、文武天皇陵、
高松塚古墳、箸墓古墳、蘇我入鹿の墓、石舞台古墳、筒井順慶の墓、
豊臣秀長の墓(大納言塚)

コメント(82)

 明日香村の中尾山古墳〔史跡〕です。真の文武天皇陵だとの説が有力です。
唐招提寺にある鑑真和上の御廟です。
本日行ってきました。
既出ですが、唐招提寺にある鑑真和上御廟です。
左・中;人皇第11代垂仁天皇 菅原伏見東陵
右;田道間守命(タヂマモリノミコト)墓
高市郡高取町にあるお墓です。

左・中;天台宗真各山宗泉寺 高取藩主植村家廟所
右;信楽(シンギョウ)寺 『壺坂霊験記』のお里・沢市墓
3月に旅行で奈良・大和郡山市へ行ったときに撮影した「大納言塚(大和大納言豊臣秀長の墓)」です☆
豊臣秀長(1540〜1591)は豊臣秀吉の異父弟で、1585年に大和郡山に入り、郡山城下の整備を行いましたダッシュ(走り出す様)
左・中;人皇第16代仁徳天皇皇后磐之媛命(イワノヒメノミコト)平城坂上陵(ナラノサカノウエノミササギ)
右;応神天皇皇子大山守命(オオヤマモリノミコト)那羅山(ナラヤマ)墓
 天理市にある人皇第10代崇神天皇[位;97B.C.〜29B.C.]の山邊道勾岡上陵(ヤマベノミチノマガリノオカエノミササギ)です。文部科学省が行燈山古墳と命名する全長242mの前方後円墳です。
・豊臣秀長の墓(大納言塚)

・所在→奈良県大和郡山市箕山町14


〜コメント〜

豊臣(羽柴)秀長の墓。秀長は豊臣秀吉の異父弟で、秀吉に従い各地で

戦功をあげ、秀吉の天下取りに多大なる貢献をした。四国平定では秀吉の

代理をつとめ、その功によって大和郡山城主となった。九州攻め後には

従二位・権大納言に叙任され、大和大納言と称された。豊臣政権の中枢に

あって秀吉の補佐役として手腕を発揮したが、兄・秀吉に先立ち天正19

(1591)年に病没した。
 12日に大和高田市内の史跡巡りをして来ました。

左;浄土宗金谷山常光寺 高田城主高田(當麻)為長墓
中;磯野北町 静御前塚跡 静御前の墓と伝えられていましたが、破壊されてしまいました。
右;同上
26日に明日香村に行って来ました。

左;石舞台古墳〔特別史跡〕大臣蘇我馬子(551〜626)の墓と推定されています。
中;同上
右;岡寺を創建した義淵僧正(643〜728)墓 岡寺にあります。
左;人皇第5代孝昭天皇掖上博多山上陵(ワキガミノハカタノヤマノエノミササギ)です。
右;人皇第6代孝安天皇玉手丘上陵(タマデノオカノエノミササギ)

いずれも御所市にあります。
奈良市にある人皇第20代安康天皇菅原伏見西陵(スガハラノフシミノニシノミササギ)です。

 江戸時代の興福寺一乗院歴代門跡墓所です。一乗院末寺の清涼山喜光寺境内にありましたが、皇族墓なので明治以後宮内庁の管轄になりました。
 神武天皇に撃滅されたという土蜘蛛(ツチグモ)の塚です。葛城一言主(カツラギヒトコトヌシ)神社境内にあります。土蜘蛛とは大和朝廷に敵対した者の総称ですが、この大和の土蜘蛛は「光りて尾あり」とされる有尾人だったとされ、神武天皇は彼等の怨念が復活しないように頭・胴・足を別々に埋めたとされています。
 11世紀には源頼光に祟りをなして成敗されたとされます。
・楠木正勝の墓

・所在→奈良県十津川村武蔵


〜コメント〜

楠木正勝の墓。正勝は楠木正儀の長男とされるが、その行動については

異説や弟の正秀の事績と混同して伝えられている場合が多く、不明な点が

多い。「南狩遺文」の元中7=明徳元(1390)年4月4日付伊予守某奉書に

「楠木右馬頭」の名が見え、「応永記」には応永6(1399)年11月、応永の

乱に際し、大内義弘を助けて和泉国堺で戦った者に「楠某」が見え、これらを

正勝にあてる説がある。その後、金剛山千早城の落城後に弟の正元と

十津川に潜伏して再起をはかったが、病にかかり応永11年1月15日に

亡くなったと伝えられている。また一説に曹洞宗の禅僧、傑堂能勝を正勝の

後身とする説もある。
高市郡明日香村にある天皇陵・皇族墓です。

左;人皇第29代欽明天皇〔位;539〜571〕檜隈坂合陵(ヒノクマノサカアイノミササギ)〔梅山古墳〕
中;皇極・孝徳両帝生母吉備姫王(キビヒメノミコ;?〜643)檜隈(ヒノクマ)墓
右;人皇第40代天武天皇〔位;673〜686〕・人皇第41代持統天皇〔位;690〜697〕檜隈大内陵(ヒノクマノオオウチノミササギ)〔野口王墓古墳〕
 奈良市にある人皇第9代開化天皇春日率川坂上陵(カスガノイザカワノサカノエノミササギ)です。全長約100mの前方後円墳で、文部科学省は念仏寺山古墳と名付けています。
 橿原市の菖蒲(ショウブ)池古墳です。7世紀中頃の方墳で、右大臣蘇我倉山田石川麻呂(?〜649)との説があります。
 五條市にある藤原武智麻呂(680〜737)墓〔史跡〕です。右大臣藤原不比等の長男で、藤原氏南家の祖となった人物です。母は右大臣蘇我連子(ソガノムラジコ)の娘娼子(マサコ)です。養老5(721)年に中納言となり、左大臣長屋王を失脚させた後、神亀6(729)年に大納言、天平6(734)年に右大臣へ昇進、参議となった弟の房前(フササキ)・宇合(ウマカイ)・麻呂と共に権勢を振るいました。天平9(737)年7月、大流行していた天然痘に倒れ、臨終の床にて正一位左大臣を授けられた後、天平宝字4(760)年に太政大臣を追贈されています。
・北畠親房の墓

・所在→奈良県五條市西吉野町賀名生


〜コメント〜

北畠親房の墓。親房は鎌倉後期から南北朝時代の公卿で万里小路宣房、吉田定房とともに

「後三房」と称された。建武政権が樹立すると後醍醐天皇の皇子・義良親王(のちの後村上天皇)を

奉じて、陸奥守に任じられた長男・顕家とともに奥州に下向、多賀城を国府として東国経営に努めた。

建武2(1335)年に足利尊氏が鎌倉で建武政権に反旗を翻すと直ちに上京し、顕家が尊氏を

追撃して九州へと敗走させたのちも親房は京に残った。しかしながら、九州に逃れた尊氏が

反転攻勢して東上し、これを迎え討った楠木正成を自害させ(湊川の戦い)、光厳上皇を奉じて

京を奪うと、次男・顕信とともに伊勢へ下って抵抗の拠点づくりに着手するも戦局は安定せず、

逆に長男・顕家、新田義貞らの戦死によって南朝の軍事的劣勢が明らかになった。親房は

起死回生を賭して東国における南朝の軍事力を再建するために義良親王・宗良親王を奉じて

顕信・結城宗広らとともに50余隻の船団を率いて伊勢を出帆したが、暴風にあって船団は

四散し、親房だけが目的の常陸に上陸することができた。常陸の霞ヶ浦に漂着した親房は

神宮寺城、次いで小田治久の小田城に入り、東国経営の拠点とした。神皇正統記はこの小田城

で執筆したという。親房が最も頼りにしていたのは結城宗広の嫡子である結城親朝で、親房から

親朝あての書簡は著名な「関城書」を含めて70通近くが現存しているが、親朝は言を左右に

して一向に動かなかった。親房の書状によると、「武士はあくまでも公家に奉仕すべき存在で

あり、高位高官に就くべきものではない。古来風儀を墨守して高望みせず、重代弓箭之家として

名誉を重んじ、恥知らずなことをしないで公家に召し使われるべきだ」と説いている。こうした

現実的な対応を怠り、観念的な世界を強要する親房の時代錯誤な要望に東国武士が応じる

わけがなく、親房は次第に孤立していった。これに対し北朝方では高師冬を派遣し、攻勢を

強めた。興国2(1341)年にはついに小田治久も北朝方に通じたので、親房は小田城を去り、

関宗祐の関城に逃れた。そしてこの城を拠点として、下妻政泰が拠る大宝城と連携して、さらに

2年間抗戦をしたが、興国4(1343)年6月には結城親朝も北朝方に降ってしまい、11月に

なると関城、大宝城ともに相次いで落城し、親房の東国経営は完全に失敗して吉野への帰路に

ついた。吉野に帰還後はすでに死去していた後醍醐天皇に代わり、まだ若い後村上天皇を補佐

して南朝の中心人物となったが、武士を公家の道具としてしかみない観念性は相変わらずで、

正平3(1348)の四條畷の合戦では南朝股肱の臣である楠木正行を勝ち目のない死地へと

出陣させた。楠木正行を自害させた北朝方の高師直は勝ちに乗じて吉野に攻め込み、吉野の

朝廷は火を放たれて灰燼に帰し、後村上天皇以下、南朝の首脳はさらに奥地の賀名生に逃れ

ざるを得ない結果となった。もはや再起は不可能であると思われる壊滅的な被害を受けた

南朝方であったが、北朝方の足利尊氏、足利直義兄弟の激しい確執から観応の擾乱と呼ばれる

幕府を二分する大規模な内紛が発生し、尊氏、直義がともに相手を倒す手段として相前後して

南朝方に降伏するという事態が発生した。このため幕府が支えていた北朝方は南朝により接収

されることになり、親房は京都に入り、後醍醐天皇時代の「元弘一統の初め」に回帰する政策を

次々と実施した。正平6(1351)11月7日には北朝の崇光天皇および皇太子・直仁が廃され、

観応という北朝年号が停められ、南朝年号たる正平に統一された。また、北朝が行った叙位・

任官はすべて否認され、両朝分裂当時に戻された。これを正平の一統といい、幕府の内部分裂に

乗じて南朝の一統および京都回復作戦など一連の工作を主導した功により親房は准三宮と

なった。しかしながら、尊氏が直義を殺害して所期の目的を達成すると、必然的に双方の和睦は

破綻し、親房は後村上天皇とともに賀名生に帰ることになったが、この際に親房は北朝方の三種の

神器に加えて光厳、光明、崇光の三上皇ならびに直仁親王を連れ去り、北朝方の 天皇空位という

状況と皇位継承に関わる有資格者不在という北朝および北朝に征夷大将軍に任命される幕府の

正統性を著しく弱める手を打っている。尚、賀名生に帰ったのちの親房の動静を記す史料は

なく、これより2年後の正平9(1354)年に没したとされている。
・北畠親房の墓

・所在→奈良県室生村室生(室生寺)


〜コメント〜

北畠親房の墓。親房は鎌倉後期から南北朝時代の公卿で万里小路宣房、吉田定房とともに

「後三房」と称された。建武政権が樹立すると後醍醐天皇の皇子・義良親王(のちの後村上天皇)を

奉じて、陸奥守に任じられた長男・顕家とともに奥州に下向、多賀城を国府として東国経営に努めた。

建武2(1335)年に足利尊氏が鎌倉で建武政権に反旗を翻すと直ちに上京し、顕家が尊氏を

追撃して九州へと敗走させたのちも親房は京に残った。しかしながら、九州に逃れた尊氏が

反転攻勢して東上し、これを迎え討った楠木正成を自害させ(湊川の戦い)、光厳上皇を奉じて

京を奪うと、次男・顕信とともに伊勢へ下って抵抗の拠点づくりに着手するも戦局は安定せず、

逆に長男・顕家、新田義貞らの戦死によって南朝の軍事的劣勢が明らかになった。親房は

起死回生を賭して東国における南朝の軍事力を再建するために義良親王・宗良親王を奉じて

顕信・結城宗広らとともに50余隻の船団を率いて伊勢を出帆したが、暴風にあって船団は

四散し、親房だけが目的の常陸に上陸することができた。常陸の霞ヶ浦に漂着した親房は

神宮寺城、次いで小田治久の小田城に入り、東国経営の拠点とした。神皇正統記はこの小田城

で執筆したという。親房が最も頼りにしていたのは結城宗広の嫡子である結城親朝で、親房から

親朝あての書簡は著名な「関城書」を含めて70通近くが現存しているが、親朝は言を左右に

して一向に動かなかった。親房の書状によると、「武士はあくまでも公家に奉仕すべき存在で

あり、高位高官に就くべきものではない。古来風儀を墨守して高望みせず、重代弓箭之家として

名誉を重んじ、恥知らずなことをしないで公家に召し使われるべきだ」と説いている。こうした

現実的な対応を怠り、観念的な世界を強要する親房の時代錯誤な要望に東国武士が応じる

わけがなく、親房は次第に孤立していった。これに対し北朝方では高師冬を派遣し、攻勢を

強めた。興国2(1341)年にはついに小田治久も北朝方に通じたので、親房は小田城を去り、

関宗祐の関城に逃れた。そしてこの城を拠点として、下妻政泰が拠る大宝城と連携して、さらに

2年間抗戦をしたが、興国4(1343)年6月には結城親朝も北朝方に降ってしまい、11月に

なると関城、大宝城ともに相次いで落城し、親房の東国経営は完全に失敗して吉野への帰路に

ついた。吉野に帰還後はすでに死去していた後醍醐天皇に代わり、まだ若い後村上天皇を補佐

して南朝の中心人物となったが、武士を公家の道具としてしかみない観念性は相変わらずで、

正平3(1348)の四條畷の合戦では南朝股肱の臣である楠木正行を勝ち目のない死地へと

出陣させた。楠木正行を自害させた北朝方の高師直は勝ちに乗じて吉野に攻め込み、吉野の

朝廷は火を放たれて灰燼に帰し、後村上天皇以下、南朝の首脳はさらに奥地の賀名生に逃れ

ざるを得ない結果となった。もはや再起は不可能であると思われる壊滅的な被害を受けた

南朝方であったが、北朝方の足利尊氏、足利直義兄弟の激しい確執から観応の擾乱と呼ばれる

幕府を二分する大規模な内紛が発生し、尊氏、直義がともに相手を倒す手段として相前後して

南朝方に降伏するという事態が発生した。このため幕府が支えていた北朝方は南朝により接収

されることになり、親房は京都に入り、後醍醐天皇時代の「元弘一統の初め」に回帰する政策を

次々と実施した。正平6(1351)11月7日には北朝の崇光天皇および皇太子・直仁が廃され、

観応という北朝年号が停められ、南朝年号たる正平に統一された。また、北朝が行った叙位・

任官はすべて否認され、両朝分裂当時に戻された。これを正平の一統といい、幕府の内部分裂に

乗じて南朝の一統および京都回復作戦など一連の工作を主導した功により親房は准三宮と

なった。しかしながら、尊氏が直義を殺害して所期の目的を達成すると、必然的に双方の和睦は

破綻し、親房は後村上天皇とともに賀名生に帰ることになったが、この際に親房は北朝方の三種の

神器に加えて光厳、光明、崇光の三上皇ならびに直仁親王を連れ去り、北朝方の 天皇空位という

状況と皇位継承に関わる有資格者不在という北朝および北朝に征夷大将軍に任命される幕府の

正統性を著しく弱める手を打っている。尚、賀名生に帰ったのちの親房の動静を記す史料は

なく、これより2年後の正平9(1354)年に没したとされている。

・長慶天皇陵(南帝陵・御首塚)

・所在→奈良県十津川村上野地(国王神社)


〜コメント〜

長慶天皇陵。長慶天皇は後村上天皇の第一皇子で南朝の第三代天皇だが、長らくその即位が

疑問視されてきた幻の天皇であった。長慶天皇研究の最大の障害は関連資料の乏しさに

あったが、大正時代に八代国治・武田祐吉による実証学的研究が決定的な在位説として

評価され、長慶天皇の即位は動かない事実とされるようになり、大正15年10月21日に

詔書によって長慶天皇は第九十八代天皇として正式に皇統に加えられた。長慶天皇は父で

ある後村上天皇の没後に即位したと考えられているが、後村上天皇の代では北朝との和議が

何度も持ち上がったのに対し、長慶天皇の代では一度もその形跡がないことから、長慶

天皇は徹底抗戦派だったのではないかと考えられている。後村上天皇の代に北朝との和睦

交渉に尽力した楠木正儀が正平24(1369)年1月に北朝方に投降したのは、徹底抗戦派

だった長慶天皇との意見の相違が原因ではないかと思われる。残存する長慶天皇の綸旨は

文中元(1372)年以降に激減するが、この年は先代以来九州を席捲していた九州南朝軍の

拠点である大宰府が、九州探題・今川了俊の軍略により陥落した年であり、征西将軍宮・

懐良親王が率いる征西府が長慶天皇の南朝の屋台骨をいかに強力に支えていたかを伺う

ことができる。弘和2(1382)年には楠木正儀が再び南朝方に帰順し、翌弘和3(1383)年

の末に長慶天皇は弟である後亀山天皇に譲位したとされる。この長慶天皇の退位、後亀山

天皇の即位という一連の流れには南朝内部で徹底抗戦派と和平派の間での対立があり、

最終的には和平派が勝利を収めたとみることができる。ただし、退位後の元中元(1384)年

〜元中3(1386)年の時期の長慶上皇の院宣が二通残存しており、退位して上皇となった

あとも南朝内部に一定の勢力を維持し、院政を開いていたことをうかがわせる。また、高野山

丹生社に奉納された現存する唯一の長慶上皇自筆の文書といわれている元中2(1385)年

9月10日付の長慶上皇願文の中に見える「今度の雌雄」という言葉は後亀山天皇との

対決をさすとか、北朝=室町幕府との決戦をさすともいわれているが定かではない。長慶

上皇は、元中3(1386)年4月5日に大和の二見越後守あてに院宣を出してのち、史料の

上から姿を消す。元中8年頃には後征西将軍宮・良成親王でさえ、上皇の所在がわから

なかった(五条家文書)という。翌元中9(1392)年の南北朝合一の際にも長慶上皇が後亀山

天皇に同行して京都に入った形跡はない。このことから長慶天皇が譲位後、さらには南北朝

合一後も北朝打倒のために全国を行脚したという伝説・伝承が各地に残されており、一説には

長慶天皇の陵墓とされるものは全国に100ヶ所以上あると言われている。ここ国王神社の

境内にある長慶天皇は、文中2(1373)年8月に皇位を弟の御亀山天皇に譲位し、同年10月

まで紀伊国玉川宮に住んでいたが、賊徒の襲来を受け大和の天川村、五色谷行在所へ移り

住んだ。ところが、ここでも送徒に襲われたので、もはや運命もこれまでと同所の「廻り岩」で

自害したという。この時近侍のものが、遺体を水葬に付したところ、数日を経て御首が、下流の

十津川村上野地字河津の渕へ流れ着き、毎夜水底より、不思議な一条の光を発した。これを

見付けた村人が丁重にこのところへ葬り、玉石を安置してお首塚と呼んだ。以上が南帝陵の

十津川村における伝説の概略である。しかし、歴史上、天皇は弘和3(1383)年まで在位

していたことになっており、大和誌によると神社が長慶天皇の勅願宮となっていることなど

から日時が神社創建の時と混同されて伝えられたと思われている。いずれにしろ村民が

600年来、長慶帝の在位を確信し、これを奉祀してきたことに、十津川村の特殊性が

あるといえる。
・長屋王の墓

・所在→奈良県平群町梨本字前758


〜コメント〜

長屋王の墓。長屋王は壬申の乱の際に全軍を統帥した活躍した高市皇子の

長子で、夫人の吉備内親王と共に天武天皇の皇孫である。元明天皇の信頼が

あつく、藤原不比等の死後は政権の中核となり、右大臣ついで左大臣に

任じられ、三世一身法の制定などの諸政策を実施した。しかし、聖武天皇の

即位後は藤原武智麻呂や宇合ら不比等四子の勢力が強まり、神亀6(729)年

2月10日、皇位継承にからみ、謀反の疑いで館を囲まれ、夫人と四人の

皇子と共に自害に追い込まれ、(長屋王の変)その半年後に従来は皇族に

限られていた皇后に藤原不比等の娘である光明子が立てられた。
 奈良時代に架橋・治水などの社会事業に奔走し、東大寺大仏の造立にも尽力、朝廷から菩薩号を賜った高僧行基(668〜749)の墓〔史跡〕です。生駒市の律宗生馬(イコマ)山竹林寺にあります。
 竹林寺には戒律の復興と社会事業に尽力した事で知られる忍性(ニンショウ;1217〜1303)の墓もあります。忍性の遺骨は、遺言により、鎌倉の極楽寺・現大和郡山市の額安寺・竹林寺の三箇所に分骨されました。忍性は尊崇する行基菩薩の墓が荒廃していたため、寺院を竹林寺として再興しました。
 大和高田市の狐井塚(キツイヅカ)古墳です。人皇第25代武烈天皇陵の可能性があるとして、陵西(オカニシ)陵墓参考地の名で宮内庁管理となっています。
 大和高田市にある築山(ツキヤマ)古墳です。人皇第23代顕宗天皇陵の可能性があるとして磐園(イワゾノ)陵墓参考地とされています。
 高市郡明日香村にある蘇我入鹿首塚です。
 人皇第35代皇極天皇4(645)年6月12日の乙巳(イッシ)の変のクーデタで殺害された蘇我入鹿の首がここまで飛んできて、力尽きて堕ちた場所だとされています。その首を埋めた塚らしい物が以前はあったようですが、今は整地されて平らになっています。
 ただ、塚の位置を示すように丸い石が置かれ、その手前に鎌倉時代に建てられたとされる五輪塔が一基置かれていいます。
 長髄彦(ナガスネヒコ)に擁立されていましたが、神武天皇に降伏、物部連(モノノベノムラジ)の祖となったとされる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の墓だとの伝承がある桜井茶臼山古墳〔史跡〕です。
>>[76]  
こんにちは。
全国の大名墓や武将の墓所をあちこち巡っておりますが、近畿、特に奈良、京都辺りの皇族関係や藤原氏等の墓所に関しては中々訪れる機会もなく機会を作ってじっくりと廻ってみたいと思ってます。
そう思いながら大審問官さんの投稿をいつも拝見させてもらってますわーい(嬉しい顔)
>>[77]
 関東にお住まいだと、近畿地方を訪れる機会が少ないのは止むを得ないですよね。特に奈良県には古代の重要人物の墓や伝承地が多数ありますから、折を見て巡って下さいませ。
 香芝市にある人皇第23代顕宗天皇〔位;485〜487〕の傍丘磐坏丘南陵(カタオカノイワツキノミナミノミササギ)です。
 香芝市にある人皇第25代武烈天皇〔位;499〜506〕の傍丘磐坏丘北陵(カタオカノイワツキノオカノキタノミササギ)です。
 香芝市の平野塚穴山古墳〔史跡〕です。人皇第30代敏達天皇の孫で、斉明天皇・孝徳天皇の父である茅渟王(チヌノミコ)の片岡葦田墓(カタオカノアシタノハカ)である可能性が高いとされています。
 香芝市にある大の松為次郎(1859〜1921)の墓です。
 本名吉田栄蔵で、当地出身の大阪相撲力士ですが、番付は幕下止まりでした。大の松は大正4(1915)年6月に穴虫の大坂山口神社で引退興行を行いましたが、その際に逆修墓(ギャクシュボ)、即ち生前墓として建てられた物です。
 穴虫の大坂山口神社では江戸時代から「馬場(東穴虫)のお宮さんの相撲」と呼ばれる奉納宮相撲が盛んで、拝殿には文久2(1862)年と明治38(1905)年の板番付が残され、「馬場組」と称する力士組織がありました。引退後の大の松は地元で大の松部屋を興して幕内力士の初嵐(ハツアラシ)等を育てる一方、この馬場組の総元締となり、當麻寺(タイマデラ)等での勧進相撲(カンジンズモウ)開催に尽力しました。大正14(1925)年11月6日に63歳で亡くなりましたが、その葬儀には高田川部屋に移籍していた初嵐が来て棺を担いだそうです。

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