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高遠城と高遠藩コミュの山本勘助と高遠城

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 父武田信虎を追放して、甲斐の国主になった武田信玄は築城術に長けた人材を切望していました。


 勘助もまた今川家への仕官が叶わず、仕えるべき国主を探し、旅を続けていました。


 そこで信濃諏訪への侵攻を前に「築城に詳しい大剛の武士がいる。」といううわさを聞きつけた武田家家臣板垣信方の紹介によって召抱えられたのが山本勘助です。1543年【天文12年】勘助50歳のときでした。
(余談ですが、大河ドラマの内野さんのような若武者のイメージではなかったようです。奇しくもこの年、種子島に鉄砲が伝来しています。)


 やがて武田信玄は諏訪頼重を自害に追い込み、諏訪地方を手中に納めると、1545年【天文14年】に高遠家当主高遠頼継を降伏させ、伊那地方と高遠城を手に入れました。


 そこで伊那経営の重要な基盤である高遠城の修復を命じられたのが、山本勘助でした。時に勘助52歳のときです。

 高遠城は遠江や三河へ通じる交通上の重要な基盤でもあり、周囲を山と川に囲まれた天然の要害でもありました。


 高遠城には天守はありませんでした。防御の為に土塁と空堀を設けた半円形の小区画を用いたつくりになっています。
 これを「丸馬出」(まるうまだし)といい、勘助が普請した城に多く用いられている築城術です。

 先ず丘の頂上に本丸を設けて、その北側に二の丸、更に北側に半円で180度囲むように、三の丸を設けていて、「城郭三段構え」のつくりになっています。
 
 本丸の南東側に南郭(みなみくるわ)、更にその南に法憧院郭(ほうどういんくるわ)という二つの郭を配置しています。
南側は崖と三峰川という天然の要塞が敵の行く手を遮るつくりになっています。

 さらに本丸の西側には、守備を補うために、東西約60m、南北約50mの勘助郭を設置するという工夫がなされていました。

 「箕輪記」と呼ばれる歴史書によると、城普請の際、勘助は三の丸の普請小屋に寝泊りし、築城を見守ったといわれています。

コメント(9)

NHK大河ドラマ「風林火山」でもしかしたら…高遠城の城普請をしている山本勘助のワンシーンが見られるかもしれませんね。
軍師として名高い勘助ではありますが、実際には築城の手腕を買われて、武田家に仕官し、技術者としての役割の方が大きかったといわれています。

身分的にも足軽大将にすぎず、勘助が軍師としてのイメージが定着するのは、江戸時代になってから軍記物や浄瑠璃の世界で、取り上げられてからだといわれています。
ちなみに山本勘助が築城術について手本とした人物が、江戸城、岩槻城はじめ関東に多く城を築いた太田道灌であるといわれています。

高坂弾正忠昌信が記した武田家の歴史書「甲陽軍艦」の中で、勘助が武田信玄に意見を述べる場面がありますが、「関東においては道潅流が主流であるが、詳しく知っている者は少なくなってきている。」と述べていて、太田道灌の優れた築城の技が忘れ去られようとしている様子がうかがえます。

信玄の命によって、勘助は軍法、築城の極意を武田二十四将の一人、馬場信春に伝授したということです。
太田道灌についてもっと詳しく知りたい方は、こちらのコミュがお勧めです。

「太田道灌」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=730705
財団法人日本城郭協会が選定した「日本100名城」の中に長野県からは、松代城(海津城)、上田城、小諸城、松本城、高遠城の5城が選定されています。

このうち上田城を除く4城の築城または改修に山本勘助が関わっています。

【参考】「日本100名城」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~nihonjokaku/

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