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小説・評論:孤城忍太郎の世界コミュの二十三、『かなづかい入門』を讀んで 第八囘 『攝取本』より

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 この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは自作(オリジナル)の

 『Motion1絃樂器(Strings)』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
 映像は鳥取懸にある、

 『三朝温泉』

 へ出かけた時のものです。
 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。





     二十三、『かなづかい入門』を讀んで 『攝取本』より

        第八囘


 第五章で作者の述べた『歴史的假名遣』に對して與(あた)へられた、

 「惡魔の規範」

 といふ言葉は、その儘、

 『字音仮名遣』

 にも同じやうに扱はれてゐるが、それは同等といふよりも、寧ろ過酷なまでにその烙印がこの假名遣に押されてゐるやうに感ぜられ、それを氏は、
 
 「「字音仮名遣」とは、日本語のなかにある漢字音を仮名でどのように表記するかいう、やはり規範仮名遣のひとつである。当然、対象は漢字・漢語になる。漢字音表記の問題は、本来が和語(やまとことば)に適用するための基準である定家仮名遣や契沖仮名遣とは異なったフィールドにあるべきものだった。『下官集』『和字正濫鈔』収録語彙に少数の漢語が含まれるが、定家や契沖に弁別の意識がうすかったか、和語化したものであったかと思はれる(112頁)」

 と述べてゐるが、それは和歌特に短歌が今日のやうに和語や漢語が入混じつて詠まれてはゐず、定家や契沖が大和言葉を基本とした和歌を表記する爲だつたのだから、漢語である音讀みの表記が少ないのも當然(たうぜん)の歸結(きけつ)ではなからうか。


 特に江戸時代に本居宣長が定めた『歴史的字音假名遣』である所謂(いはゆる)『字音假名遣』は、を定めたが、その彼が「漢意(からごころ・唐心の意)」を斥けようとしてゐたのは皮肉な話で、日本古來の謀(はかりごと)を加へずありのままを尊ぶ素直な態度に對して、中國文明に特徴的だと宣長の考へた、虚飾によつて飾りたてたり、理屈によつて事象を正當化したり、また不都合な事を糊塗したりするやうな計らいの多い態度を指して、

 「漢意は潔く捨てなければならない」

 といふやうな事を述べたと記憶してゐるが、その本居宣長が、

 『しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花』

 と六十一歳の時の自畫自讃像に讃として書かれてゐるのをみても、國醉者でもない筆者にはその足元にも及びさうもないやうな拘(こだわ)りが解らうといふものである。


 さうであるならば、

 「歴史的仮名遣のなかで生活していた時代のひとたちにとって、この字音仮名遣ほど厄介なものはなかった。国語仮名遣のほうは、もちろん紛らわしいものもおおいが、慣れてくれば感覚的に身につくところがある。ところが、字音仮名遣はそうはいかない。日本人にとって、漢字は無数にある。その無数の漢字一字につき固有の漢字音があって、固有の漢字音はさらに呉音・漢音・唐宋音・慣用音と数種類。これらの歴史的仮名遣の仮名のつかい分けをそらで覚えることなど、普通の日本人には不可能である。パターンがあって、パターンさえわかれば簡單というかもしれないが、パターンがわかるまで勉強すれば、とっくに漢字学者になっている。普通の人はそんなに暇人ではない(113頁)」

 といふやうな事を書いて向學心を殺(そ)ぐやうなもの言ひは控へるべきではないか。


 多くの人は漢學者になる爲に生きてゐる譯でないのは勿論だが、だからといつて現代假名遣に比べて歴史的假名遣の方が普通に生活するのには難しく、苦痛でさへあると考へるのは早計であるやうに思はれる。
 何故なら、すでに述べたやうに一九四六(昭和二十一)年三月に米國から教育使節團が來日して視察した結果が示すやうに、歴史的假名遣において當時(たうじ)の日本人の識字率が世界にも誇れるやうな水準に達してゐたからである。
 さうして、何よりも現代假名遣が普通に使はれるやうになつた今でも、筆者の妻や長女がそれほど苦も無くこの文章を讀むからである。


 そればかりでなく、歴史的假名遣が難しいからと制定された筈の現代假名遣において、目にする文章に間違ひが多いのはどういふ譯か。
 歴史的假名遣に誤りがあるのはその意味では已むを得ないのだらうが、あれほど書き易い筈の現代假名遣にも間違ひが頻發してしまふなんて皮肉な事である。
 これは、いづれにしてもエクリチユウル(書き言葉)が難しいものといふ事の證明ではないのか。
 箸の正しい持ち方があつても、幼い時に教へられないと大人になつてからも自己流で箸を操つてしまひ勝ちであるが、見た目にも美しく小さなものでも樂(らく)につまめるといふ持ち方を學ぶべきで、箸の持ち方は食べられればそれで構はないといふやうなものではない。
 それはヴアイオリンやピアノ、或いはギタアなどの運弓法や運指法にもいへる事で、人は易きに附く方を選ぶものであるから、先生に習つて學ぶといふ事をするのである。


 であるならば、

 「後世の言葉を古代語で表記する不自然さ(118頁)」

 といふやうな表現で、歴史的な語意識を分斷するやうな現代假名遣を擁護するのは、言葉を亂(みだ)す最大の要因になるのではないか。
 その意味では、歴史的假名遣の惡名を高める爲に「字音假名遣」の扱ひ難(にく)いといふ不備を衝いて、表音式表記による現代假名遣の手柄とするのは、國語の正書法(Orthography・オオソグラフイイ) といふ事を無視した、易きに附くといふ事に外ならないやうに思はれる。


 その字音假名遣について、

 「歴史的仮名遣は、契沖仮名遣を引き継いでいるといいながら、契沖仮名遣とは異質のものが付属していたことになる。一緒になっても、異質であることは解消されない。だから、和語の仮名遣のほうは「国語仮名遣」と称して、字音仮名遣と区別した(123頁)」

 と著者の白石氏はいふが、歴史的假名遣が訓(和語)讀みに對するのに比べ、字音は音(漢語)讀みに對する假名遣であるのだから、「異質であること」は當り前の話である。


 諄(くど)いやうだが普通の日本人ならば誰でもが知つてゐる事で、漢字には大和言葉を表現する爲の訓讀みがあり、それとは違つて中國語としての元來の音讀みがあつて、それを『字音假名遣』といふのであるが、大和言葉である訓讀みと違つて、漢音である音讀みは外來語音だから、その大元の中國の音に從つて表記する事を指すのである。
 さうして、その事の煩雜さを避ける爲に現代語音に基づく表記にしようとしたのが現代假名遣であるが、大和言葉は日本の發音で表記し、中國語の漢字の音讀みはその國の音に從ふといふこれの何處が不都合なのか。


 それは日本語音と外來語である中國語音とを比較するのと同じやうに、日本語と英語を片假名表記した時の事を考へれば解り易いのではないか。
 例へば、

 「violin」

 を片假名で「バイオリン」とアルフアベツトの「B」の時の表記ではなく、「V」の場合の「ヴアイオリン」と書き表はさうとする規則(ルウル)の事である。
 かういふ元の英語の綴字法(スペル)まで諒解出來る表記を、態々(わざわざ)解り易いからと「バイオリン」と書く事を薦めて、「ヴアイオリン」と表記する事を無駄だといふのだらうか。


 事はそれだけではない。
 少し長くなるが大事な箇所なので引用すれば、著者は歴史的假名遣から現代假名遣に變はつてから便利になつた事があると言つて、次のやうに述べる。

 「原則的発音主義の表記法が当たり前となった今日、現代人がほとんどその恩恵を実感していないことがある。それは、ことばの配列に頭を悩ませなくてもよくなったことである。(146頁)」

 としてその理由を、

 「いろは順にしろあいうえお順にしろ、旧仮名遣の表記でそれをやられると、すこぶる非能率を感じさせられる。嘘だと思うなら、近代的国語辞書の嚆矢といわれる『言海』を使ってみることをお勧めする。さらに図書館の参考室にある、戦前につくられた各種索引類をめくってみるといい。索引類は『言海』のような国語辞典以上に字音語の宝庫である。必要あってそれらをよく使うわたしは、このとき、前章でいったような、字音仮名遣が日本人にとって悪魔の仮名遣であったのだという事実をあらためて実感する(146頁)」

 と、どうしても「惡魔」扱ひにしたいらしい。


 細かい事をいふやうだが、歴史的假名遣と言はずに「旧仮名遣(舊假名遣)」といふ表現に蔑(さげす)みの視點がある事が氣になるが、それは措くとしても、

 「わたしの経験でいえば、戦前の多くの索引類(古事類苑・広文庫・日本随筆索引・帝国図書館蔵書目録・国書解題など)の配列が歴史的仮名遣によっている。このような言い方をすると、不審に思うひとがいるかもしれない。戦前に歴史的仮名遣以外の配列などありうるのか、ありえたのか、と。じつは索引類とはちがって、戦前、とくに昭和期の国語辞典の世界では、さきの『言海』の増補版『大言海』などが少数の例外で、表音式見出しの配列のほうが主流だったのである(146〜7頁)」

 といふやうに、辭典(じてん)を引く時の表音式見出しの利便性を述べてゐる。


 續けて、

 「索引と国語辞典のこの違いはどこから来たのか。つぎのような事情が想像される。つまり、各種索引類の作成者はふつう、その道の専門家であっても、言葉の専門家ではない。だから語の配列にも、時代の標準的表記(すなわち歴史的仮名遣)を逸脱するだけの専門家である。かれらは、歴史的仮名遣が辞書を引くという機能にはなはだしく不向きなものであることを専門的見地から知っていた。表音的配列がなんら学問的欠陥にならないことを、これも専門的見地から知っていた。表音式配列にする行為は、言葉の非専門家にとっては蛮勇であったが、言葉の専門家にとっては至極合理的なことだったのである(147頁)」

 かう言はれたからといつて現在の發音が將來的に少し變はつただけで、その辭書(じしよ)が新しい言葉を引けなくなるのは古い辭典と同じ事になつてしまふのであるから、專門家にとつて合理的だといふ解釋(かいしやく)は納得出來る譯のものではない。


 その上、歴史的假名遣の使ひ勝手の惡さをこれでもかと述べて、

 「歴史的仮名遣の配列が使いにくいものだというのは、歴史的仮名遣をわすれた現代人だけの話ではなく、当の歴史的仮名遣の世界で生活していたひとたちにとっても、じつに使い勝手の悪いものだった。専門家はその桎梏から自由であったが、一般の日本人がそこから解放されるには、「現代かなづかい」の出番を待たなければならなかった(147頁)」

 と言つてゐるが、ここまで見開きの二頁近くも引用したが、これは

 辞書の索引方法をかへるだけで濟む筈で、敢て歴史的假名遣から現代假名遣に變へる必要はなかつたのではないか。


 何故なら、英語でも

 「ナイフ(knife)」

 といふ言葉を英語の辭書で調べる時に、音で聞いた時にアルフアベツト(alphabet)で、

 「N」

 の項目を引いてしまふだらうから、

 「K」

 を省けば便利だといふに等しく、それならば「N」の項目に「knife」であると孫引きの補足を示し、「K」の項目を見れば理解出來るやうにすれば濟む話で、スペルや假名遣は特例を極力避けるべきではないか。


 この「knife(ナイフ)」の「k」は發音しないが、實は以前は發音されてゐて、英國で初めて印刷機が導入されて出版物が刊冠された時、當時(たうじ)英語には五つの方言があり、正式な英語という認識はなかつたので、ある地域の方言の本は他の地域の方言に翻訳されて讀まれてゐたといふ事で、その不便を解消する方法として出版業者のある人が、倫敦で話されてゐた方言とスペルを使うと決められ、そのままその地が出版業の中心となり、それが標準の英語として認識されるようになうたといふ。


 所が好事魔多し、言語の常として日本語と同じやうに英語にもその時代のスペルがそのまま現代まで殘つたにも拘らず、發音は變り續けて現代の發音しない文字となつた譯で、パロオル(話し言葉)とエクリチユウル(書き言葉)の乖離が生じてしまつたのである。
 だからと言つて、それらの文字を調べるのが不便だからと、

 「nife」

 このやうに英語の綴字法(スペル)を辞書を引く利便性を追求する爲に變化(へんくわ)させたりはしないのである。
 再度いふが、日本語においても辞書の索引方法をかへるだけで、敢て歴史的假名遣から現代假名遣に變へる必要が本當にあつたのか。



     二〇一四年三月十二日午後三時過ぎ 店の二階で休養中に




     初めからどうぞ

一、戸川幸雄著『ヒトはなぜ助平になったか』  『摂取本(セツシボン)』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4699373&id=50785782


二十二、谷崎潤一郎の『陰翳禮讃』を讀んで 『摂取本(セツシボン)』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4699373&id=69804160

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