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ヴィクトール・E・フランクルコミュの「人間の本質は他者への愛」について

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はじめましてやや欠け月

フランクルは、人間の素晴らしい本質は他者への愛といっています。
これは本当だと思いますか?

収容所で、自分も瀕死の状態だというのに隣人にパンを与えた人をみた、とフランクルは書いています。その上で、人間は、自分が窮地に追い込まれた場合でも隣人にパンを与えることができる、と言います。

しかし、現代において、このような人を見かけたことありますか?あせあせ(飛び散る汗)

私はフランクルの言葉を信じているのですが、それを否定する人もたくさんおります。
みなさんどうお考えでしょうか?

コメント(14)

はじめまして。

すいません、回答ではないのですが、個人的にとても興味深いトピックです。
話が飛びますが、我々生物は、利己的な遺伝子の乗り物に過ぎない、という論もありますよね〜。
それによれば、生物の本質は、遺伝子の増殖である、とされています。
その理論からすれば、愛という概念も、寂しいことながら究極的には
そこに行き着くことになってしまいます。。
ま、利己的な遺伝子説も、ひとつの仮説にしかすぎないのですが、
私はフランクルの考え方が好きなので、この説を大学の講義で知ったときは
悩みました。ほんと人間ってなんなのでしょうね〜
なんか変なコメントになってしまったかもしれませんが、
とにかく、この議論が深まっていくことに期待しています。
こんにちは。

私もフランクルの考え方や日々の仕事に参考になるので訳されている本は一通り拝読いたしました。生前では日本でも公演をされたり、看護ではどのような本を推薦されるのかなどおっしゃったりしていました。

訳されている本の中には沢山の人間の姿を書かれています。特に収容所での体験には、発狂して鉄格子に向かって走る人、仲間を売ってナチスの仲間になり監視役になる人など。フランクル自身妻が殺された時、妻のレバーは食べられたらのではないのかという思考に苦しんだ事。
私が思うには、絶望の中で隣人にパンを与える行為も素晴らしい事だと思います。それにその行為を語り愛だと語る事も愛なんでは、なんて思います。恵まれた環境の中で生きているので、窮地に陥る事のない日々、有り難い事です。
この時期になると毎年、神戸の震災についてのドキュメントがあります。今現在でも直視できません。恐ろしいんです。震災の事を知らない人には見て貰いたいとは思っても過去に遭遇した出来事を語るなんて到底できません。だから私はいつも自分が見た、経験した、などについて話される方々には頭が下がります。話しがそれてしまいましたが、パンを与えた方もまさか自分の行為を語られているなんて思ってもいないでしょうね。(笑)フランクルの言われた事に賛成、反対であっても全てが愛ではないでしょうか?語る人がいないと周囲に伝えられないでしょうし、反対派でも、フランクルの何が反対であるなんかと発言するのにも語り手になるのではないのかな?なんて思います。
どんな形にしろ意味があって、大きくまとめて愛としたのでは?
こう見るとあちこちに愛があると思います。
こうしてトピしている方も愛があるんでしょうね。人は生きているかぎり愛はあるんでしょうね。
こうも愛、愛、と書いて解らなくなってきました。(>_<。) 頑張ってください。
こんにちは。

明星さんのコメントにおける問題意識の少し重なるのですが、
フランクルの『苦悩の存在論』という本がありまして、

その中で、生物学主義・心理学主義・社会学主義の三つが、
人間の尊厳に反するニヒリズムであると批判されています。

つまり、私なりに、ごく簡単に説明すると、

生物学主義とは、
人間が、遺伝子とか、生理学とか、本能など、生物学的なメカニズムによって
操られている存在に過ぎないとする人間観であり、

心理学主義とは、
人間が、脳のメカニズムなど、機械としての心の操られているに過ぎない
存在であるとする人間観であり、

社会学主義とは、
人間が、社会的な産物であって、社会的に形成され社会的に
コントロールされている存在に過ぎないとする人間観である
ということができると思います。

フランクルは、こうした人間観を、
人間の尊厳を侵すニヒリズム(虚無主義・反人間主義)として批判し、
人間の自由と尊厳を擁護しようとしました。

では、人間が、生物学主義・心理学主義・社会学主義といった
ニヒリズム的な人間観に還元できないとしても、
なぜ、自由や尊厳の存在を主張することができるのでしょうか。


さて、そこで、本題の、「最後のパン」の話に戻りますと、
まさに、囚人の最後のパンこそが、その自由と尊厳を
証明しているように思うのです。

つまり、生物学的にも極限状態・精神的にも極限状態・
社会的にも極限状態、という中において、

最後のパンを与えるという行為は、
ニヒリズムからは、説明ができない、
人間精神の独自の次元、すなわち、自由と尊厳を
指し示しているものと思われます。

確かに人間は、自分が一番大切で、また、
本能や社会の束縛などにとらわれて行動していますが、
またその束縛や条件に縛られない主体性を有している
ということが、

その囚人の行動によってフランクルにおいて確信された
ということかもしれません。


ところで、問題は、現代において、そういう人間に
お目にかかれないということですが、
その原因の一つは、上記のコメントにもありましたように、
現代が、極限状態からは程遠いということもあるかもしれません。
(コメント4の続き)

しかし、私にとってより本質的な問いに思われるのは、

?実際にそういう人間にお目にかかれるかということよりも、
 人間が、そもそも、可能性として「最後のパン」を
 与えうるような存在なのかどうか

?たとえ実際にそういう人間にお目にかかれなくとも、
 他ならぬ自分自身がどういう人間でありうるのか

ということのように思われます。


?に関しては、世知辛い現代において、
 最後のパンを与えるほどの人間がいるとは思いにくい部分もありますが、
 最後のパンほどではなくても、
 良心の呵責とジレンマの中で、
 「やっぱりこんなみっともないことはできない」
 「少しでも誰かの力になれるように、愛に生きたい」
 と、多少なりとも願っている人が、
 たとえ目立たなくてもいると思います。
 そういう人にもし出会えたら、砂漠の中の一杯の水のようではありませんか。

?に関してですが、
 私自身も含めて、ひとりひとりが、
 実際にどういう生き方を選択するかという極めてシンプルな問題に
 行き当たると思います。

 つまり、「人間はどうせ死ぬのだから」というとき
「だから、できるだけ奪えるものは奪って利己的に生きよう」
と、思って、そういう生き方を現に選択することもできるし、

逆に、
「だからこそ、自分の欲望を差し置いてでも誰かの為に何かの為に、
 つまり愛にいきられるように心がけよう」
と思って、そういう生き方を選択することもできます。

そういう選択の余地が残されていることが、
人間の自由であり、尊厳であると思われます。

そして、究極的には、そうした自由の領域は、
『無制約的人間』という著作のタイトルにもあるように、
いかなる制約においても奪われることがないということが、
フランクルの主張であり信念であると思うのです。


そのようなわけで、私自身、とてつもない利己的な未熟者ですが、
フランクルや、その囚人の精神を見習って、
少しでも、そういう生き方に近付けることができれば
と思っております。それもまだ真剣さが足りませんが・・・。

ですので、実際にその囚人のような人にめぐり合えるかどうか
ということよりも、

人間は、可能性として、いかなる制約下においても
その囚人のような愛を発揮しうる存在であるということ、

そして、そうした思いのもとに、自分自身も
そういう存在であれたら、と願って生きること、

そういうことができれば、

ほかならぬ Ciel さん自身が、かの囚人のごとく、
絶望した人間や、真摯に生きんとする人間や、
その他、あらゆる苦境にある人間に対して、
たとえささやかであっても、
希望と愛を与えられる存在になれるのかもしれません。

そうした生き方の余地(選択の自由)が
自分自身に与えられているということは、
素晴らしいことだと思うし、
また同時に、厳粛なことでもあると思います。


本当に、私自身、偉そうなことを言えたものではないことは
重々承知しているのですが、
人間に対して希望を持ちたいと思う人の力になれれば
と思うばかりです。

本当に恥知らずですみません。
コメント4に誤字がありすみません。コメントは修正できないので、
ここで訂正します。

・明星さんのコメントにおける問題意識の(→に)少し重なるのですが

・人間が、脳のメカニズムなど、機械としての心の(→に)操られているに過ぎない

文脈的に分かると思いますが、ちょっとみっともなかったので
修正させてもらいました。失礼しました。
皆さま参考になります!とくにsplashさんのコメントは私の問題意識と共鳴しました。
恥ずかしながら『夜と霧』しか読んだことがなかったのですが、『苦悩の存在論』読んでみたいと思いますぴかぴか(新しい)
明星さま

なにか共有できる部分があるようで、うれしく思います。

フランクルというと『夜と霧』の知名度が高すぎて、
彼が本来、独自の精神療法を編み出した精神科医である
という点が意外と注目されていないようですが、

かれの人間観と精神療法(ロゴセラピー・実存分析など)は、
何よりも、「生きる」ということそのものを力づけ促し励ますものであると、
思っているので、そうした点がもっと知られたら、

今、生きるということに希望を見出せない人も、
大いに勇気が与えられるのではと思っています。

私もまだまだ不勉強ですが、同じ学ぶなら、
「生きる」ということを根本から促す思想に学びつつ、
自他共に、心豊かに生きられたらよいな、と思っています。

お互い、読んだ本などあれば、また別のトピックなどで、
報告したり論じたりできれば、いいかもしれませんね。

それでは。
人間は実存の次元においては、常にすでに世界や他者を見回す者として存在している。そうしたありようこそ実存の根本体制であって、この上に初めて世界から引きこもったり、他者を無視したりする様相の可能性も成り立っている。
すなわち私たちの実際の存在の仕方の様相は、まったく井の中の蛙だったり冷血人間だったりすることが可能なわけだが、
実存そのものの根本体制は、
常に世界を気にかけ、他者を気にかける構造となっていて、
その十全なる発揮があるか、それともそれが機能不全を起こしているかというさまざまな様相を呈することになる。
>>[004]

『苦悩の存在論』はフランクルがその考えの核心部分をできるだけわかりやすく説明した著書のようですが、
同時に極めて哲学的な部分もたくさん含んでいて、単なる本人による解説書におさまらない、読み手に深く考えることを強いる書でもありますね。
ハイデガーやニーチェやブーバーの思想が常に重低音で響いており、フランクルの吸収したさまざまな時代思潮が知られるとともに、
フランクルが第一級の知識人でもあったことを感じずにいられません。
トピ主が言われるように、私たち人間がお互い苦しい状況でなおも自分の欲より目の前の、より苦しそうな隣人に分け与えるという心の動きが果たしてどこでもありうることかどうかというのは、とても難しい問題ですね。
実は僕は『夜と霧』はまだ初めのほうをかじったきりなんですが、宗教心の篤いユダヤ人だからこそそういう行いができたのかなあとも思ったり、いやいや、本当にともに酷い苦しみの中に突き落とされ、心を通わせ合えば、宗教心の有る無しとは関係なしに支え合う潤いこそが唯一の真の幸せだということに気づかざるをえないのかなあと思ったりもします。
>>[13]

こんばんは。最近は、コミュニティへの書き込みはほとんどしていないのですが、このように見返していただいて、何か感じていただけるものがあるなら、うれしく思います。わざわざありがとうございます。
いつになるかはともかく、また何か思うことがあれば、書き込んでみようと思います。

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