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数学コミュの連続体は神である

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連続体仮説は証明も反証もできない命題、これこそ、神の姿にふさわしい。

連続体は神である。

連続体は、cardΩ だが、新約聖書の「ヨハネの黙示録」(verses 1:8, 21:6, and 22:13) に、主の言葉「私はアルファであり、オメガである」とある。だから、少なくともキリスト教的には、連続体は神であると言っても問題ないわけだ。
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連続体仮説、Continuum Hypothesis, CH とは、可算濃度と連続体濃度の間には他の濃度が存在しないとする仮説。

19世紀にゲオルク・カントールによって提唱された。現在の数学で用いられる標準的な枠組みのもとでは「連続体仮説は証明も反証もできない命題である」ということが明確に証明されている。

自然数の全体を N と書き、そこにふくまれる自然数の個数(濃度)を可算濃度 ℵ0(アレフ・ヌル)と呼ぶ(「可算」とは「数えられる」の意。可付番濃度とも言う)。

また、実数の全体を R と書き、そこに含まれる実数の個数を連続体濃度 ℵ と書く。さらに集合 M の濃度を card M で表すことにすれば、連続体仮説は

ℵ0 < cardΩ < ℵ

なる集合 Ω が存在しないという主張であると言い表される。
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コメント(114)

デデキント切断は面白いですね。図のように表せば、0.9999・・・=1を表せますね。
1=0.999・・・だからといって、図のように表すのは間違いなんでしょうね。
では、左側の切断面が、1の場合、右側の切断面にどんな数字を入れれば良いのか?

図で良いのではないか?と言う事ですよね。
右側の切断面が、0.999・・・だった場合、図で良いのかな?
>>[79]
> 全てを足し合わせた物は1未満の最大値であり、値を持ちません。


そうなんですか。その辺が、数学を直感的に理解するのが難しい点なんですよね。
>>[83]

そうですか、とりあえず、図のように考えても問題ないと言う事ですね。
>>[86]

> 実数の切断に於いて、どちらか片方の切断面のみに実数が存在し、もう片方には存在しません。

> 0.999…は1なので、右の切断面に該当します。


なるほど、さすが数学ですね。実に合理的な考えです。

図の切断面表記が適切ですね。
ℵ0 < cardΩ < ℵ

の証明ですが、

ℵ0 < cardΩ

は自明として、

cardΩ < ℵ

をどうやって証明するか?

植木算ではダメでしょうか?図で、木の数を実数、木と木の間の数をオメガとすれば、明らかにオメガの数の方が小さい。従って、 cardΩ < ℵ
以下に書いてある事は全然理解できませんが、私がオメガと呼んでいるものとは違うようです。
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http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0606/omega.html

日経サイエンス  2006年6月号

ゲーデルを超えて オメガ数が示す数学の限界
G. チャイティン(IBMワトソン研究所)

 数学の論理構造は完璧──というのは実は幻想にすぎない。かつてゲーデルの「不完全性定理」がこの事実を示したが,いま注目されるのは「オメガ」という数だ。完全に定義でき,確定値を持つのに,決して計算しきれない数とは?

 ゲーデルは,数学が不完全であり,きちんと証明できないにもかかわらず正しい記述を含んでいることを示した。ところが「オメガ」という特別な数は,数学にさらに大きな不完全性が存在することを明らかにした。有限個の公理をいかに組み合わせても証明できない定理が,無数にあるのだ。したがって数学の「万物理論」はありえない。
 
 オメガは,あるコンピューターに関して考えうるすべてのプログラムの集合から1つのプログラムをランダムに選んだ時,そのプログラムがいずれ停止するものである確率だ。完全にきちんと定義され,決まった値を持つ。しかし,どんな有限プログラムを使っても,オメガのすべての桁の値を計算し尽くすことは不可能。言い換えると,証明不能な数学的事実が無数に湧き出る泉のようなものだ。
 
 この特性は,数学者が新しい公理をもっと仮定してよいことを示している。物理学者が実験結果をもとに論理的証明のできない基本法則を導くのと同様だ。
 
 これら一連の結果は「アルゴリズム的情報理論」に基づいている。ライプニッツは300年以上も前にアルゴリズム的情報理論の多くの考え方を予想していた。
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コメント[89]は、ダメな考えですね。数が一つ減ったくらいで、 ℵ が ℵ ではなくなるわけないですね。

しかし、素人の浅知恵の見本として、このコメントは、このまま残して置きましょう。
鈴木さん は、本当に居なくなったようですね。残念ですね。

確かに、数学をエンターティメント、つまり、娯楽として楽しめるか?と言うのは重要ですね。

特に日本においては、これが数学発展の原動力だった事は確かです。

日本では歴史的に、数学は、囲碁や将棋と同様に庶民の娯楽だったようです。

この伝統は守り続けて行きたいですね。
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算額

算額(さんがく)とは、江戸時代の日本で、額や絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したものである。

平面幾何に関する算額(特に円の中に多数の円や別図形の中に多数の球を入れるなど接点を持つもの[1])が多い。数学者のみならず、一般の数学愛好家も数多く奉納している。

算額は、和算において、数学の問題が解けたことを神仏に感謝し、ますます勉学に励むことを祈念して奉納されたと言われる。やがて、人びとの集まる神社仏閣を数学の問題の発表の場として、難問や、問題だけを書いて解答を付けずに奉納するものも現れ、それを見て解答や想定される問題を再び算額にして奉納することも行われた。

このような算額奉納の習慣は世界中をみても他に類例がなく、日本独特の文化といわれる。その一部は重要文化財や民俗文化財に指定されている。明治時代になると、日本には西洋式数学[2]が導入されることとなったが、算額奉納の風習は、この導入を容易にしたとも評価されている。

1997年(平成9年)に行われた調査結果によると、日本全国には975面の算額が現存している[3]。これら現存する算額で最古の記年銘をもつものは栃木県佐野市の星宮神社に奉納された天和3年(1683年)のものであった[4]。延宝8年(1681年)の村瀬義益『算学淵底記』によれば、17世紀中頃には江戸の各地に算額があったことが記されており、ここでは目黒不動の算額の問題が紹介されている。京・大坂にはさらに古くから算額があったと推定される。17世紀後半には算額に書かれた問題を集めて数学書にするものも現れ、出版物としての算額集の最初は寛政元年(1789年)藤田貞資『神壁算法』とされる。

算額奉納の習慣は、江戸中期に入ると全国的に盛行し、とくに寛政・享和・文化・文政のころは最も隆盛し、1年に奉納数が100を越えたこともあったといわれている。明治に入ってからも昭和初年頃まで和算の伝統をひいて継承された。近年、算額の価値を見直す動きが各地でみられ、21世紀に至ってもなお算額の奉納を受け入れる神社もあり[5]、また算額を神社仏閣に奉納する人びとも増えている。これは直接和算の伝統を受け継いだものではないことが多いが、いずれにしても日本人の数学好きをあらわす文化事象として興味深い。

算額が多く分布する地域や寺社[編集]
現存する算額は関東地方や東北地方が多く、もっとも多いのが福島県の103面、次いで岩手県93面、埼玉県91面、群馬県などとなっている。長野県木島平村の算額8面は、山間部の小村としてはきわめて濃密に分布している例である。また、愛媛県松山市の伊佐爾波神社には22面の算額が奉納されており、これは1箇所で確認されているものとしては最多である[6]。伊佐爾波神社の算額については、『道後八幡伊佐爾波神社の算額』として図録にまとめられ、同神社より発行されている。
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コメント[90]の、

「この特性は,数学者が新しい公理をもっと仮定してよいことを示している」

は、すごいですね。公理は絶対的なものではなく、もっと自由に仮定して良いと言う事なら、私が言っていた、「最大の自然数の有る数学」も普通に成り立つわけで、異常でも何でも無い。

しかし、これは従来の公理の基で数学を考えていた人からは反発を受けるでしょうね。

例えて言えば、将棋で変則ルールを考えて、これで将棋を指そうと言うようなものですから。

実際、私は将棋コミュや囲碁コミュで、変則ルールを提案してコミュを追い出されそうになりましたからね。

しかし、数学は、将棋や囲碁よりも、もっと自由なものだと言う事なのでしょう。

そして、そのような自由な公理の基で、矛盾が生じたとしても、驚くには当たらない。

「数学の論理構造は完璧──というのは実は幻想にすぎない」のだから。
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公理(こうり、Axiom)とは、その他の命題を導きだすための前提として導入される最も基本的な仮定のことである。一つの形式体系における議論の前提として置かれる一連の公理の集まりを公理系(Axiomatic system)という。公理を前提として演繹手続きによって導きだされる命題は定理とよばれる。多くの文脈で「公理」と同じ概念をさすものとして仮定や前提という言葉も並列して用いられている。

公理とは他の結果を導きだすための議論の前提となるべき論理的に定式化された(形式的な)言明であるにすぎず、真実であることが明らかな自明の理が採用されるとは限らない。知の体系の公理化は、いくつかの基本的でよく知られた事柄からその体系の主張が導きだせることを示すためになされることが多い。


以下にいくつかの公理の例を示す。

命題 P が成立するなら、命題「PまたはQ」も成立する。

2つの点が与えられたとき、その2点を通るような直線を引くことができる(ユークリッド幾何学)。

a=b なら、a+c = b+cである(ユークリッド原論を参照)。

どんな自然数に対しても、その数の「次の」自然数が存在する(ペアノの公理)。

どんなものも含まないような集合(空集合)が存在する(公理的集合論)。
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自由に公理を仮定できるなら、ゴールドバッハの予想も、たちどころに証明完了ですね。

この予想は、4 × 10^18 まで成立することが証明されているのですから、4 × 10^18 を最大の自然数にすれば良いだけです。

公理で、4 × 10^18 を最大の自然数とすれば、それ以上の数は存在しなくなり、考えなくて良いわけですから、ゴールドバッハの予想は証明できた事に成るわけです。
>>[92]

ミクシーは遊ぶとこでコミュは決まったテーマで遊ぶとこでございます


残念ながらマルさんの算額についての考察はおもしろかった
そこは数学のコミュにふさわしコメントではないかと思います

コミュニケーションしてる途中で相手に退場されるとそれはそれで寂しいなあ、と思うのも人情でしょう(まあ勝手に出てきて勝手に去ることはただの自由行動ですけど)

つかみはおもしろい
で、そのあとデタラメな方向に話がネジ曲がっていくんだけど
この屈折、曲がる方向
思考のなす軌道の負や虚方向への曲率こそがマルさん劇場の特質ではないかと思います

江戸時代の数学者って、まあ、いたけれど、世界的にみて江戸時代の日本に数学文化の大きさな流れはありません
占いとかオカルト方向への算術の応用、科学的には測距術といった程度じゃないかな(ぜんぜん詳しく知らないけど)

学校で習うでしょ
このとき自然科学としての数学に意味があるわけです

なんのために数学を習うのか
学ぶことは楽しい遊びごとではない

科学が便利な文明や強力な兵器や宇宙開発を実現するからお勉強するわけです
ちなみに物理の探求にとって数学は道具に過ぎず

楽しむためのものではない

わたしからすると楽しいと思う人は数学の天才であり
われわれアジア系の凡人の多くは数学が苦痛なのです
インドでの算術の探求は世界の数学の発展に大きく寄与しているから西に行くほど数学的なのかもしれない

たしかに、数学は、マルさんの思考が描く軌道のように、負の数や虚数などを使って計算をする不思議な世界であり、知れば知るほど面白くなってはきますけれど

公理と定義があって、定義はわりと自由です
公理は数学が自然科学である以上自由なものではありません
日経サイエンスの記事に書かれた特殊解釈というか方便というか、とある人物の言葉尻ひとつに執着して
世界の趨勢や自然科学を指向することの本質を捻じ曲げないようになされたらいいかなと思いました
大きなお世話かもしれませんがw
ボブ・ディランがノーベル文学賞も貰った?らしいが、彼の「風に吹かれて」の歌詞についての、彼の解説を、私なりに解釈して理解すれば、

「ただ、答えは風の中で吹かれているということだ。答えは、本にも、映画にも、テレビや討論の中にも無い。分からないんだ。ただ、風の中にある。

しかも風に吹かれちまっている。「ここに(風に飛ばされない)答えが有る」だの何だのと言っている奴らを、俺は信用しねえ。

俺にとっちゃあ、俺は、風に乗ってて、しかも紙切れみたいに、いつかは地上に降りて来なきゃあいけない。でも降りてきても、誰も拾って読もうとしないから、誰にも見られず、理解もされず、また飛んで行っちまう。

世の中で一番の悪党は、間違っているものを見て、それが間違っていると、頭で分かっていても、目を背ける奴だ。俺は21歳だが、そういう大人が大勢居過ぎることが分かっちまった。21歳以上の大人は大体年長者だし、もっと頭がいいはずだろう」

といった事を、歌っているらしい。


「分からない」というのは、確かに連続体仮説の主張するところではある。つまり、彼は正しいということだ。ノーベル賞を受賞するだけのことはある。21歳で大した洞察力だ。

「世の中で一番の悪党は、間違っているものを見て、それが間違っていると、頭で分かっていても、目を背ける奴だ。俺は21歳だが、そういう大人が大勢居過ぎることが分かっちまった」確かに、そんな大人がいる。それも政治家とか、裁判官とか、社会のトップに立つ、社会のリーダーとか呼ばれている奴らの中に、大勢いる。今でも。
歌詞の内容は、風に吹かれて定かでない
ましてや文学的だとかわたしは思ったことはないですね

ボブ・ディランは、公民権運動やベトナム戦争ですさんだアメリカ国民の癒しになるような
曖昧なつぶやきを、フォークソングという形式で陳列した
世間はあまりにも殺伐としていて、そこにタンポポの花が妙に映えわたって咲いていた

それまで白人の歌う歌詞というものは、交尾の前戯や殺人、ばか騒ぎにちなんだものが主体だったんでしょう
何言ってるのかわからないようなつぶやきを即興で唄うような習慣はなかった
商売人の計算高いこぎれいな音楽しかない時代に、そんなド素人のつぶやきが受けた

日本ではモーニング娘が、松田聖子よりヒットするようになって
同じことですよね
自分もボブディランやモーニング娘みたいにスターになれる
むしろわたしのほうがかわいい、俺の方がいい声だ
そう思えるのです

たいした中身がないんだから、答えもへったくれもない
とはいえ、殺し合うのはやだ、差別なんてばかみたい、という子供のつぶやきは、とても純真なもので、なりふりかまわない素直な気持ちのうめきみたいなものが人の心を打つこともある
ノーベル賞選考者たちの思惑は
テロの時代の癒しにボブディランでどうですか?
なんでしょう

大人は答えを自分で見つけなきゃならない
ぼけっと、風に吹かれてたらあほですよ

正しいと思うことには、マーチー・ルーサー・キングのように、命がけで立ち向かっていかなければいけないのです
ほんとに答えがわからないやつなんていない

答えなんて、ほんとはわかっているんだけれど
その答えの通りにはなりそうにない
それが自分一人では実現できないことも
大人はわかっているんだよな

世界のすべての人が足並みをそろえたりしないことを
大人は知っている

だから答えなんて風に吹かれて消えたことにするんでしょう

しかし、世界の一人でも多くの人が、答えのとおりに、それをあきらめなければ
世界は、少しづつ答えに向かって進んでいく
すぐには答えの通りにならないとしても
世界はゆっくりと確実に答えに近づいていく



キング牧師みたいなのはそりゃ長生きはできないのですが

インターネットがある限り

その声はいつまでも響きわたる

どんなに腐りきった悪魔でも、掻き消すことはできない
誰も止められないんですよ
選考者からの連絡を拒否して、ノーコメントって
http://mainichi.jp/articles/20161022/k00/00e/030/184000c

学校さぼって電話に出ないガキみたいだよね

そんなもんいらんわ、とか
賞なんてどうでもいいんだけど金は銀行かどっかに預けとけばたいして邪魔にならないからありがたく頂戴しておく、とか
金には興味ないし賞にも興味ないから他の奴にまわしてやれ、とか
ノーベル賞もらったら不名誉だからふざけんな、とか
75歳にもなったら、なんか言うもんだろ

たしか候補になった時点でそのことがわかってたはず
わたしはもらったことも候補になったこともないんだけどw

本音言うとうれしいんだけど、黙っておいて理由をあほなファンに勝手に妄想させといて、かっこつけたいんでシカトしてる
賞金は振り込んどいてくれってことなら

「無礼かつ傲慢だ」

と選考者が苦言を言って当然だ
いらないとは、言ってなんだよね(笑
>>[100]
歴史的には爆弾爆弾を売った金でできた賞なので。
礼節や謙譲をとやかく言う資格があるかは疑問です。
しかしながら。
数学の真理は永遠でも現世では軍需成金の賞金が時を経て権威に変わったりもするのでしょうか。
例えばこういのはわたしにも理解可能です
言い分がどうあれ、メッセージを表明することに意義があるかと思います

ジャン=ポール・サルトル(1905-1980)
http://matome.naver.jp/odai/2133507254006995101

1964年にノーベル文学賞を受賞。

しかし「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」と言って辞退した。

他にも
「ダイナマイトなる非平和的発明をした人の作った賞などは受け取れない」
「受賞することで、人々の彼への評価・関心が彼の文学そのものから、″ノーベル賞受賞者サルトル″になってしまうのを嫌ったから」
とも言われている。

フランスの哲学者、作家。いわゆる「実存主義」の代表的な論客として、1960年代に各国の若者に大きな影響を与えた。

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ノーコメントっていうのは主として裁判における被疑者の権利として行使されているんだけれど
カスを受賞者に担ぎあげたが、真性のカスであるがゆえに自分を誇大に神格化したくて黙ってる
あるいは担ぎ手が神格化させたくて黙らせてる、なんてあり様は見苦しくて不愉快なだけ
権威というと

将棋界を牛耳っているつもりの日本将棋連盟では、ソフト指しの疑わしい棋士をタイトル戦出場停止にしている
これは連盟の構成員に対する身内への権威の行使です

アインシュタインの相対性理論を無視してるノーベル賞みたいなもんはローカルなくだらない賞だから


  ボブ・ディランに無視される程度のものでしかない


それは違いないんだけれど

不思議に思えるのは、ノーベル賞をばら撒いてる連中は
受賞者として選考したことを誤りだったとして受賞選考結果を撤回しないんだろうか
そもそもノーベル賞なるものの権威の外に生きるよそ者を間違えて選考してしまったんだからw

わたしに言わせれば、ノーベル賞とボブディランのくだらなさは
甲乙つけがたいし、もうどうでもいいんですけど(笑
この歌は、昔、よく歌ったなあ
歌に理屈はいらない


♪ The answer, my friend, is blowin' in the wind

       The answer is blowin' in the wind

1960年頃、ある学生Robert Allen Zimmermanが、弾き語りスタイルのフォーク音楽と出会い激しい衝撃を受け、ボブ・ディランとして生まれ変わった

ウディ・ガスリー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC
ディランは、ガスリーの人生の最後の年に彼を訪問して彼を「私の最後の英雄」だと描写した。後にディランは5ページの賛辞「ウディ・ガスリーについての最後の考え」を書き、そして彼の最初の同名のアルバム(1962)に「ウディに捧げる歌」を入れた。

1964年に、フィル・オクスのデビューアルバム「オール・ザ・ニュース・ザッツ・フィット・トゥ・シング(歌うに適するすべてのニュース)」に収録されたガスリーの自伝と同名の歌「バウンド・フォー・グローリー(栄光への途上)」は、ガスリーへの賛辞と、いっそう論争の的になっている(特に社会主義的な)ガスリーの歌詞を忘れることをより好んだ近代的な聴衆の間に広がる修正主義と無知に対する批判を含んだ。


歌うのに理屈はいらないが
歌を創るときは理屈もいるんだなあ、なるほどねえ
ボブ・ディランをくだらないと言ってはみたが
若いころの自分は、同じようなことに惹かれてた

吉田拓郎、長渕剛、松山千春、中島みゆき ・・・

くだらないなんて、言える立場ではなかった
取り消すよ、ボブ・ディランさん

 blowin' in the wind

こんな歌は創れなかったわたしに、何も言う資格はないです
ボブ・ディラン氏の続報がありましたね


ノーベル賞はもちろん受ける!
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=14&id=4266463&from=home&position=4

「ノーベル文学賞受賞のニュースに言葉を失っていた。この栄誉をとてもありがたく思います」



 はあ?  ・・・ 呆


言葉を失うというのはあなたではなく今のわたしですね
お大事になさってくさださいませw

  呆 ですか?

いや、これはですね

若き日のあの吟遊詩人がさ
爆弾を褒めたたえてアインシュタインの相対論を無視してる連中に金掴まされ褒められて

  栄誉って、なんだよそれ

みなさんだってそう思いませんか?

ということです
今後は、風邪に吹かれてはもう歌いたくないので
下手でも自分で創るか他の方の歌を歌わせてもらいます

自分で蒔いた多くの人の夢を
自分で壊すんだから俺の勝手だとでも思ってるんだろうね

ゴミクシーコミュでトピたてて、みんなが書き込んだあとで
自分勝手にトピごと消す奴と似てるわ(笑

 
   呆


「言葉を失う」、というセリフは今年の迷言部門でも賞をとりそうだ
それはこっちのセリフなわけでw

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