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従軍慰安婦Q&Aコミュの慰安婦は高給をもらっていた?

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1.慰安婦の働き方と報酬額

日本軍は各地で慰安所の利用規程を作っており、資料がたくさん残っています。

それによれば、一日の拘束時間は12〜14時間、休日は多いところで月に2日、少ないところでは土曜日の午前中半日だけ、性病検査のための休みがあるだけでした。

朝から晩まで休みなく身体を提供したら、水揚げが30〜40円、1ヶ月900円〜1000円程度になります。

ここから慰安婦はいくらぐらい受け取っていたのでしょうか。

資料のひとつに、「馬来軍政監」作成の「慰安施設及旅館営業遵守規則」という日本軍の公文書があります。
そこに「芸妓、酌婦、雇傭契約規則」というのが定められています。

慰安婦の給料は「慰安婦配当金」といいます。
前借金の額により、配当金が異なります。
前借金が大きいほど業者のリスクが高いから、「慰安婦配当金」の割合が低くされているのです。

1500円以上
 雇主が六割以内、本人が四割以上

1500円未満
 雇主が五割以内、本人が五割以上

無借金の場合
 雇主が四割以内、本人が六割以上


前借金の返済については、

「慰安婦配当の三分の二以上」

と規定されています。
水揚げの4割〜6割の手取り給料から、さらに前借金を三分の二もさっ引かれるのです。

前借金を早く回収したいのは業者として当然ですが、身体はいつ壊れるか分からないんだから、借金が多いほど搾取を強めるのも、これまた当然です。

かくして、3000円も借金があったら、死ぬほど働いて900円の水揚げをあげても、水揚げの六割600円が搾取され、残り300円の三分の二200円も返済金として取り上げるので、慰安婦の手元に残るのは100円です。
現代の感覚なら50万円程度になるから、宝石を買おうと思えば変えたでしょうが、それは一日12時間以上、年間一万人もの兵隊とのセックスを強制された代償です。

こういう無茶をすると計算では一年で前借金が消えることになり、強制貯金が300円ほどできている。
しかし身体はもうボロボロでしょう。

2.文玉珠(ムン オクス)さんの貯金通帳【写真】

 慰安婦は高給取りだったとのデマが右派から流されていて、その証拠として元慰安婦の文玉珠(ムン オクス)さんの貯金通帳が引き合いにだされます。

 元慰安婦の文さんが慰安婦をしていたときに軍事郵便貯金として26,145円を貯めていた通帳の原簿が日本に残っていたのです。
 小野田少尉の話では、当時の大卒初任給が40円だったというので、その54年分にあたるそうです。
 そこで、「そんなに稼いでおきながら、何が性奴隷だ」という意見になります。
 だけど、その意見は間違っているのです。

3.軍事郵便貯金の正体

 その前に軍事郵便貯金というのが何かの説明をしておきましょう。
 これは郵便貯金と名がついていても、郵便局の貯金ではありません。
 軍事郵便局というのは軍の機関です。
 預ける通貨は軍票(南発券と称されました)でした。
 文さんのいたビルマは通貨がルピーなので、ルピーの軍票が発行されていました。(写真)

 1ルピーは1円と数えました。
 しかしこれはあくまでも公定レートであって、現地では実勢レートで取引されていましたし、貯めたルピーを円に替えることは禁じられていました。

4.軍事郵便貯金は日本円に替えられなかった

 軍事郵便貯金が公定レートで交換できたのは軍人・軍属だけでした。
 軍人・軍属の給料は戦時予算で手当されていましたので、円の裏付けがありました。
 ですから公定レートで交換できたのです。
 しかし民間人の交換は禁じられていました。
 なぜなら、日本軍が物資を調達するために大量発行した軍票には、円の裏付けがない。
 そんな軍票を大量発行したので現地はインフレになりました。
 このインフレが日本国内に波及しないように、政府は軍票と円の交換を禁じていたのです。

 【資料1「南方経済処理ニ関スル件」】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=69155609&comm_id=5973321

 【資料2 大阪毎日新聞「南方へ邦貨携帯 現地軍で厳重に処罰」1942.7.16(昭和17) 】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=69155609&comm_id=5973321
 
 現地がどれほどインフレで苦しもうと、日本だけは安泰という身勝手なシステムを作っていたわけです。
 この操作には横浜正金銀行が使われました。

5.文さんがもらったのは紙くずだった

 では、軍票の1円は、日本円でいくらになるのでしょうか。
 そのことは後にして、先に彼女が軍票をたくさんもらった背景について述べます。

 彼女はこれを「兵隊からもらったチップ」だと証言しています。
 印字された日付をみましょう(写真参照)。

 1945年4月4日〜5月23日の2ヶ月足らずの貯金が20,360円です。
 彼女はビルマのマンダレーにいたのですが、ここが陥落したのが45年3月です。
 この時点からあと、軍票は使えない通貨になっています。
 3月に価値のなくなった軍票を、4月にもらっているのです。
 文さんは、使えないお金 − 敗戦で紙くずとなった軍票 − を、日本軍将兵から受け取っていたのです。

 こういう軍票をつかまされたのは、慰安婦に限りません。
 在留邦人も同じでした。
 その人たちは日本に引き揚げてきてから、日本円に変えて欲しいと要求しました。
 しかし敗戦で日本そのものが混乱していたので、交換できるようになったのは、昭和29年のことでした。
 持ち込まれた金額は、10万円が最高、大部分はそれ以下だったそうです。

(昭和29年第019回国会質疑)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/019/0806/01904300806012a.html

 文さんはその大部分の、しかもかなり下の方の金額です。

 1軍票円が1円に交換されたわけではありません。
 換算率は法律で定められていました。
 以下のサイトで換算表が確認できます。

軍事郵便貯金等特別処理法(昭和29年法律第108号)
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs29-108.htm

 その換算表で計算すると、文さんの貯金額は、日本円で3,215円となります。
 この年の大卒銀行員初任給は、5,600円だったそうです。
 その1か月分にもなりません。
 ということで、文さんは全然金持ちではなかったことになります。

6.慰安婦という収奪システム

 文さんがビルマにいたころ、日本軍は、価値の裏付けのない軍票を大量に発行していました。
 そこで、日本軍が占領した地域では、どこもすさまじいインフレに見舞われています。

 (【資料2】インフレ率)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=69155609&comm_id=5973321

 1945年3月のビルマ陥落直前には、物価は3年前の2千倍になっていました。
 いくら物価が上がっても、兵隊が慰安所に支払う料金は一定です。
 文さんたちが前借したのは日本円ですが、返済金として業者が受けとるのは価値の下がった軍票です。業者としてはたまったものではありません。

 慰安婦の立場でみても事態は同じです。
受け取る軍票の値打ちは、文さんたちの知らぬ間に、どんどん値打ちが下がっていました。
 文さんたち慰安婦は、3年前に慰安所の親方からもらった給料1円は、3年後も1円だと思いこんでいました。
 だけどその1円は、名前こそ1円ですが、日本の1円とは縁もゆかりもないものでした。
 45年3月になると、2万円もらっても、3年前の8円90銭の値打ちしかなくなっていました。

 そこで業者は利益を出すために搾取を強め、慰安所どツケで買う物品に法外な値段をつけました。これではいくら働いても借金を返すことが出来ません。

 従軍慰安婦の強制性を否定している秦郁彦教授ですが、慰安婦の人数を推定するにあたって、南方の慰安婦は交代がなかったと仮定しています。
 つまり行ったきり、年季明けで返ってきた慰安婦は数えるほどしかいないと推定しているのです。
 それもむべなるかな、慰安婦たちは価値が下落する一方の軍票をつかまされ、永遠に終わらない債務地獄にたたき落とされていたのですから。

7.例外的状況(議論を受けて、補足します)


 広い日本軍の占領地の中で、軍票経済がしっかりしている所もあったようです。
 中国の西半部の要衝には派遣軍司令部があり、多額の予算を投入していたので、景気がよかったという証言があります。
 そういう所では、軍票バブルのおかげで、一時期慰安婦の羽振りがよかったようなこともあったみたいです。
 しかしそれはあくまでも例外にすぎず、しかも一時期のにぎわいでした。

 国会答弁によれば、中国で100円の軍票を預けても、通帳に記載されるのは18円。
 軍票を日本円に替えるには、さらにその432分の1にしたそうです。
 軍票の価値は、中国では最終的に2400分の1になってしまったのです。
 しかも、これは最高の換算率の地域なのです。

↓国会答弁から引用

「軍事貯金につきましては中国関係の預入が非常に多いのであります。
 北支、中支、南支が、これが全体の約九四%ばかりを占めております。

 而もその中で今回の換算率で行きますと、換算率の一番高いものと申しますか、中支地域でありますが、まあ二千四百分の一になるわけであります。

 ・・・中支方面の関係におきましては、かなり換算率によつて支払い金額は少くなりますが、これは儲備券が非常に下落をした、こういう実情に対応するものでありまして従つて仮に十万円の貯金を持つておりましても、額は非常に少くなるというような計算になるわけであります。」

第019回国会 郵政委員会 第12号
昭和二十九年四月三十日
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/019/0806/01904300806012a.html

コメント(530)

まぁ、どうせ光太郎さんは絶対に答えられないと思いますよ。意地でも答えない。
私への質問はカンタンだから答えてあげてもいいんだけど、順番はそっちが先だよ揺れるハート
その考えでいくと、撫順で捕虜生活を送った人も、
生き延びたのは「生き延びるために洗脳を受け入れた」ごく一部の「サバイバー(生存者)」なんだろうね?

光太郎さんは慰安婦も気持ちなんて全然わかってないと思いますよ。男だからね。
男なら当時を生きた日本兵の気持ちの方がよほど手に取るようにわかるはず。
光太郎さんが日本兵だったらどうしたのか、答えてみろよ。

「監禁され」
「脅され」
「一方で紳士的に」
「恩恵を与えられ」
「情報を遮断され」
「都合の良い情報を与えられ」
「解放の望みを持ち、解放後は新しい人生を歩みだす。」


うーん。
撫順の捕虜生活そっくりだな。
光太郎さんは、当時の状況に自分が置かれても慰安婦を抱かない自信ありますか?
もし光太郎さんが当時の兵士だったら、絶対に慰安所に行かない自信ありますか?

こうして二度に渡って聞いたんですが、無視されました。
まずはこの質問に答えてくれたら、私も答えてあげます。
「監禁され」(慰安所では慰安婦の外出は原則禁止だったのは証明済み)

戦地で外出が自由なわけないだろう。


「脅され」(慰安所で様々な脅しがあったことも証明済み)

あるよね

「一方で紳士的に」(兵士や将校の中には、意図せずに紳士的に振舞ったという証言もある)

あった、あった。

「恩恵を与えられ」(軍票を与えられ、多く稼いでいるように騙されていた)

騙す意図はなかった。第一、日本軍は慰安所で稼いだわけじゃないですからね。
稼いだのは業者。

「情報を遮断され」(外出禁止、新聞ラジオもなし。また日本人と朝鮮人は多く、別にされた)

ケースバイケースでしょう。
確かに、日本人の芸者は将校用でしたね。
でも従軍慰安婦慶子では、一緒でしたよ。
ちなみに、春子達はバイリンガルで日本人扱いされてました。
情報遮断は戦地なんで当たり前でしょ。だいたい慰安所にはスパイ防止の意味もあったんだから。

「都合の良い情報を与えられ」(軍票の為替差損を知らせない。慰安婦をしても日本人としても戦
争協力者としても認められない。軍需物資扱いである事も教えられない)

戦争に協力してくれたことは感謝しますよ。
戦争に勝ちさえすれば、出世できたのになぁ。


「解放の望みを持ち、解放後は新しい人生を歩みだす。」(慰安婦生活への適応、協力者として認められる希望、送金、貯金などで希望をつないでますね)

実際、叶えた人も多いよね。そういう人は被害者として名のり出ないよね。
光太郎さんは、当時の状況に自分が置かれても慰安婦を抱かない自信ありますか?
もし光太郎さんが当時の兵士だったら、絶対に慰安所に行かない自信ありますか?

こうして二度に渡って聞いたんですが、無視されました。
まずはこの質問に答えてくれたら、私も答えてあげます。

光太郎さんはすぐ忘れたふり、見ないフリするから、念押ししとかなくちゃ。
>告白も強制されませんでした。

「早く習得すれば帰国させてもらえるかも」と期待した日本人らは自ら熱心に学習したと、帰国した人が言ってた。
毎日の学習会は三段階にわたって行われた。
1、反省学習の段階。戦犯を組織し、理論書、資料を使って学習させ、反省に導く。
2、罪行の自白段階。戦犯に反省を認識させ、その後、罪業を告白させる。
3、尉官以下の戦犯に、告発、暴露運動を行わせる。
共産党員は陰で指導。監視し、教材を与える。時には独房に入れ、自己批判。読書と討論を2〜3年続ける。批判闘争大会、吊るし上げ、集団で怒号、叱咤、自白せしめようとする。告白の声はいつしか絶叫に変わり、競うように仲間を告発する。


>撫順捕虜収容所で捕虜にしたのは、「事実を見せる事」だったようですね。

中共の工作員(名前は失念しました)がインタビューで答えていましたけど、躊躇する日本人に「その描写は事実でなくとも、作りもので良いから」と繰り返し言ったそうですよ。
国友俊太郎も「自分たちが洗脳したのですよ」とあっさり認めてます。




>前の100ページ近い、少なくとも数十ページの記述はどう言ったものなんですか?

生い立ちとかですね。
慰安婦生活には数日で馴れたとのこと。
私もまさか朝鮮慰安婦がこんな話をするなんてと、意外に思ったんですけど。


>しみちえさんが引用しない少なくとも数十ページには、被害の状況、強姦され性奴隷にされ、暴行され、踏み躙られた証言がされてるんじゃないですか?

遊郭と変わらない。むしろマシな感じ。
どちらにせよ、強姦には違いない。嫌がる女の子を無理矢理抱いて得意げな男の気持ちはさっぱり理解できませんが。


>しみちえさんが引用しているのは、しみちえさんの主観で恣意的に都合のいい箇所を引用されてるんでしょ?

トータルとして、「田舎で川遊びしてるよりは、私も慰安所で働きたい」と思える内容でした。
他の研究者でこの本から引用している人いるけど、悲惨な部分を強調しすぎな感じ。
そういう内容ではない。
しかも最後は、好きな相手とラブシーンで終わるし。


>しみちえさんが史料として提示したものは全て、徹底的に検証させていただき、しみちえさんが提示を拒まれるのであれば、それはしみちえさんが「日本を擁護するために嘘をついているか隠蔽している」と判断せざるを得ません。

まぁ、読んで見なさいよ。
アマゾンにあった残り2冊は、私が宣伝したせいで売り切れちゃったけど。
国会図書館に行かないと読めないだろうねぇ。



光太郎さんは、当時の状況に自分が置かれても慰安婦を抱かない自信ありますか?
もし光太郎さんが当時の兵士だったら、絶対に慰安所に行かない自信ありますか?


この質問に対する答えマダ?
>>503

全て、根拠のないしみちえさんの作り話ですね。

根拠があると言うなら提示してください。


全否定は誰でもできます。
そこは具体的に反論しないと会話になりませんよ。
>そして「日本を擁護するなら嘘も隠蔽も許される」と仰いましたよね?
忘れたならコピペしてきましょうか?


光太郎さんも私も人間ですから嘘をつくのです。
私は世の中の当たり前のことを言ったまで、です。



>しみちえさんの根拠している資料は全て、徹底的に疑ってかかりますよ。

そういう存在は私にとって貴重でありがたいです。



>で、心理学的に被害者が加害者と、自分が生きなければならなかった環境に、自己保存のために適応するという事実は否定できないとスルーですか?

撫順がそうですよね。
なんで毛沢東はスターリンから選抜した日本兵を譲り受けたんですか?



しみちえさんは戦争になったら慰安婦として行くんですよね?身内や友人、知り合いの女性全てを「お国のために」と説得して一緒に、未成年だろうが処女だろうが恋人がいようが夫がいようが、「軍票」を貰って「お国のために兵隊さんを身体で慰める」という、しみちえさんが「素晴らしい」と思う慰安婦をしに行くんですよね?

なぜ答えられないんですか?それが「嘘」だからですか?



先に私の質問に答えてくださいね。ずるいですよ。なぜ答えられないのですか?何か都合悪いんですか?

光太郎さんは、当時の状況に自分が置かれても慰安婦を抱かない自信ありますか?
もし光太郎さんが当時の兵士だったら、絶対に慰安所に行かない自信ありますか?


なんで私ばっかり答えて、そっちは答えないのですか。不公平でしょ。ずるいですよ。自分ばっかり。
もう一度聞きますね。前回光太郎さんに聞いたのは、

光太郎さんは、当時の状況に自分が置かれても慰安婦を抱かない自信ありますか?
もし光太郎さんが当時の兵士だったら、絶対に慰安所に行かない自信ありますか?

>こちらの質問が先ですよ。あなたが先に質問したように嘘を言うのはおやめなさい

478で答えました。次はそちらが質問に答える番です。

光太郎さんへの質問はこれです。

光太郎さんは、当時の状況に自分が置かれても慰安婦を抱かない自信ありますか?
もし光太郎さんが当時の兵士だったら、絶対に慰安所に行かない自信ありますか?
私の質問をスルーして、次の質問に移るのはおやめください。
>告白も強制されませんでした。

強制はしてないけど、誘導したんですよ。
捕虜の思想改造は国際法に違反する行為なので、自発的にやるような仕組みを作ったのです。

http://mixi.jp/view_item.pl?id=1603921&reviewer_id=686116
日本人が改造されていく様子をつぶさに見てきた人物、崔仁傑工作員はこう語る。
「千人の日本人が日本に帰っていって、中国のことを言えば、何十人の中国人が日本に行って宣伝するより効果がある。」「私たち中国人が日本に行っていくら中国の共産主義はすばらしい、と言って宣伝しても、一人の日本人が中国で体験したことを自ら語る効果には敵わない。」
P43〜

「改造には国民性も含めて特徴があり、日本人は中国人よりも改造しやすいことに気がついた。…自分のやったことが悪いと悟ると、それが分かった時点で素直に認めて、善に向かう勇気が日本人たちにはあった」 P174


>国友俊太郎も「自分たちが洗脳したのですよ」とあっさり認めてます。

これですけどね、根拠は高尾栄司が国友に直接インタビューした時に、彼がそう答えました。
P185


光太郎さんは「インタビューの内容が嘘だ」「高尾栄司が嘘つき」とか言い出すんだろうなぁ
こちらの質問には答えず、話を逸らし、勝利宣言で終わる。いつものパターンです。
面倒くさいのでコピペで終わらせます


http://mixi.jp/view_item.pl?id=1603921&reviewer_id=686116

この本は日本の謝罪外交の発生源を解き明かす。
加害証言者の多くは中国で抑留された者(中帰連)だ。彼らは寛大な中国に恩を感じるように仕向けられ、「自分達が悪かったのだ」と思い込むように洗脳されて、日本へ放たれたのだ。だからこそ「日中友好」「正しい歴史認識と過去の過ちを教訓」がスローガンとなり、謝罪と罪認が活きる糧となる。それは中国共産党によって数十年先までの未来を見込んで仕組まれた罠であった。中国が歴史の悪者にならないよう、深謀をめぐらす。悪者にならないためには、まず相手側に事件を起こさせるようにすればよい。事件を起こして日本人に罪を着せ、捕まえた日本人を洗脳し、日本人に「謝罪」を伝播させるべく帰国させたという。

(通化事件大規模な日本人狩りで、投獄された日本人はものすごい虐待された。監獄の中は満員電車のようにぎゅうぎゅうずめで何日も立ちっぱなし。真冬で凍傷、餓死、青竹を鞭にし尋問&虐待、死体放置…。中国人が牙を向いた時の落差が怖い。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-758.html)

撫順収容所が原点で、日本人が日本人に謝罪させることを仕向ける工作だった。(捕虜の思想改造は国際法に違反する行為なので、自発的にやるような仕組みを作った)
中国撫順戦犯管理所職員、日本人を思想改造した張本人、対日工作員など、まだ存命の当事者、関係者への直接インタビューの様子は迫力があった。
その事実は驚愕の連続で非常に内容の濃い本なのに、話題にもならず地味に売られているのが信じられない。

日本人が改造されていく様子をつぶさに見てきた人物、崔仁傑工作員はこう語る。
「千人の日本人が日本に帰っていって、中国のことを言えば、何十人の中国人が日本に行って宣伝するより効果がある。」「私たち中国人が日本に行っていくら中国の共産主義はすばらしい、と言って宣伝しても、一人の日本人が中国で体験したことを自ら語る効果には敵わない。」P43〜
「改造には国民性も含めて特徴があり、日本人は中国人よりも改造しやすいことに気がついた。…自分のやったことが悪いと悟ると、それが分かった時点で素直に認めて、善に向かう勇気が日本人たちにはあった」 P174

その様子。まずソ連の収容所で始まった。「共産党宣言」などをテキストにして「日本軍国主義による侵略戦争」などをテーマに教育された。その後、日本人が指導者となる。
ソ連の思惑は何か。マルクス共産主義を教えこみ、日本に帰還させ日本を共産主義化する急先鋒として活躍させようとしたのだ。「早く習得すれば帰国させてもらえるかも」と期待した日本人らは熱心に学習したらしい。
ソ連の収容所でのやり方が中国の撫順に引き継がれる。毎日の学習会は三段階にわたって行われた。
1、反省学習の段階。戦犯を組織し、理論書、資料を使って学習させ、反省に導く。
2、罪行の自白段階。戦犯に反省を認識させ、その後、罪業を告白させる。
3、尉官以下の戦犯に、告発、暴露運動を行わせる。
共産党員は陰で指導。監視し、教材を与える。時には独房に入れ、自己批判。読書と討論を2〜3年続ける。批判闘争大会、吊るし上げ、集団で怒号、叱咤、自白せしめようとする。告白の声はいつしか絶叫に変わり、競うように仲間を告発する。その様子はドラマチックですらある。
その行き着く最終地点はどこなのか。「一つは、学習によって自分たちの侵略行為を反省させ、中国に積極的に協力させるようにすること。二つめは、改造によって完全に中国化させて、将来、日本に帰った場合、日本の民主勢力の一翼を担うこと」(民主勢力とは中国共産党一辺倒の活動をするということ)

日本人の感覚からすると首を傾げるような証言も多い。赤ん坊を銃剣で串刺しし、女を揚げて食べたとか。
これは迫害と強要によって「反戦反帝国主義文学」を書けと命令させられたのだ。
工作員の説得の仕方は巧みで、躊躇する日本人に「その描写は事実でなくとも、作りもので良いから」と繰り返し言ったという。
のちに戦犯の手記として「三光」という題名で出版された。
毛沢東は捕虜こそ宝であると考えた。捕虜は生かして使うというのが毛沢東の捕虜政策だった。
捕虜を寛大に取り扱うのも、手なづけて可能な限り利用してやろうとしたからである。その厚遇とは「地獄を作っておいてそこに仏を置く」中国共産党特有の政策によって生み出された錯覚であった。
400人の日本人航空部隊が八路軍の捕虜になった時、中国人は優遇、歓迎し、中国共産党の念願であった空軍設立の要員として’留用’することにした。
日本兵捕虜8千人だけではなく、技術者、医者など役に立つ民間日本人が3万人ぐらいいて、八路軍の管理下でタダ同然で強制労働に就かされていた。
八路軍は近代的な武器がなかった。とくに空軍がなかった。そんな時に、400人の日本人航空部隊が八路軍の捕虜になったという朗報が飛び込んで来たのだから、中国側の幹部が目の色を変えて乗り出すのは当然だ。
中国で捕虜になった林航空隊は270名は中国式に改名を命じられた。(日本人捕虜を八路軍の空軍建設に使うことは、国際法に違反する行為なので、彼らを中国人にカモフラージュするためだった。例 林弥一→林保毅)
そして日本の兵器とその技能を持った捕虜を活用し、国民党に勝ったのだった。
また、日本人捕虜への優待政策は、日本人を認罪に導く効果的な手段でもあった。
優遇処置には所員からの反発もあったという。
しかし周恩来はこう言った。「諸君は、20年後に、中央の決定(日本人戦犯に対する寛大な処置)の正しさを理解するようになる」
国友俊太郎は中国共産党の工作員といってもいいだろう。インタビューであっけらかんと「自分たちが洗脳したのですよ」(P185)と素直に認め、悪びれた様子もない。
当人らにとっては中国、共産主義が正しいのだから、日本人がそれに従うのは当然だという考えなのだ。
1972年そんな国友たちに対して、周恩来は「謝罪はもうするな」と繰り返し指示があったという。しかし謝罪一辺倒でやってきた訪中団は今更方向転換するわけもいかず、その話をタブーにしてしまった。この時勇気を出して事実をありのままに公表しておれば、その後の日本に与えた影響も大きく変わっていただろうに。
また、1975年、訪中団は、撫順戦犯管理所を訪れ孫明斎管理所長と対面。「撫順戦犯管理所での改造工作は毛沢東の指示で行われたもので、孫もと管理所長や所員たちの個人的発案や善意によるものではない」と知らされた。しかしもう手遅れだ。歴史教育の発信基地となり、彼らが蒔いた種は日本に深く根をおろした。日本の首相がアジア諸国に謝罪の意を述べる儀式は恒例となったことがその証左だ。

前田光繁は日本人捕虜第一号だ。当人達は、眠っているときであった。前田は何者かによって突然たたき起こされると、事情も飲み込めぬまま口の中にピストルの銃口を押し込まれ、がんじがらめに縛り上げられ捕われの身となったのである。それは、初めて見る、毛沢東の八路軍であった。(P46)
その後、共産党対日工作者によっ何ヶ月か改造学習させられ、「中国のために死んでもよい」と思うようになったという。
前田光繁が吐露したように、撫順で行われた「日本人の手によって日本人を改造させる手法」は、マスコミ、法曹界、教育界と伝播していき受け継がれ、今もなお壮大な仕掛けとして自発的に機能しているのだ。このような大胆で大掛かりな決定と実行は他に類を見ない。
…こんなに後世まで痛みが後を引くのであれば、いっそのこと日本兵皆殺しにしてもらった方が日本全体へのダメージは小さかっただろう。
(中共への協力を拒否した人達もいます。↓
八路軍への参加が決まった日に、ある将校は自殺したp66 八路軍の管理上じゃまになる日本人は銃殺されたP62 捕虜となって使役されることを拒否し自ら処刑台に立った者もいたp211)
http://mixi.jp/view_item.pl?id=1610192&reviewer_id=686116

金春子という朝鮮人慰安婦の赤裸裸な手記。
春子は、昭和16年前後、地元の朝鮮人巡査に「お国のために」と騙され売春宿(吉田という日本人の男と玉子という女の夫婦)に売られた。(金を受けとった記述はないが)「女子愛国奉仕隊」に志願したという建前になっているが、それは巡査の嘘で強制的に村から五人をまとめて連れていかれたようだ。
騙されたはずだったが、春子はいつしか本気で日本のために兵隊さんのために真心尽くすようになっていく。
「朝鮮ピー」と蔑まれることもあったが、気持ちはほとんど日本人と一体となり、
この仕事に誇りを持つようになっていく過程がよくわかる。
他の朝鮮人慰安婦の証言集みたいな、被害者意識や日本に対する恨みはない。
いろんな事件や人間ドラマが詰まっており最後まで飽きさせません。

「この商売は、女なら誰でもでける、楽しみながら金の儲かるええ商売やがな。
おまえたちは、兵器やで。戦争は兵器を大事にする国が勝つんや。ええか、大事にせえや」P85

(吉田に対する春子の印象はこうだった。)
「おとうちゃんは、こういう時、なかなか親切であった。少し助平なのを除けば、随分私たちの面倒を見てくれた人と言えた。P88

(春子と長井軍曹の会話)
「私、勲章を持って、故郷へ帰りたいわ。そうすれば皆感心してくれるわ」
「そりゃあ、立派に戦って戦死か負傷でもすれば勲章ももらえないことはないと思うがね。女の身ではなかなか難しいかもしれないなぁ。しかし金の方はうんと儲かるぞ。一生懸命働けば、一年で千円や二千円は貯金ができる。それを故郷の両親へ送金することもできるのだから、安心して働くがいいさ」
「そんなにお金儲かるの」
私はびっくりした。愛国奉仕隊へ入るというのだから、無給か、兵隊さんと同じくらいに安い給料で働かされるのだとばかり思っていたからである。
「そうさ、儲かるさ。みんな、金持になって、中には、支那の北京や、天津へ行って、その金で料理屋をやり、出世している者もあるよ。ちゃんと故郷からは両親を呼び出してな、立派にやっているよ」P97

あちこちの部屋から、笑い声や矯声が聞こえてきた。それは最初の日のような、悲しそうな悲鳴や、苦痛を訴える呻き超えではなかった。
むしろ、そのことをともに楽しんでいるようなひびきさえあった。
いつのまにか馴れてしまったのだろうか。女の体は誰でもそういうようになっているのであろうか。
私の体もいつのまにか、男を迎える姿になっていた。そして、それは何重ものベールにおおわれた、厚い布の先にやっとその感触をさぐっているようなものであったが、それでも私の心の中に、かすかに喜びの感情が浮かんでくるのを意識していた。P116

胸も前よりいくらか高く張り出し、腰のあたりには、ぐっと脂肪がついてきて、何とも言えぬ丸味が出て来ているのである。
私は僅かな日数、男に触れ、愛されることによって、こんなにも変化してしまう女の体の持つ、不思議な生命感にただ驚いていた。
まるで固くちぢこまっていたつぼみが春になって一斉に花が開いたようなものだった。
女の不思議さ。女の力強さ。
私は自分の、昨日今日とにわかに女らしくなった、腕や肩のあたりを撫でながら、しみじみとその生命の神秘について考えていた。P120

兵士の心の中の欲望や関心まで奪い去るわけにはいかないようだ。
その意味では私たちはスターでもあった。そしてそれは女自身が現在どんな境遇にあったとしても、やはり嬉しいことなのであった。
私たちは皆浮々とした気分になった。P124

乳房やお尻をさんざん撫で回し、胸もとに鼻をすりつけるようにして、「甘いなあ」と言った。
そして、本当のことにかかったが、それはほんの一分か二分で、「あっ!」と短い声を残して終わってしまった。
あまりに簡単なので私はびっくりしてしまったが、彼はそれでもよかったらしい。P135
「男は部屋に入ると、入ります、と言って敬礼をした。
ゲートルを取り、ズボンを脱いだ後も、抱かせていただきたくあります、と先ず聞いた。
私は何となくこの兵隊さんに好意みたいなものを感じて、笑いながら答えた。
「あんた、さっき、おとうちゃんにはお金を払ったんでしょう。だったら何も遠慮することはないじゃないの。私たちは、あんたがたに抱かれて、あんたがたを喜ばすためにあるのよ」
「では、抱かせていただきます」
彼の手が私の体にかかった。その手はガタガタ震えていた。
「どうしたの。寒いの」
私は不審に思って聞いた。しかし、別に寒そうではない。それどころか、額には汗がダラダラとにじみ出している。
「ああ、分かった」
私は思わず笑ってしまった。
「あんた初めてなのね」
「そうであります」
私もほんの数日前の自分のことを思い出した。
いまはもうこんなに平気になって、ゆっくり男を観察し、冗談なども言っていられるが、あの最初の時は、一体何をされるのだろうかと怖ろしくて、怖ろしくて 仕方なかった。
男もまた、女と同じように、最初の時は怖ろしくて仕方がないものだろうか。
「大丈夫よ。元気出して」
私はむしろ、彼を励ますようにしてやった。
「ハイ、元気を出します」
彼もようやく男らしい行動が取れたようだ。
ぐったりして、私の体の上に覆いかぶさってきたとき、私はこの青年兵士がかわいくて
仕方がなくなってきた。
彼の背中を優しく撫でてやりながら聞いた。
「あんた、何て名」
「中村上等兵です」
「中村上等兵さんね。軍隊へ入って何年になるの」
「二年目です」
「私のことどう思う」
「好きであります」
「なぜ」
「柔らかくて、暖かくて。まるでおかあさんみたいであります」
「あんた、また来る」
「ハイ、また来ます」
「ではね、うんとサービスしてあげるわよ。ただしね、他の女の人のところには絶対行っちゃいやよ。それだけは約束してね」141P

「さあさあ、これがおまえの稼ぎや。今日はよく働いてくれたな」
そう言って、150円のお金を枕もとに置いて行ってくれたので、
私は30人ぐらいのお客さんを取ったのだなということが分かった。
一人5円もらえる約束になっている。兵隊さんはおとうちゃんに、7円50銭のお金を払うのだ。
兵隊さんは二等兵で15円。伍長で45円の月給らしい。だから二等兵さんなんかは、一月の稼ぎの半分を、ほんの15分で使ってしまうらしい。(中略)
ともかく一日で150円も儲けたのだ。
何でも部隊長の大尉の月の給料よりも多いぐらいだそうだ。P146

沢山の着物や物を買った。
レコードや蓄音機、新しい姫鏡台、沢山の支那服や日本服、靴、下着類、女のほしがるようなものは大概揃えてしまった。ありとあらゆるものが部屋の中に飾りたてられ、だんだん部屋がきれいになった。
それに毎月200円、故郷へ送金できるし、貯金も沢山できた。最初は悲しくていやなことだと思っていたこの仕事も、そのうちにだんだん馴れてきた。P162
それは白い襷で、墨色も黒々と、国防婦人会と書いてあった。
私たちは何となく嬉しくなった。眠いけれど気分もまたいい。これで本来の愛国奉仕隊員に戻ったような気持になった。(もっとも、この頃になると、私たちはもうそんなものがあったなどということは信じなくなっており、たぶん、南巡査に欺されたんではないかと漠然と考えていた)
それでも私たちは、こうして国防婦人会の襷をつけるのが嬉しかった。P164

兵隊さんは、初めのうちは、遊び半分や、単なる、性欲の処理のためにやってきたような、不真面目なものが多かった。ところが征伐から戻ってきて、私たちの店に入ってくる兵隊さんは、そんなものではなかった。私たちの体に触れて初めて、自分はこの戦闘に生きて勝ち抜いてきたのだという実感が湧いてくるらしかった。そして激しい作戦の苦労も、悲惨な戦友の死や負傷も、私たちの温かい肌に包まれると、すーっと忘れて行くのであるらしい。
私たちもこんな時は、商売気を離れて兵隊さんを大事にしてやりたかった。(中略)
大体将校や、いろいろなものを持ってきてくれる本部の炊事や酒保品係の兵隊は、位や、物で私たちの歓心を買い、私たちがそのため、うんとサービスしていると思っているらしいが、そんなことはとんでもないことだった。(中略)
本当に気持ちをたかぶらせてサービスするのは、いま激しい戦争から戻ってきたばかりということがよく分かる、弾丸と戦場の匂いのする兵隊さん達へだ。(中略)
『兵隊さん、ごくろうさん』と、心の中で感謝していたのだ。175P

でも、そんな兵隊さんの中でも、悪い兵隊さんはいる。(中略)
「おれは女なら誰でもかまわないんだ」そう言って、あいている女のところへ行く。結局、それは女同士の軽蔑を買い、ろくなサービスを受けずに損するのであるが、彼はそんなことも気にかけなかった。女がどう思い、どういう態度に出ようと、自分の欲望さえ、さっさと解決してしまえばかまわないのであった。P177(その後に続く、この村上伍長の戦場での強姦の話が酷い)

私たちは、芸妓や、女郎とは違うのだ。兵隊さんを慰安する目的で、朝鮮から連れて来られた愛国奉仕隊員なのである。たとえ生命が危険なことがあっても、断るのは間違っている。兵隊さんが本部から前線へ行く、命令が出たとき、断ることができるだろうか。
「行きます」私は元気よくそう答えた。P188

「おまえたちの行くところは十カ所だ。ご苦労だがな」
「どこへでも行くわ。軍の命令なんでしょう」
「ああ、そうだ」
「それじゃ名誉なことですもの」
私たちは将校には朝鮮ピーとさげすみをもって呼ばれることはあっても、兵隊さんたちには、どこへ行っても大事にされることを知っていた。
兵隊さんたちにとっては、私たちは無くてはならない大事なものだったからである。P194
私たちのワンピースからは、白い肢がむき出しになっている。
兵隊さんの目が食い入るように吸いついている。
でも私たちはその肢を隠そうと考えなかった。
見ることによって、兵隊さんが楽しめるなら、それでいいじゃないか。見られたって、触れたって、決して減るもんでもないんだし
…それにこうして兵隊さんを喜ばすことが私たちの最大の仕事なんだから。P201

少尉は物の分かった男であった。「よし、この女たちを、とりでに案内してやれ」
すると、兵隊が、われ先にと私たちのそばに近より、まるで胴上げしそうな勢いで、私たちをかついで、とりでへ入っていった。
こんなにも歓迎されるのかと思うと私たちは嬉しかった。私たちも、兵隊さんに担がれながら、キャアキャア騒いでしまった。
それから順に廻った9つの分遺隊のすべてがそうであったが、分遺隊の隊内には、本部や、中隊で見るような固苦しいところは何もなかった。
どこか、一家族のような和気あいあいとしたところがある。敬礼や、その他の礼義などもあまりやかましくない。
初年兵いじめのビンタなどもあまり無いようであった。
きっとえらい人のいる本部では、軍の規律を正しくしなければならない意味で、ああいうことがあったので、いつ死ぬか分からない人間が一緒に暮らしているような分遺隊では、そんなよけいなものは、だんだん無くなって行ってしまうのかもしれない。
酒や、米やビスケットや羊羹などを下ろすと、私たちをおいて、本部の車は戻って行った。長井軍曹も戻って行ってしまったが、私たちは皆が優しそうなので一つも不安ではなかった。
その日の夕食は、歩哨や、衛兵の勤務者を除いて、全員の会食だった。
酒が、飯の蓋に一杯ずつ配られ、おかずも一皿よけいついた。
そして私たちを中心にならぶと演芸会が開かれた。
兵隊さんたちは、浪花節を歌ったり、おけさ踊りを踊ったり、なかなかの芸達者ばかりであった。私たちはあまり面白いので、見ながら、笑い転げ廻った。すると兵隊さんたちは、私たちを笑わそうと、ますます一生懸命になるのであった。(中略)
部屋の準備が整うと、私たちは、風呂敷包みをほどいて、寝衣にかえた。それから、顔を洗ってクリームをつけた。
クリームはとてもいい匂いがする。それが、どんなに兵隊さんに喜ばれるか、私たちはよく知っているのである。どの兵隊さんもクリームのすりこまれた女の肌に鼻をこすりつけ、「ああ、女の匂いがする。おふくろさんや姉さんの匂いだ」と、まるで泣きそうな顔をして喜ぶのであった。
すっかりお化粧を終えて、ランプを枕もとに近よせると、一番先の兵隊が入って来た。
「入ってよろしくありますか」
兵隊は緊張した声でいう。
「どうぞ」
兵隊は一瞬私の美しさに目を見張ったようであった。
「こいつは凄い」
舌をまきそうな声だった。そしていきなり抱きしめてきた。P206

「隊長さんはいつ私たちのところへ来るんだろうなあ」
「隊長さんはいい男だね」
「若くて、きりっとしていて、私、早く隊長さんを相手にしたいよ」P211

(お気に入りの隊長さんが来ないと聞いて)
その女の人が、日本でもおとなしくしているかどうかは、誰も分かりやしない。それなのに生命がけで働いている戦場の男の人に、他の女を抱かせないように縛りつけておくなんてのはもってのほかのことなのだ。
女が口惜しかった。男を縛りつけておきたかったら、自分が戦地へやってくればどうなのだ。
「ふーん。ばかたれね。日本できっと浮気してるよ。日本の女は皆、金で動くからね。私たちみたいな真心ないからね」
話しているうちに、また胸がカツカツとしてきた。そうしてあの美男の隊長がかわいそうになってきた。こちらは心から抱いて慰めてやりたいと思っているのに、やって来ないなんて。写真が女の肌の代わりになるもんか。P212

いまでは部隊のほとんどの人は知っているし、
まるで一つの家族のように親しみ合っている仲なのに…。P218
http://mixi.jp/view_item.pl?id=1257444&reviewer_id=686116

舞台は70年代。著者は元日本人慰安婦にインタビューをする。
悲しく辛い話を共有するつもりで彼女らに会うとその意気込みは簡単にはずされ、
「私の人生で一番輝いてた話」を聞かされるのだった。
朝鮮人慰安婦は恨み節たっぶりなのが多いのに、日本人慰安婦のこの楽しそうな様子といったら!

ケース1
菊丸さん。芸者はお金がかかるばかり。置屋の借金を軍が肩代わりしてくれると聞き、志願で慰安婦になる。当時18歳。1942年3月〜翌年12月末まで。
契約は1年半。軍直営、しかも士官用だからとても大事にされたようだ。
トラック島での生活は「楽しいことばかり」
取材中、「今までで一番楽しかったのは、トラック島にいる時よ」と何度も言った。ドレスを作ってもらったり特別に日傘をもらったり。モテモテで、道を歩くと女王さまこんにちはと誰かに頭を下げられる。
食べる物に困らない豊かでのんびりした南の島の生活。
死地に行くパイロットに身体を開く時、
お金で買われたことを忘れたという。
「そのときそのときの相手を、本当に好きになりました」昔を思い出し表情が華やぐ。
お金は四分六分で、四分が娘の取り分。1ヶ月の稼ぎは600円か700円。士官が一ヶ月分先払いする。帰国時、4千円の借金を返しても1万円残った。

ケース2
鈴木さん。菊丸さんと同時期。この時期に帰国した人はとてもラッキーだったという。当時18歳。前借金に縛られた芸者。前借金は2300円。帰国時には1万円の貯金。借金を返し終わったら島巡りをしたりのんびりすごした。ロマンチックな思い出もたくさん。いつ死ぬかわからんという気持ちがあったので飛行機乗りは金離れがよかった。鈴木さんもサービスしてあげようという気持ちになった。
仕事の合間には、椰子の木陰で島民と踊りを踊ったり楽しかった。
食糧は十分にあったし南国の果物がたくさんあった。
兵士がむちゃしないように、仲居さんが、若い男には年配の女を、年配の男には若い女をあてがうように、調整してくれた。
仕事は朝10頃から。早いときは30分前から客が並ぶ。昼間が一番忙しくて5時半には空っぽ。雑貨屋に買物に行ったり散歩に行ったりしてそれから夕食。みんなで今日のお客さんはああやったこうやったいうて話したりして、9時には完全に消灯。
当時の楽しかったことを思い出したのか、話すうちに若やいだ表情になっていった。
「もう一度、トラック島に行ってみたい」菊丸さんも鈴木さんも同じことを口にした。
では次に兵士の思い出話を聞いてみよう。

芸者で借金500円から抜けられなかったのに、トラック島に来て慰安婦になったら3ヶ月で返せた子がいたという。借金を返した後はあんまり客もとらないで気楽にやっていた。
馴染みになってしまうと給料袋ごと渡してしまうと言った兵士もいた。
世間話や、お互いの身の上話を聞かせ合ったりした。
「マニラの慰安所で、そりゃもう夢中になって女を抱いたよ。金の続くかぎり通った。泊まりで朝鮮人慰安婦3円50銭、日本人は5円50銭、スペイン系が11円、アメリカ系13円じゃった。とにかく女を抱いてからはじめて『ああ、俺は生きとるんじゃなあ』と思えたですたい」
こういった兵士側の気持ちは、おのずから慰安婦と接する時の態度にもあらわれる。
明日は慰安所行きだとい前夜は、慰問袋の中に大切にしまっておいた羊羹を取り出したりして、まるで遠足に行くみたいなはしゃぎぶりである。
消灯ラッパを鳴っても、まだ話し声がやまない。羊羹はもちろん、慰安婦への土産で、「すまんです、お世話になります」といって差し出して、
たちまち果てたあとは、「ありがとうございました」と挨拶し、
身繕いをして去るのが普通だったという。
「3時間で76人こなした女がいましたよ。」「昨日は28人相手にしたけん、腰が痛かあ。今日から20人でやめるけんね」と陽気に話しかけたりする慰安婦の姿も話にのぼった。

菊丸さんや元兵士たちの話からわかるように、戦地ではお金を支払った男たちの側に優越感を持つ余裕がなかった。
慰安婦達の感想と合わせ鏡のように合致する。矛盾はない。
慰安婦は戦地で兵を慰めることによってお国のために役立っているという自負心が驚くほど大きかったことを、彼女らの話から察することができる。
軍直轄の慰安所であればなおさら、彼女らの自尊心は満たされ、お金で肉体を売っているという屈辱感などは、雲散霧消した。
これは、川田文子の『戦争と性』のp197にも同じことが書いてあった。
__________

民間の遊郭から軍慰安所へ行ったたま子さんは、奉奇さんと同じことを言った。
民間での性の売買より、軍慰安所のほうがまだ気分的には楽ではあった、と。
たま子さんがそう感じた理由は、民間の遊郭では女同士、過当な競争を課せられることにあった。(中略)
性労働自体は軍慰安所のほうが比較の仕様もないほどに過酷であったにもかかわらず、女郎、売女、醜業婦などの汚名を軍の慰安所にいるあいだは返上できた、そのことも遊郭より軍慰安所のほうがよいとたま子さんには感じられたのだ。
__________

あとがきでの市民団体の講演の様子に笑った。

30代の女性が「生きるか死ぬかの戦場で、男の人は、どうして慰安婦を買う気になるのですか。お国のためと言いながら、そんなことも我慢できないのですか!」と口火を切った。私も全く同意見!(笑)
そんな彼女の詰問口調での厳しい追及に対して、50代の男性がすっくと立上がり
「男の性とは、そんなものなのです。申し訳ない。私もその場に置かれたら慰安婦を買ったでしょう」と真面目に謝った。そしてそこからは男対女の対立する議論になってしまい、著者はこう説明するのであった。
「戦地では兵隊と慰安婦は対立していたのではありません。特に戦争末期になると多くの兵隊は、死地へ赴く前に慰安婦のもとを訪れ、内地に残した家族やこの世への未練を思いっきりぶつけて、自分がこの日までは確実に生きているということを実感したのだし、慰安婦だって血が通っている一人の人間なんですよ。明日は死地に赴くと覚悟している兵隊が、胸の中に飛び込んできたのです。慰安婦は自分の境遇を忘れ、万感の思いを込めて抱きしめたでしょう。窮鳥が懐に入れば、猟師だってこれを撃たない。まして兵隊も慰安婦もお国のためという、同じ志を持って故郷を出てきた、いわば戦友です…」

彼女らの辛さや哀しさは、必ずしも何人もの男たちを受け入れるからではなかった。
もちろん嫌なことには違いないが、それを上回るそれまでの恵まれない人生があったり、周囲の人達の蔑視であったり、単純に、過重労働で性器の損傷など肉体的な苦痛があったことだった。(大陰唇が垂れ下がってしまうらしい)
また、慰安婦だったために、戦後の人生を暗くしてしまったということもある。しかも戦後の驚異的なインフレは彼女達が稼いだお金の価値をまたたく間になくしてしまった。
菊丸さんはトラック島から帰って以来、旋盤工、ダンサー、パンパン屋の経営、闇市の店番、そして映画のニューフェース、カフェー、キャバレー、クラブ、バー、割烹、と職を転々とした。
若さと美貌が売り物にならなくなった時のために、次の売り物を用意しておかなければならない。が、小学校もまともに出ていない彼女らには無理な注文だった。
彼女らの中で、戦後不幸になってしまった人がいたとしたら、周囲の偏見や蔑視も一因なんじゃないだろうか。
もし、私たちがむやみに哀れんだり蔑んだりせず、他の職業と同じように捉えて迎えていたら、彼女達もまた違った人生を送ったに違いない。
大昔のよその国では、売春婦が名誉と富をした女性として、他の女性から羨ましがられた存在だったこともあったんだから。
後半半分は従軍看護婦の話。
他国との比較も面白い。
日本は規律ばかりで融通がきかず、物を壊すと説教され、むやみに上官がいばり散し、何をするにも理由と判子が必要な不合理さ。軍医にビンタされることも。
捕虜になった時、飢餓と病気のため米兵に背負われた看護婦を見て、日本兵が怒りだし「大和撫子の名を汚すな!だらしない格好しないで、髪もきちんとしろ」と威張って命令する歪さに苦笑いした。
日本兵ってどうしてあんな風に意味の無いお仕置きをするんでしょうね?
芸者の修行のシーンでも理不尽な制裁シーンが多かった。
お師匠さんの所での修行で、先輩にお先にどうぞと譲ったせいで遅く帰ると
「何をぐずぐずしていたのよ」と怒られる。
「姐さん方が大勢いたので」と言い訳すると「帰ってくるんだよ、そういう時は」
で、「あとで来ます」と帰ってくるとお稽古が夕方になる。
でも夕方になると姐さんの手伝いがあるから出られない。そうすると「何さぼってんのよ」と怒られる。
だから次のお稽古場で「いいでしょ、先にやっても」と姐さんに言われた時に断ると、あの子は生意気だと言われる。


病院は攻撃してはならないという国際間の条約があるが、それは机上の約束事にしか過ぎなかった。
戦争が激しくなると赤十字マークをつけた病院船で兵隊を運ぶというようなことを各国ともやっていたのだから、これまた当然だとも言えた。
ソ連に抑留された時の話など悲惨そのもの。
しかし今ではこれらの苦労をどこか遠くの世界の話になってしまっている。
「なんのために苦労したのだろうか。今の若い人たちの生活や考え方は、自分たちの過ごした若い時代をあまりにも違いすぎる。」P226

終わり。

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