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小説・評論:孤城忍太郎の世界コミュの藝術への手懸り

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 以前の事だが、同人誌の仲間だつたある人から、

 「書きたい事は、書かない」

 といふ事を言つてゐた事があつて、それは芭蕉の、

 「言ひおほせてなにかある」

 といふ言葉を髣髴(はうふつ)とさせるが、この言葉は誤解の生じ易い表現で、それをしなければならないのは、主題(テエマ)の事であり、決して文體(ぶんたい)の事ではない、とつけ加へなければならないだらう。
 さうでないと、ものを書きたいと志した人が、書かなければならない事までも、書かずに濟ませてしまふ事になると思ふから……。


 その顯著(けんちよ)な例が、

 「背中で演技する」

 といふ表現に見られ、これは演技の技術(テクニツク)といふものであつて、作品の主題とは無關係ではないが、斷じてそのものではないと言へるので、

 「文學を背中で書く」

 とは文體論(ぶんたいろん)である事は、論を俟(ま)つまでもないだらう。


 そこで、文體の事は。

 「書かなければならない事は、書く可きだ」

 といふだけに留めたいのだが、しからば、主題を扱ふにはどうすれば良いかといふに、元禄の頃の土佐光起(とさみつおき・1617−1691)といふ畫家(ぐわか)が、

 『本朝(ほんてう)畫法(ぐわはふ)大傳(だいでん)』

 といふ書物で、

 「畫(ゑ)を描(ゑが)くに墨畫(すみゑ)許(ばか)りに依(よ)らず極綵色(ごくさいしき)なりとも、大方(おほかた)あつさりと描き、模様調はさるがよし。添物(そへもの)も三分の一ほど描きたるがよし。詩歌の心を描くとも皆(みな)出す可からず、思ひ入れを含ます可し。白紙も模様の内なれば、心にてふさぐ可し。異國の繪は文の如し。本朝の畫は詩の如し」

 といふ事を記したが、この、

 「心を描くとも皆出す可からず、思ひ入れを含ます可し」

 といふ箇所が、主題と表現手段を解く鍵になると思ふ。


 また、これは、

 『虚實(きよじつ)』

 といふ事でも、舊(ふる)くから論じられて來た事で、二条良基(にじようよしもと・1320−1388)の、

 『十門最秘抄(じふもんさいひせう?)』

 に詩も散文も(筆者註)、

 「花實(くわじつ)揃ひたるを良しと申し、花あれど實(み)なきはわろし。又實あるとも花なきはわろし」

 といふ文があるが、これこそが廣義(くわうぎ)の、

 『虚實』

 といふ事であらう。


 その意味では、日記やそれに類する紀行文・隨筆などは、花の咲かない無花果(いちじく)であり、その中でも優れた文學作品になり得たものは、無花果以外の草木(さうもく)だつたからで、作者の力不足で無花果のやうに見えただけではなからうか。


 もつと解り易くいふと、主題とは、書きたいと思つた事柄ではあるが、何故ご飯を食べたいと思つたかといふと、腹が減つたからではあるものの、

 「腹が減つたから、ご飯を食べた」

 と書いたのでは、ご飯を食べた動機を述べただけで、作者の書く可き主題は、なかつたも等しいといふ事である。


 人間は、何故腹が減り、ご飯を食べるのか。
さうして、それが滿たされるといふ事は、他の事とどう違ひ、また通ずるのかを、作中の登場人物などに象徴的表現を託して作品化する行爲(かうゐ)を、文學化(藝術全般に言へる事)するといふのであるから、主題のある作品を書きたいと思ふならば、

 「書きたい事がなければ、書くな」

 あるいは、

 「書きたい事を、見つけてから書け」


 といふ事になり、藝術行爲をする以前の作者の状態は、哲學者の卵であると言へるだらう。
 結局、主題のある作品を書く爲には、常に問題意識を持つ外はない。

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