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ゴスペルハウスコミュの「季節ではなかったけど、期待していた」2026.07.04

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ゴスペルハウスメッセージ 2026.07.04
「季節ではなかったけど、期待していた」マルコ11:12-21

12 翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。
14 するとイエスは、その木に向かって言われた。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。
15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
16 また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。
17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」
18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。
19 夕方になると、イエスと弟子たちは都の外に出て行った。
20 さて、朝早く、彼らが通りがかりにいちじくの木を見ると、それは根元から枯れていた。
21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。」

「いちじくの木」と「宮きよめ」の場面が、今日の聖書箇所です。
ここから、「季節ではなかったけど、期待していた」というテーマで御言葉を開いていきましょう。

「翌日」(12節)とは、エルサレム入城の翌日のことです。
イエスさまがエルサレムに入城するとき、人々は熱狂してイエスさまを迎えました。
彼らの願いは、「ローマの支配からの解放」、「武力によって自由と独立をもたらすリーダー」でした。
つまり、自分たちが作り出した、自分たちのための願いです。

イエスさまが何を考えているのか、子ろばに乗っていることにどんな意味があるのか、彼らは全く理解できませんでした。
イエスさまの思いと群衆の思いが、すれ違ったままの熱狂だったのです。
その日の夕方、イエスさまはベタニアへ行きました。

その翌日のことです。
朝、ベタニアを出てエルサレムへ向かったイエスさまは、空腹を覚えていました。
いちじくの木を見つけて近づくと、葉は青々と茂っていましたが、実は一つもありませんでした。

そこでイエスさまは、
「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」(14節)と言いました。
すると翌日、そのいちじくの木は根元から枯れていました(20節)。
マタイの福音書の並行箇所では、「すると、たちまちいちじくの木は枯れた。」(マタイ21:19)と記されています。

さて、私の父は、とても温和で優しく、知的で、しかもユニークな、本当に良い父親です。
お酒を飲んでも絡むことも、暴れることも、つぶれることもありません。
けれども、父は、空腹だけは苦手でした。
それは戦中生まれということも理由の一つかもしれません。
父が空腹だった時、母と何かの口論になって、私の目の前をフライパンが飛んでいったのを一度だけ見た記憶があります。

この聖書箇所を初めて読んだ時、「イエスさまも、父と同じように、空腹だと我慢できないのかな」と思いました。
「いちじくのなる季節ではなかった」(13節)と書かれているのに、イエスさまがその木を枯らしたからです。

しかし、イエスさまの行動の本当の意味は、空腹による感情の爆発ではありません。
確かにイエスさまは空腹でした。
しかし、それで腹を立てたのではありません。
イエスさまは、実のなる季節ではないので実がないことを知っていました。
それでも、期待していたのです。
季節ではなかったけど、期待していたのです。
あるはずのないところに実る、いちじくの実を期待していたのです。

聖書では、いちじくはイスラエルの民の象徴として用いられています。
前日、エルサレムにイエスさまが入城した時、人々は熱狂しました。
それは、まるで葉が生い茂ったいちじくの木のようでした。
にぎやかで、力強く、勢いがあります。
けれども、彼らの心の中には、自分勝手な、自分の都合の願いしかありませんでした。
神様の御心も、イエスさまの思いも、そこにはなかったのです。

「だれか一人でも、そのような人がいてほしい。」
イエスさまも、そのように願っていたことでしょう。
しかし、このいちじくの木と同じように、熱狂するイスラエルの民の中には、実は一つもなかったのです。

もし、だれか一人でも正しい人がいたのなら、神様の御心にかなう人がいたのなら、その人を通してエルサレムも、ユダヤ全土も、イスラエルも、そして全世界も救われたはずでした。
しかし、現実には一人もいませんでした。
いるはずのないところには、やはり、いなかったのです。
季節ではないいちじくの木に実が見つからなかったように。

だからこそ、イエスさまは十字架への道を歩み続けられたのです。
その象徴的な出来事が、宮きよめです。
当時、神殿は乱れていました。
神様への思いも、人への思いも乱れていました。

「両替人」(15節)や「鳩を売る者たち」(同)は、一見すると礼拝に必要な働きをしているように見えます。
しかし、「ささげ物はここで買わなければならない」と限定し、高い手数料を取って利益をむさぼっていたのです。
そして、祭司長たちも、その利益にあずかっていました。

しかも、その悪どい商売は「異邦人の庭」で行われていました。
当時の神殿には、外側から「異邦人の庭」、「婦人の庭」、「イスラエル人の庭」と続き、そのさらに内側に祭壇や聖所がありました。
異邦人の庭は、異邦人が神様を礼拝するために与えられた場所です。
しかし、その場所は悪どい商売によって占領され、異邦人の礼拝の場は奪われてしまっていたのです。

また、「宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった」(16節)とありますが、これは神殿を迂回することを面倒がり、近道として異邦人の庭を通り抜けていた人々のことを指します。

人々は神様への礼拝よりも、自分の都合や利益を優先していました。
イエスさまが引用された「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」(17節)という言葉は、イザヤ書からの引用です。
「わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(イザヤ56:7)

イエスさまが宮をきよめたのは、異邦人の礼拝の場を取り戻すためでした。
神様の宮の本当の意味、本当の礼拝の意味を、もう一度示すためでした。
そのために、イエスさまは大暴れして、宮をきよめたのです。
イエスさまの宮きよめの様子を、ヨハネの福音書ではこう記しています。
「細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し」(ヨハネ2:15)
それほどの熱量で、イエスさまは宮をきよめたのです。

そして何よりも、「もはや動物のささげ物は必要ない。完全ないけにえ、完全なささげ物がここにいる」ということを示したのです。
それは、十字架へと向かうイエスさまの、愛と覚悟の表明でした。
皮肉なことに、この出来事に呼応するように、祭司長たちは「どのようにしてイエスを殺そうか」(18節)と相談し始めます。

季節ではなかったけど、期待していたイエスさまは、その期待に応えられなかった人々のために十字架につきました。
そして今も、イエスさまはあなたに期待しています。
豊かな実、信仰の実を期待しています。
しかし、苦しみの中で、悲しみの中で、怒りや諦め、疲れの中で、十分に実を結べないあなたもいることでしょう。
まさに「季節ではない」状態のあなたです。

でも、どうか覚えていてください。
そんなあなたのために、イエスさまの十字架があったのです。
あなたは、その覚悟の愛の中で生きてよいのです。
「いちじくの木」と「宮きよめ」は、あなたのためのイエスさまの愛のしるしなのです。

葉ばかりが生い茂っているあなたも、
枯れたように力のないあなたも、
小さな実しか結べないあなたも、
たわわに実を結んでいるあなたも、
一人残らずイエスさまの愛に招かれているのです。

期待に応えられないと感じているあなたを、イエスさまは決して見捨てることはありません。
今日も、これからも、いつまでも、その愛は、あなたに注がれ続けるのです。

たとえ実を結べない時があっても、期待に応えられないと感じる時があっても、イエスさまの愛の中を歩んでいきましょう。

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