ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

栃木県の廃線コミュの宇都宮石材軌道

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
旧帝国ホテルなどに使われた大谷石。
その大谷石を運ぶため、開業・未成・不認可を問わず、
宇都宮、大谷、鹿沼地区に数多くの大谷石等の石材運搬を主目的とした鉄軌道が、
建設され広大な大谷石運搬のネットワークを構築するにいたりました。
また、その需要から様々な鉄道計画も後を立ちませんでした。
その中で、大谷石運搬軌道を大きく分けると3つに分類されます。
宇都宮石材軌道、東武大谷線、そして鹿沼駅からの大谷石運搬専用軌道です。
その中で、宇都宮石材軌道を紹介します。

宇都宮軌道運輸会社が明治30年(1897年)に西原町−荒針間に敷設したのが始まりです。
その後、明治31年(1898年)に荒針−立岩・弁天山間を延長し、
明治36年(1903年)に西原町−材木町間を延長しました。
明治35年(1902年)には宇都宮石材合資会社を買収、採掘・輸送の一体経営に入りました。
更に明治36年(1903年)、西原町−鶴田間を延長し日光線の鶴田駅に接続しました。

一方、野州人車軌道は、明治32年(1899年)2月17日に開通した軌道線です。
当初、新里地区で取れる花崗岩運搬を目的として施設されましたが、
沿線住民の要請に応え、旅客輸送も開始しました。
明治36年(1903年)、仁良塚付近から分岐し徳次郎地区への延長も行われまsした。
そして明治39年(1906年)、宇都宮軌道運輸が野州人車鉄道を吸収合併、
社名を宇都宮石材軌道株式会社と改称し、両軌道を接続して人車軌道網を構築しました。

その後、昭和6年に東武鉄道の宇都宮進出と共にこれらの路線は吸収合併され、
東武への接続移行理由で鶴田手前で分岐し西川田への区間が建設されました。
人車軌道各路線は、旅客も乗り合いバスの台頭で次々と路線廃止を余儀なくされ、
昭和27年には姿を消し、昭和39年に輸送の主力がトラックに移行すると、
軌道はその役割を終え、全て廃止されてしまいました。


左画像:鶴田駅
明治39年に延長し、西原町(現:桜二丁目付近)から接続された路線の終点。
ここから途中までは、専売公社の路線跡のトピと重複します。

中画像:路線跡

右画像:建物の間が路線跡

コメント(30)

左画像:道路を越えた先が路線跡

中画像:なかよし通りモニュメント
握手を表しています。

右画像:路線跡
整備された遊歩道になっています。
左画像:いくつもの横道をクロス

中画像:鹿沼街道をクロス

右画像:踏み切り跡
西原町までの区間、唯一残る遺構になりますが、
これは専売公社専用線になってから設置されたものと思われます。
左画像:路線跡
きれいにまっすぐに延びていますね。

中画像:緩やかな左カーブ
このカーブは専売公社専用線になってから、左方向にある専売公社へ鉄道を敷くため、
左へカーブさせたもので、宇都宮石材軌道は西原町まで真っ直ぐ敷いたため、
この画像で見ると、正面の建物へと鉄道が延びていた事になります。
専売公社専用線トピで清原人さんが載せてくれた画像と現地図を見比べ確認しました。

右画像:幸町交差点
左手前から信号の先右へ斜めに横切る形で敷かれていました。
当初は、何かで滝谷町交差点に鉄道が横切っていたという文を見た事があり、
この路線がそうかなと思っていましたが、上記と同じく清原人さんの画像により、
幸町交差点であると確認する事ができました。
左画像:昭和通りとのクロス地点
この道は当時もあり、クロスしていた地点です。
ただ、当時はここまで広くなかったと思われます。

中画像:住吉町の路線跡
撮影立ち位置から延びてきた路線は、この先は道なりに真っ直ぐ伸びており、
この地点から突き当たりまでは路線跡を利用したのかもしれません。

右画像:突き当たり
この「文化園」を突っ切って路線が敷かれていました。
左画像:睦町交差点より東側の地点
ちょうど道が少し広くなっている地点を横切っていました。
昔からこの道は、この地点から少し広くなっていたようですね。

中画像:桜小学校
清原人さんの画像でも分かる通り、当時からあった小学校で、
なんと校庭内で分岐していた事が分かります。
右へカーブし材木町へ、真っ直ぐ延び戸祭へ、左へカーブし大谷へ。
校庭内を路線が横切るなんて、当時はどんな感じだったのでしょうか。

右画像:西原町クロス地点
撮影側手前の材木町から奥が大谷方面、左手鶴田から右手戸祭方面の路線のクロス地点。
戸祭へは現在のパーラーマドンナをつっきって戸祭に向かいます。
左画像:桜小学校からの路線合流点
奥の材木町から大谷へ向かう路線と、桜小学校からカーブした路線の合流点。
また、別の資料によると左へカーブし戸祭へと向かう路線も敷かれていたらしく、
こちらも3方向に分岐していた地点という事になります。

中画像:材木町始点
当時からあった裁判所前が材木町始点となります。
ここからまっすぐ大谷街道を大谷へ向かって路線が敷かれていました。

右画像:桜小学校からの路線合流点
信号直前辺りが材木町から大谷へ向かう路線と、桜小学校からカーブした路線の合流点。
よく考えられて路線が敷かれていた事が分かります。
このまま新里方面(途中から野州人車軌道)へと向かって行きます。

左画像:宇都宮大学付属小中学校
パーラーマドンナを過ぎると、当時からあった小学校にぶつかります。
小学校の校庭の東の隅をかすめるようにして路線が敷かれていました。
当時からあった2つの小学校の校庭の中に路線を通していた、
これだけで、大谷石の需要がどれほど高かったかが分かる事実だと思います。

中画像:清住通りから新里街道への接続道
清住通りに出ずカーブしてこの道へと路線は続きます。

右画像:松原二丁目交差点
桜通りをクロスし新里街道へと入っていきます。
左画像:戸祭三丁目の分岐点
パーラーマドンナ辺りからこの辺りまでが、
明治39年に宇都宮軌道運輸と野州人車軌道を接続した部分になります。

中画像:靖国通りへ出る地点

右画像:宝木若草交差点
靖国通りに出てすぐある交差点。これを左折し新里へ向かいます。
新里街道は、当時と現在では若干ルートが違っていたようです。
左画像:新里街道
当時と現在とでは、同じルートだったり、ズレていたりします。

中画像:東武鉄道株式会社の管理地があった地点
現在の環状線を超え、現在の新里街道からは東へズレた地点にあります。
以前は、右のアパートから沿って左へ柵に区切られた地点があり、
そこに「東武鉄道株式会社」の立て看板がありましたが、
現在は、介護施設の建物が建ち、その跡地は無くなりました。

右画像:再び新里街道に合流
この辺りに右から合流し、また新里街道に路線が敷かれていたらしいです。
左画像:新里街道分岐点
この辺りから、路線が徳次郎へ分岐していったと思われます。

中画像:徳次郎付近
この辺りに、路線がきていたと思われます。
実は、大谷地区だけではなく徳次郎地区も大谷石と同様の良質の石が採れ、
こちらにも路線を敷く必要があったらしいです。

右画像:信号を左斜めへ進む
新里街道の旧道は左斜め方面です。
真っ直ぐは高速道路が出来るため作られたバイパスです。
左画像:旧新里街道
高速道路が出来たためにさえぎられた新里街道。
高速道路の上に掛かるのが新・新里街道のバイパス。

中画像:新・新里街道
高速道路をオーバークロス。

右画像:高速道路を越えた地点
ここから右へゆるくカーブしていきますが、ここも真っ直ぐ延びていたらしいです。
左画像:新里に近くなった地点
この地点は、ろまんちっく村を出てすぐにある柵に囲まれた、
東武鉄道株式会社管理地の横を抜け、路線跡を走っていくと分かりやすいです。
この田んぼの間のあぜ道が路線跡で、この先に大谷石で出来た橋台跡があります。

中画像:藪の中にひっそりとある橋台
大谷石で出来ており、少し崩れかかっています。

右画像:川中から撮影
幸い水が流れていなかったので、川中に入り撮影する事が出来ました。
だいぶ時間が経っているせいか、崩れかかっています。
左画像:柵に囲まれた東武鉄道株式会社の管理地
大谷石の橋台跡の南側にあります。
新里街道のルートからはズレていますが、
路線には石切り場への支線が存在していたとのことなので、
途中から分岐し、本線とは違う石切り場へ向かっていたのかもしれません。

中画像:東武鉄道株式会社の立て看板

右画像:先にある大谷石で出来た碑
これは明治37年2月に起きた日露戦争のための碑らしいです。
日付と日露の文字は確認する事ができました。
左画像:橋台跡へ続く路線跡
仁良塚方面を望む。路線沿いの家の塀は大谷石です。
そういえば元今泉に住んでいた時、ウチの塀はこの様に大谷石でしたね。
そして、向いの家も、斜向いの家も、塀は大谷石でした。
それだけに、当たり前のようにあった大谷石。
子供の頃は、それを切り出し運ぶ大変さを考えた事もありませんでした。

中画像:橋台跡へ続く路線跡2
仁良塚方面を望む。竹林などがあり情緒漂う路線跡です。

右画像:ゴミ集積場の土台
こんなところにも大谷石。
左画像:東武鉄道株式会社の管理地2
柵に囲まれた細長い管理地がみてとれます。
ろまんちっく村の裏出口から出て新里街道を宇都宮方面へ少し走ると右側に見えます。
何度か通った事があるのですが、当時はまだ興味が無かったので気づきませんでした。

中画像:東武鉄道株式会社の立て看板2

右画像:東武鉄道株式会社の管理地から先を望む
真正面に山が見えますが、その方面へ延びています。
この先には、ろまんちっく村があり、そこを突っ切ってその先まで延びていました。
すぐ目の前の家の蔵も大谷石造りです。
左画像:ろまんちっく村
正面看板、これも大谷石。今まで気にも止めていませんでした。
ここで大谷石が取れた場である事を主張していますね。

右画像:ろまんちっく村の先
この地点より少し南側に路線が続いていたと思われますが、
今はどこに敷かれていたのか不明です。
西原町まで戻り、大谷を目指してみましょう。

左画像:桜二丁目交差点
大谷街道を進んでいきます。

中画像:桜通りを越えた地点
この道に路線が敷かれていたなんて思ってもいませんでした。

右画像:我が母校の横も通ります
信号の左が我が母校ですが、この調査のため通るとは思ってもみませんでした。
左画像:環状線とのクロス地点

中画像:分岐地点付近
真っ直ぐ行くと大谷方面ですが、右へ分岐し立岩方面へ向かう。
左手から東武大谷線がきて、大谷へ向かう路線が延びます。
ある報告では、分岐部分がこの東武大谷線のものだとありましたが、
明治31年に立岩への延長が示されていますので、こちらに載せます。

右画像:分岐地点
右にポールがある部分から、立岩方面へ向かいます。
なぜポールがあるかというと・・・
左画像:注意立て看板
そうなんです、通学路として使われているため車両の進入を防ぐためです。
調査時も、ちょうど下校時間で中学生たちが通行していました。

中画像:路線跡
細いながらも舗装されている部分が多いです。

右画像:東武鉄道株式会社 社有地
ときどき建っている立て看板。この辺りには3本立っていました。
左画像:柵に区切られた路線跡
通学路や犬との散歩道に利用されています。

中画像:たまにあるポール
ところどころの真ん中にポールが埋められ、車両の進入を阻んでいます。

右画像:柵
公園の奥にある地点。
路線があった時の名残か、この辺りに東武鉄道株式会社の社有地があるのか、
この辺りには柵に囲まれた部分がありました。
左画像:車道とのクロス地点
この先は柵が両端にあり細くなり、車はギリギリ通れる幅になっています。

中画像:立岩神社
神社の名前も大谷石製、鳥居も大谷石製、本堂も大谷石製、
そして祭られている(?)大きな岩も、もちろん大谷石です。

右画像:路線跡
右側にあるのは作業場跡らしいです。この路線沿いには、集積場や作業場跡が、
ところどころに見られ、盛っていた事が分かります。
左画像:終点は近い
路線跡、この先公園がありそこが終点部らしいです。

中画像:立岩公園
この地点が立岩駅があった地点という事です。
ここから大谷石をトロッコに載せ、宇都宮や鶴田駅まで押して運んだ事を考えると、
歩くだけでも大変な距離ですから、気が遠くなるほどの距離ですね。

右画像:東武鉄道株式会社 社有地
最後も立て看板がありました。
左画像:立岩への分岐地点に戻ります。
今度は大谷方面へ進みます。

中画像:大谷街道
もうすぐ大谷石採掘地区になります。

右画像:大谷交差点
ローソン看板がある信号を右折すると、大谷石採掘地区です。
左画像:大きな石材屋
この地区になると、石材屋も大きいのが目立つようになります。
この石材屋のすぐ横は大谷石の塊です。

中画像:大谷石材センター入り口

右画像:廃墟
大谷石のところに建物が建てられていましたが、今は廃墟です。
近くには岩風呂という文字が見て取れる建物もあったらしく、
当時はかなり盛っていたんだと思います。


この先にも路線は続いておりましたが、この辺でやめておきます。
改めて大谷に訪れて思った事は、足尾に訪れたときの事を思い出しました。
地元で取れたモノ(石や鉱物)により、日本を代表する産地として隆盛を誇り、
縦横無尽に鉄道が敷かれていたが、今は昔話となっていて、廃墟が所々に見られるのです。
県内では、あと葛生が同じような印象がありますね。
といいつつ・・・w

左画像:廃墟の先
分岐点。真っ直ぐ行くと大谷観音ですが、立岩方向となると左折です。

中画像:いかにも廃線跡らしい小道
この細さ、真っ直ぐ伸びた道、いかにもという感じで好きです。

右画像:小道を抜けた地点
もうそこは大谷石の山が連なる地点に入っています。
ところどころに採掘跡が見受けられます。
現在もどこかでは採掘しているらしいのですが・・・
道路沿いに見られる掘削した跡の一部です。

左画像:掘削跡
手彫りで掘削された跡です。真ん中に何かが貼られている跡があります。
もしかしたら、掘削した跡だという事を示していた説明版だったのかもしれません。
撮影で立った場所まで、もしくはそれより裏まで大谷石の山があったのでしょうか。

中画像:大谷石の洞窟の中に、掘削された大谷石
奥から掘削されたものが並べられたのでしょうか。
今では作業がされていないようで、放置されています。

右画像:通路のように削られた跡
ちょうど人が一人歩ける幅で道のように削られています。
もしかしたら、掘削した大谷石を運び手が背に負って運ぶ際にの通路だったのでしょうか。
左画像:立岩方面へ向かいます
まだ奥へと続いていたようです。

中画像:途中の横道
途中、途中に横道があります。
石切り場ごとへの支線があったようですので、
この奥にも路線は続いていたのでしょうか。

右画像:立岩停留所
宇都宮から来たバスは、ここでUターンします。
ここに立岩駅があったのでしょうか。
先ほどの立岩駅とは山を挟んで逆側になるかと思われます。
大谷資料館に展示されている、大谷石を運ぶトロッコです。

左画像:大谷石を運ぶトロッコ
1本70kg程度の大谷石を20〜24本乗せて、運んだようです。
二人がかりで押して宇都宮市内まで10km前後の距離を運んでいました。

中画像:トロッコ下部

右画像:大谷石の運輸の説明
開通した1897年から1915年の蒸気機関車になるまで、人力で輸送していました。
路線ルート図

左:宇都宮石材軌道

右:大谷石材軌道3線
赤:大谷ー鹿沼間石材軌道
水色:東武鉄道大谷線
緑:宇都宮石材軌道

ログインすると、残り1件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

栃木県の廃線 更新情報

栃木県の廃線のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング