■コーラン批判ビデオに対抗、イランNGOが聖書批判ビデオ
(読売新聞 - 04月06日 22:08)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=453291&media_id=20
いまだに。
私の母校の高校の図書室において、コーランの貸し出し名簿には、20年以上を経ても、私の名前しかないらしい。
聖書の方は何人か並んでいるというのに、コーランの方はさっぱりというのはどういうわけなのか。
このへんにも、我が国においてのイスラム教に対する偏った見方の原因があるのではないだろうか。
知らないから、あれやこれやと余計なイメージを付け足して、自分に都合良く解釈してしまう・・・
今回のニュースは特に、コーラン批判ビデオを制作した側にその愚かしさが見受けられる。
さて、聖書といえば。
高校時代に漫画を描いていた友人が、私のすすめたペール・ラーゲルクヴィストの「バラバ」(岩波文庫)に非常に感動したらしく、バラバを漫画にするのだとはりきってせっせとネーム作りに励んでいた。
バラバといえば、犯罪者で、イエスが磔になる代わりに恩赦で釈放され、改心して、キリスト教の布教につとめ、殉教したと伝えられているが、ペール・ラーゲルクヴィスト描くバラバは徹底的に無骨な犯罪者として描かれている。
無骨ゆえに、イエスが磔になったこと、自分が恩赦で釈放されたことがうまく呑み込めずに、ただ、自分の身代わりになったイエスが気になってしょうがなくなる・・・
そのへんの、意識変容ぶりが、あまりにも人間くさくて、読んでいて私は何度も涙した。
友人が完成したというので、早速ネームを読んでみたら。
ユダヤ人であるはずのバラバがアラブ人になっているのに驚いた。
問いただしたら、アラブ人である方がしっくりくるとのことだった。
さらに突っ込んだら、別に宗教上の深い考えではなく、バラバの犯罪者ぶりに、アリババの盗賊のイメージがぴったりきたからだとのこと。
呆れてしまったが、聖書もコーランも改編、また改編という過程を辿ったことを考えると、バラバがユダヤ人であろうと、アラブ人であろうと、たいして違わないのではないかと思うようになった。
だから、ラストでイエスと同じく磔になったバラバが、闇の中の何かに向かって、自分の魂をあんたに委ねると言い残すというのが、聖書で言うエホバであろうと、コーランで言うアッラーであろうと、それが絶対的な存在であることには間違いないのだから、呼び名が違ってもたいしたことはないなと。
もし、ペール・ラーゲルクヴィスト本人がこれを聞いたら、驚きつつ、そしてひそかに微笑むことだろう。
重要なのは、人間個人の魂の救いなのだから、神などただの言葉上の都合にすぎない。
友人の漫画「バラバ」を思い出しつつ、今回のニュースに対して、このあたりをビデオにすればいいのにと意地悪く思った。
でもほんとうに。
聖書やコーランはただの書物である。
その書物の中身は知っていればいいだけのことで、批判されたからとムキになるのはむしろ自らの魂を罪にまみれさせる結果にならないだろうか。
敵は決して外にいるのではなく、常に自らの心の内にいるのだと思えば、宗教の本来の教えが成り立つと思うのだが・・・
バラバは確かに、多くの人間を殺めた大悪党だった。
しかし、わけもわからずに釈放されたことをきっかけに、自分の心に芽生えた何かと死ぬまで闘うはめになった。
この姿に、我々は多くを学ぶべきである。
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