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2006年01月12日05:16

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「耽奇館主人の日記」自選其の八

2003年07月21日(月)
ノーマルとアブノーマルを共有するということ。

最近、私が好んで被っている黒いキャップには「Technician」と白文字でプリントされている。横には黒いピンバッジがついており、そこには裏返しになった「Normal」の文字がプリントされている。アブノーマルを意味したデザインだ。同時に、ノーマルもイケるという意味合いも兼ねている。
何事も陰陽なのだ、私は表裏一体こそが原理だと考えている。
SMにおいても、私は基本的にサドだが、マゾの悦びも理解している。
だが、私は時々考えるのだ、表裏の間にも、もう一つの世界が存在するのではないかと。それは二元に生きる者がしばしば幻視してしまう一元の幻影であり、一般社会のうちにノーマルに生きる私と、アブノーマルな世界に耽溺する私が共有する、言葉では存在を確認出来ない、第三の極に見え隠れする私自身だ。
かつてライオンは、ライオンという名称を与えられる以前は、人間にとっては悪霊のような不吉な恐怖の対象だった。強大な牙と爪を持ち、貪欲に肉を食らう化け物。しかし、ライオンという言葉を与えてしまうと、怪物は正体を表し、人間にとっては脅威ではなくなり、精神的にも肉体的にも征服出来る動物に成り下がってしまったのだ。
それと同じように、人間自体にも、言葉で駆逐される以前の脅威的な存在が見え隠れするはずなのである。
ヨーロッパでは両性具有(アンドロギュノス)として表現されがちだが、私としては三位一体という言葉がより近い表現なのではないかと思う。キリスト教風に言うと、エホバがノーマルであり、キリストがアブノーマルであるとすると、父子の共同神性である聖霊が名状しがたい脅威的な第三の極だ。聖霊がはっきりした姿で表現されたり、確認されたりしていないのと同様、人間の心もまだまだ未知の領域を秘めているのだ。
以下に私が未知の領域を忘れないために記憶している言葉を引用する。イギリスの作家アーサー・マッケンの「白い人々」(1899年)の一節だ。

真の罪人は聖人と同じように、大部分の人間がそこに安住している普通の境涯を飛び越え、別の領分へ入っていこうとするごく少数の人間なのである。そして聖人と真の罪人との違いは、聖人がアダムとイヴ以前にあった人間の法悦を取り戻そうと努力するのに対し、罪人は天使だけのものである法悦と知識を我が物にしようと努力するところにある。こうした越権行為は例えて言えば、犬や猫が突然口をきいたり、薔薇の花が歌い始めたりするようなもので、同様の戦慄を我々に感じさせずにはいないだろう。

今日はここまで。
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