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ヴィクトール・E・フランクルコミュのフランクルに励まされながら… (雑感など)

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このコミュには、自分が挫折や困難のただ中にある人や、困難にある人を支える中で人生や人間に向き合う人も多いと思います。

そうした人にとって、フランクルは、大いなる励ましと希望と勇気を与えてくれる存在であるということも、きっと共有している方が多いことと思います。他ならぬ私(トピ主)もその一人です。

励まされたこと、思ったこと、感じたこと、などなど、差し障りのない範囲で、自由に書き綴りながら、それぞれの体験や人生を通して、フランクルの思想を味わってみるのはいかがでしょうか、ということで、トピックを立てさせていただきました。

誰の経験も、その人にとってのかけがえの無さがあると思いますし、人と比較せず等身大で気軽にコメントいただけると幸いです。

コメント(17)

トピックを立てた張本人ということで、
まずは自分のことを書かせていただきます。

私は、福祉士(精神保健福祉士・社会福祉士)の
資格ももちつつ、その領域で、実践や研究を
進めていきたいと考えていたのですが、

それ以前から、フランクルの思想に
興味と共感を覚えてきました。

しかし、私はもともとタフではないのか、
精神的に大きな失調をきたしてしまい、
1年近くを棒に振るような生活を余儀なくされました。

自分の心とはいえ、それがここまで、
ままならぬものかとも感じましたし、
実に、惨めで情けない日々でありました。

死を思うことは度々でしたが、父亡き後
一人っ子であるため唯一の家族である母が、
おおらかに理解をもって接してくれましたし、

マイミクさんを始めとする多くの方に支えられながら、
(この点、心ある友に感謝は尽きないのですが、)
先の見えない日々を送っているとき、

不思議な女性が現れては不思議な言葉を残していく夢を
毎晩見るようになり、その頃から、何かに導かれるようにして
明らかに回復を感じるようになりました。

(ここはフランクルのコミュニティなので、
多少憚られますが、ユングの言うところの
「魂」というものの存在を私は
体験を通して実感したように思います。)

今は、福祉の現場で働く段階ではないですが、
学問を少しずつ進めつつ、福祉ということを軸に、
自分の体験ももとに、人間や社会への理解を深めつつ
自分なりにどう貢献するのか模索しているところです。

ミクシィにはほとんど毎日日記をつけていますが、
今日は、フランクルの考えを自分なりに味わいながら、
これからどう生きていこう… と自問自答してみました。

長文・駄文ですが、載せてみようと思います。

(以下が本文の一部です。)


(続く)
(続き (日記本文))


…私のような人間は、バリバリ働くことも勉強することも
ほぼ無理だと思う。

自分との付き合い方を体得しながら、
自分に何ができるか問いながら、それを可能な範囲で
実現していくことが現実的だろうと思う。

福祉の学問や実践に携わるという大きな方向性を
変えるということは今のところないが、

自分の病気・挫折体験は、全く無駄でもない。

というのも、そのことによって、多くの人に支えられている
ということは、体感的に分かったし、
自然と感謝の気持ちも以前にもまして湧くようになった。

それと、もうひとつは、福祉とか援助・支援という言葉には
どうしても、健康な人間が、健康でない人間・障害者などを、
あるいは、富めるものが、貧しいものを、援助・支援する
という印象や観念がつきまといがちだが、

自分が、病気やそれにともなう挫折というものを経て、
自分自身も、生老病死する四苦八苦する一人の人間として、

そして、その意味でどこまでも対等な立場で、
福祉とか、援助・支援というものを考えられる、
というよりも、考えざるを得ない立場に置かれるようになった
ということだ。



私は無理もきかないし、誰かのお世話にならないと
なかなか生活もままならないことも多い
軟弱な人間であるのかもしれない。

それは、誰も好んでそうなろうとは思わないし、
不本意に思うこともあるだろう。

けれど、そういう立場から、福祉や援助・支援
ということを考えるとき、
また、考えつつ、この自分が何とか自分の人生を
生きていくというとき、

その営み自体が、福祉とは何であるか、
援助・支援とは何であるかということの
体現であるような人生を歩むことは
できるかもしれない。



私は自分自身の境遇を呪いたくなることもあるけれど、
そういうことをしても、やけっぱちな心を鎮めるための
一時的な休息になるほかは、
あまりよい意味で生産的とはいえないかもしれない。

また、自分の努力で多少とも取り戻せる健康
というものもあるだろう。

けれど、究極的に回避できない境遇ということに関しては、
それを自分が生き抜くということが、
自分にとってどういう意味をもつのか、

また、私とかかわる他者にとって、あるいは、
もっと大袈裟に言えば、社会にとって、
どういう意味をもつのか、

もっともっと言えば、
たとえ誰も自分の苦心惨憺を見届けてくれなくとも、
超越者(神や仏など)は見届けている…
ならば私はどう生きるのか、という、
より大きな視点から、その境遇への態度を、
捉え直してみる必要があるだろう。

この超越者からの視点は、決して仮設的捏造ではなく、
絶対の孤独において、最大のリアリティにして、かつ、
最大の慰めであるような何かなのだ…。

(続く)



(続き)


自分の置かれた境遇というのは究極的に
変えられない部分もあるだろうし、それが、
苦しみにほかならないこともあるだろう。

けれど、その境遇から自分の使命とか、
あるいは、使命という大袈裟な言葉や自覚ではなくとも、
ささやかなギフトを見出すことができれば幸いだ。

そのギフトは、自分自身に与えられたものとして
発見されたものだろうし、また、それゆえにこそ、
それをまた、誰かに、受け売りでないギフトとして
ギヴすることもできる。

そうして、人生から発掘した宝を、互いに分かち合えるなら、
それは、巷にいう、福祉・援助・支援という概念の
狭隘さを超えていける何かを
もしかしたら、含有しているのかもしれない。



変えられない境遇を受け入れるとか、
そこから人生の意味のようなものを見出す
ということは、何もその境遇を、愚痴もこぼさず
忍従するということを強いることではない。

時には涙し、情けなさに打ちひしがれ、
愚痴も言いたくなる。それはそれでよいと思う。
変えられることは変えられるように、
最大限努力もすればよいと思う。



しかし、「変えられない境遇」といえども、
それは、諸行無常・諸法無我という真理から見れば、
相対的なものだと思う。

この「変えられない境遇」というレンズを
上手く組み合わせれば、
これまで見えなかった真理が見えてくることもある…。

そこに開ける視界は、何物にも替えられないものであるに違いない。



「たとえ全世界を手に入れても、
自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコ8:36-37)

という言葉が聖書にもあるが、
自分の意のままに生きられるがゆえに、
自分の「命」を失うということもあるだろう。
無論それは、生物としての命ではない。

(ちなみに、「命」は、英訳では、life, soul 独訳ではもっとあからさまに、
Geist 霊 Seele 魂 となっていた。)

逆に、ある境遇が不可避であるがゆえに、
「全世界を手に入れる」という野望を捨て、
かえって、自分の命を見出す者もいるだろう。

それは、自分の本当の命であるかもしれないし、
自分を超えて本当であるような命なのかもしれない。



私自身としては、このような生活と人生が、
改善の余地はあるとはいえ、目下与えられている以上、

この「境遇」というレンズを試行錯誤して組み合わせ、
真理、あるいは命を見出す「望遠鏡」とすることができれば、
それにまさるものはないだろうし、

そのとき、「命」のありかたは、それこそ、
望遠鏡が天動説を覆したように、
コペルニクス的に転回しているのかもしれない。

もし、福祉の根源を問うというのであれば、
そこにこそ、つまり、境遇と命の捉え方を、
共に探り見出し分かち合うところにこそ、
その礎の一つが置かれてしかるべきでは
ないだろうかと感じる。

そのような思いをどこかに抱きつつ、
冴えない毎日ではあるが、めげずにやって行きたいと、
自分を励ましているところである。



(本当に、長文失礼しました。m(_ _)m
そして、お読みいただいた方、ありがとうございました。)
>>[002]

>超越者からの視点は、決して仮設的捏造ではなく、絶対の孤独において、最大のリアリティにして、かつ、最大の慰めであるような何かなのだ…。


このような宗教的な視点、つまりちっぽけな自分を大いなる者の目で振り返るということは、心を常に新たにするのに本当に有効な手段ですね。
忘れてはならない大切なことだとあらためて思わされました。
>>[003]

>ある境遇が不可避であるがゆえに、「全世界を手に入れる」という野望を捨て、かえって、自分の命を見出す者もいるだろう。


自分が入れられていると思っている牢獄が、実は自分の目を研ぎ澄ますならば、神様からの最大のプレゼントかもしれない!
そう気づくことは、いつだって、誰にとっても、物凄い活力を生み出しますね。
>>[4]

コメントありがとうございます。

自分自身、必ずしも決定的な確信を抱いているというところまでは
行ってないのですが、とはいえ、
フランクルの著書を読む中で、その「超越者からの視点」が、
人間が自己の尊厳を、その境遇にもかかわらず不可侵のものとして
保つうえで、決定的に大切なものであると感じました。

『それでも人生にイエスと言う』において、

「宗教的な人間は、生きている実感、いわば「存在理解」が優れていて、
もう一歩先に進みます。
人生を仕事と心得ている人たちをしのぎます。
課せられた仕事だけではなく、いわば、仕事を「課す」、または「課した」
決定機関である神格をも知っています。
いいかえれば、宗教的な人間は、人生は神が課した使命だと
知って生きているのです。」(p58)

ということばがあるのですが、あえて私から付け加えることなど
何もないです。生きていく中でそう思えるような「存在理解」を
見出していくほかはありません。



その点、コメント5に関しても同様で、いかなる境遇においても、
その「存在理解」そして、仕事を「課す」存在への感性は、
「自分の命」(小さな命の殻)からある意味で解き放たれたとき、
ギフトとして発見されるのかもしれませんね。

そうした発見に基づいて生きて、結果的に大きな
「業績」(目に見える業績)を残せなくとも、
そういう「存在理解」をもって、人生を生き抜くということ自体が、
何よりの業績であるようにも思います。

どこに書いてあったかぱっと思い出せないのですが、
フランクルは、苦悩は業績である、というようなことを
言っていたように思います。
もちろん、それはマゾヒズムではないと断りも書いてありました。

苦悩することで人生の価値が失われてしまうのなら、
人生の価値は、苦悩する境遇にあるかないか、という、
まったく運・不運か、外的環境次第であって、
人間の尊厳を語る余地がなくなってしまうかもしれませんが、

フランクルの思想は、そうした人生観に真っ向から対峙し、
たんなる感情論ではなく、深い哲学と洞察を伴って
人間の不可侵の尊厳と自由を訴えつつ励ましてくれるものがあるので、
なかなか汲みつくせませんが、その都度学ぶところがあります。

長くなってしまいました。コメントありがとうございます。
>>[7]


こんばんは。

まず最初にことわるとすれば、

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=118214&id=49959647

こちらのコメント77に引用したのですが、



「ところで、『ならば意味を実現するためには苦悩が必要不可欠なのか』
と聞かれるなら、私は『とんでもない』と答えます。

意味を実現するために、苦悩は必要不可欠ではありません。

私が言いたいのは、意味は、苦悩にもかかわらず可能である、
それどころか、苦悩によっても可能であるということです。

苦悩の原因を取り除くことができるなら、
そうすることが唯一の意味ある行為なのです。

その原因が、生物学的な原因であったり、
心理学的な原因であったり、政治的な原因であったりしますが、
それを取り除くことができるなら、そうすべきなのです。

さもなければ、マゾヒズムになります。
マゾヒズムはけっしてヒロイズムではありません。

人間は、状況を変えることがまったくできないときにだけ、
自分自身を変えるように、自分自身の態度を変えるように
呼びかけられるのです。

そしてまた、この態度の変更によって、
人間はどういうことができるものであるかを証するように、
すなわち、人間は、自分個人の悲劇を人間の勝利に変えることが
できるものであることを証するように、呼びかけられているのです。」

(V.E.フランクル/F.クロイツァー 著 山田邦男 松田美佳 訳
『宿命を超えて、自己を超えて』(春秋社 1997)110頁)



とある通り、苦悩を勧めたり、マゾヒストたれ、と言っているわけではありません。

人生には、避けられる苦悩と避けられない苦悩があり、避けられる苦悩は避けるべきだし、「べき」などと言わなくても、普通はそうすることでしょう。



しかし、「避けられない苦悩」というものは、運命とか死も含めて、「人生そのものに属する」とフランクル先生は言います。

つまり、「これがなければ、自分の人生は『本来の』人生なのに」というようなものではなく、人生そのものであるようなものであって、それを差し引いて人生を考えるようなものではないというわけです。

そして、それが意味なり価値なりをもつのは、「その避けられない苦悩を背負った人が、それを引き受けて耐えて生きるということは、その人の人生を生き抜くということにほかならないから」、ということになるのかもしれません。



また、そうした苦悩を生きるということは、「避けられない」という点では、受動的であるかもしれませんが、それに対して、どういう態度で生きるかということに対して、なお自らの自由があって(精神病の場合でもそれは「ある」*)、それ(どういう態度で生きるかということ)を責任をもって決断し選びとることの中に、人間の尊厳が実現されているということになるのかもしれません。

(フランクルは精神科医ですから、精神病を抜きに考えているわけでないことは無論です。メカニズムとしての心である精神は病みますが、フランクルの言う「精神」は、人間精神の不可侵の領域を指しており、精神病においても「精神」は病まない、とされています。)


(続く)


(続き)


フランクルは、『夜と霧(新板)』の中で、(今手元に本がないので、記憶に頼りますが)、

「収容所から抜け出せたら、人生の本番が始まる」と、(言い方は悪いですが)愚痴をいう仲間に対して、

「人生はいつでも本番である、たとえ、収容所の中においても。」
という立場を取っていたようです。

なぜなら、「抜け出せるか抜け出せないか、つまるところ、運次第で人生の価値が決まってしまうような人生なら最初から生きるに値しない」

というようなことも書いてあったように記憶しています。

(逆に言えば、「運次第ではなく、人間の態度と自由と決断によって価値を実現できるのだ。」といえましょう。)



苦悩するのが偉大なのは、

「それが避けられない以上、自分の人生であり、それに耐えることを精神の自由において決断的に選択し、自分の人生を生き抜くこと」

が、人間の「精神」の本領を発揮し、人間の尊厳を実現しているからである、

といえるかもしれません。

また、病そのものに勝てず病死した人でも、その病と苦しみを運命として引き受けて、自分の人生を全うした人は、耐え抜き闘い抜いた真の勝者であり、その意味で偉大であるともいえるかもしれません。



以上は、私の個人的なコメントであり、「 」部分は、フランクの言葉でない部分や、記憶による部分もありますのでご注意ください。

ただ、同じく個人的な見解を付け加えるなら、この苦悩することの偉大さということは、自分自身がさるべき試練にあった時に、いろいろな人に支えられつつ愚痴もこぼしつつではあるかもしれませんが、結局は本人が自覚する性質のものであるとも感じています。

なので、本来は論理を尽くして説明すべきなのかもしれませんし、フランクル自身が試みているとはいえ、私の言葉ではこれ以上及ばないというのが正直なところです。

「どう思われますか?」 という問いに対する、あくまで個人的な見解と思っていただければ幸いですし、説明しきれていない部分は、私の体験と理解と知性の今のところの限界だと思ってください。
>>[011]

とても考えさせられる、学ばされる内容でした。
どうもありがとうございます。
m(__)m
まだ『夜と霧』を読み始めたばかりですが、
北朝鮮により拉致された人たちもそれまで暮らしていた日本における日常から、突然暴力的にまったく違う所に放り込まれて、アウシュヴィッツに到着した人たちと同じような体験、同じような気持ちだったのじゃないかなあと悲しくなりました。

また、毎日毎日看守に殴られる人々が殴られることを何とも感じないような無感覚状態に自分の心を閉じ込めて心を防御するように、

親に虐待される児童や、
同級生にイジメられる子供や、
夫のDVを受ける女性も、
そういう心の防御反応におちいるのかもしれないと想像しました。
社会に適合できること、そしてさらに面白おかしく暮らせることが心理療法の目的として設定されるなら、それはおかしいとフランクルは異を唱える。
なぜならそれはしばしば形而上学的軽率者を作るだけになるからだと。
人生の意味がわからず悩み苦しんでいる者も、手元の仕事が忙しかったなら、この問題にくよくよ悩むことなく、その分、過ごしやすいかもしれない。
しかしフランクルはそんな処方よりもむしろ逆に、一度姿を現した実存的危機へと徹底的に追い込んで、この問題(すべては空しく意味なんて無いんじゃないかという問題)に取り組ませるべきだと言う。
「『どんな犠牲を払ってでも苦しみからの解放を優先すべきだ』というのは決して医師の行為規範とはなりえない。
精神分析で言うところの快感原則は、あくまでも一つの心理学がうたう原則に過ぎず、治療の原則とされてはならない。
快感原則は心理学の原則としても私は支持しないし、まして治療の原則とされていいどころか排除すべきである。
いかなる場合も医師はどんな犠牲を払ってでも幸福感の実現こそを目指すべきだ、という考えには明確に反対する。すべてを犠牲にして実現された幸福感など、部分的には安楽死と同じである。
確かに苦しみから解放してあげることは医師の仕事の一部である。しかし、患者が自己を放棄する羽目になってまでも苦しみからの解放を第一義とすることなど許されないと思う。
不快感を追い払うこと、苦しみを無くすことが第一義とされ、実存的に意味のある苦しみが隠れているかもしれないその不快感が第一義的にあわてて取り除かれるとしたら、それは患者に自己放棄を強いることと同じだ。患者は自己を失う羽目になってしまうのだ。」

(真行寺功さんによる邦訳を元にして、言い回しを大分、変えております。)
>>[16]

これはフランクルのすばらしい洞察と精神的態度だと思います。
ただ、これと、無意味な苦痛は積極的に取り除かなくてはマゾヒズムに陥る、という議論はセットで提示しないと、読み手に誤解を与える可能性もあると思います。
本質は、意味のあることを大事にする、苦しみや苦労の中にも、積極的な創造や体験の中に見出すのと同じように意味を見出す、ということだとは思いますが。

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